後楽園ホール (三年前)

▼タッタッタッタッ

 スポーツウェアを身にまとった蓮は、慣れた足取りで都会の喧騒の中を走っていた。

 蓮が背負っている小さなリュックは、身体にぴったりとフィットしており、走る際の負担を最小限に抑えている。足は熟練した動きでしなやかに動き、リズムをとりながら人ごみを器用にかわしていく。

 水道橋駅を通りすぎた所で、手元のストップウォッチをチラリと見た蓮は、満足そうな顔でようやくスピードをゆるめた。








▽〈蓮  +25㎉〉








▼飲み物を買った蓮のすぐそばを、髪の毛をゴムで縛った四歳くらいの少女が、母親と手をつないで歩いている。

 彼女は自販機のそばで止まると、手を振りまわして駄々をこねはじめた。

「ぴんくのフリフリが、きたかったの!」

どうやら今日の服装が気に入らないようだ。

 蓮はスポーツドリンクを飲みながら、ぼんやりとその様子を眺めた。

「ぜったいあれが、よかったの!」

 少女は大声で主張している。

「あれはもう三日連続で着ているでしょ。毎日同じだとおかしいわよ」

 母親は笑いながら優しく少女をたしなめた。

「『かわいいね』って、いわれたいから……いわれたいんだもん!」

 少女はつぶらな瞳をいっぱいに開いた。目に涙がたまっている。

「昨日はみんながいっぱい『かわいい』って言ってくれたもんね。でもね、ずっと同じのを着てたら言われなくなっちゃうんだよ」

「……」

「それより、今日はでんぐり返しが二回も連続でできたでしょ。ママびっくりしちゃった。先生も『すごい』って言ってたね」

「…………うん!」

 少女は急に元気になると、手をつないでズンズン歩き出した。








▽〈少女  +70㎉〉








▼蓮は微笑みながら少女を見送った後、タオルで顔の汗をぬぐうと、後楽園ホールの入口をくぐって中へ入っていった。

 会場内は興奮と緊張が入り混じった独特の雰囲気に包まれている。

 一部の熱心なサポーターは早くも応援グッズを手にし、試合開始を心待ちにしているようだった。

「お~、蓮! 久しぶりやなぁ」

 人ごみのなか短い髪をドレッド風に編みあげた、いかつい男が近づいてきた。

 龍二だ。

 筋骨隆々とした肩に金色のボクシンググローブをかけ、シャツの袖からはチラチラとトライバル系のタトゥーが覗いている。

「車で来たんか?」と龍二がたずねると、蓮は爽やかな顔で「走ってきた」と答えた。

「さすがやな」と龍二は口角を上げて笑った。

 龍二は親指ですぐ近くの柱を指差した。そこには赤い髪をした高校生くらいの女の子が立っている。

「あ、妹さん! こんにちは。ずいぶん可愛くなったね!」

 蓮が笑顔で手をふると、女の子は小さく頭を下げながら近づいてきた。

「そやねん。もうすっかりべっぴんさんやねん」

 龍二がふざけながら妹の肩を抱く。

「アホなこと言ぃなや。大谷さんがお世辞を言うてくれたんやんか」

 妹は焦りながら龍二を突き放した。

「いやいや、本当に可愛いですよ。もう高校生?」

 蓮は驚いたような顔をしてみせた。

「そやそや。モテまくってかなわんらしいで。学校でも、よぉ告白されとるし」

 龍二は妹の方を見ながら笑顔を浮かべた。








▽〈龍二の妹  +270㎉〉








▼「アホ兄貴」

 と、妹は顔を赤らめてどこかへ走っていってしまった。

 蓮も微笑みをうかべてそれを見送りながら、龍二の方を振り返った。

「今日は勝てそう?」

「余裕や。もう祝勝会の予約もしてんねん。妹や後輩たちも来るし、蓮も来るやろ?」

 龍二は腕をグルグルと回してみせた。

「いや悪いけど試合見たらすぐに帰るよ。ゼミがあるんだ」

 と蓮が答えると、龍二は残念そうに肩をすくめた。

「修士課程やっけ?」

「そうそう。でも龍二も変わったよな。丸くなったよ。ボクシングのおかげかな?」

「そやな、自分でもそう思うで。格闘家になってへんかったら、まだそこら辺の奴しばいとったかもしれん」

 龍二は笑い、その場で軽くシャドーボクシングをしてみせた。

「あの頃のヤンチャさを見事に昇華してみせたよな。ストリートファイトで培った風格があるからこそ、いまの華があるんだもんな」

 蓮の言葉に、龍二はウンウンとうなずいた。

「このまえ街で、昔イジメてた奴と偶然おうたんや。わいがどうしたと思う? 声かけて『あの頃は悪かったなぁ』って謝ったんやで」

 と龍二は笑いながら言うと、壁にかけられている時計をチラリと見た。

「そろそろ時間? 頑張ってな!」

 蓮が最後の激励にと、言葉をかける。

「まぁ見ててくれや。しょっぱなからカマシ入れたるさかい」

 二人はガッツポーズを交わし、肩を叩き合って別れた。



 試合が始まった。

 龍二は自由自在にリング上を動き回る。その軽やかなステップはまるでダンスのようだ。

 相手は龍二のスピードについてこれず、されるがままだ。

 二ラウンド目に入ると、龍二は足を止め、何かを狙い始めた。

 左腕をまっすぐ前に伸ばし、小刻みに上下に動かして相手を牽制する。

 相手がその邪魔な左腕をかいくぐりながらパンチを打ち込もうとした瞬間、龍二はそれに合わせるように右カウンターをかぶせた!

 龍二のパンチがこめかみにヒットし、思わずグラつく相手。

 龍二は冷静に上下に打ち分け相手にダメージを与えると、無理をせず後ろに大きくステップして距離をとった。

 相手はいいように翻弄されている。








▽〈龍二  +370㎉〉








▼龍二が接近すると、相手は丸くなって低く構え、右の肘でしっかりとレバーの位置をガードした。

 龍二は逆側のボディーに二発のパンチを打ちながら足をスイッチし、後ろになった左足で地面を蹴る。

 龍二の放った左フックがもろに顔面にめり込み、相手は膝から崩れ落ちた!

 まさに往年のマイクタイソンのような動きだ。

 カンカンカンカン

 レフェリーがストップをかけ、ゴングが鳴った。

 試合終了。観客の多くは興奮し立ち上がって騒いでいる。蓮も立つと大きな拍手を龍二に送った。

 リングの上では龍二がロープに登り、どうだと言わんばかりの顔をしながら腕をふり上げている。








▽〈龍二  +4000㎉〉


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