記憶:原ヒロミ

リビング (一年前)

▼窓のむこうには春の新緑が芽吹いている。

 網戸から吹きこむ爽やかな風が、色あせたカーテンを優しく揺らし、灰色のエアコンを完全に沈黙させていた。

 特徴的な観葉植物があった所には、世界遺産のカレンダーが掛けられ、この記憶が一年前のものだということをはっきり示している。

 ノブ郎やノブ子の姿はどこにも見えない。


 ブオオオオオオ

 ヒロミ夫人は掃除機をかけつつ、横目でチラリとリビングの奥を一瞥する。

 まだ陽が高いというのに、テーブルの上にはポテトチップスやサキイカ、ビールの空き瓶が転がり、その横で夫の原タケシ氏がくだを巻いていた。

「今の若い者はぁ繊細すぎるんだ。何かっていうとハラスメント、ハラスメントだ」原氏は完全にできあがっているようだった。黙々と家事をこなす夫人に対し、ぶつぶつと不平を言いながら絡んでいる。「叱られた経験が無いせいかあまりに打たれ弱すぎる。そんなことでは戦争や地震が起こったら何も出来ないぞ!」

「……」 

ヒロミ夫人は何も言わず、黙って掃除機をかけている。 

「上の連中も時代に迎合するだけで全く俺の気持ちを分かっていない。まさに〝燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや〟だな。お前もそう思うだろぉ?」

 原氏は同意をもとめるかのような視線を、夫人に向けて投げかけた。

「……くんじゃくいずく……何ですか?」

 夫人は困ったような顔を向けて聞いた。

「なんだ。お前はそんなことも知らんのか」

と原氏は言い、フォークで唐揚げを突き刺した。








▽〈原タケシ  +40㎉〉

▽〈原ヒロミ  -70㎉〉








▼「スズメのような小さい奴には、白鳥のように偉大な者の考えは理解できない。という意味だぁ!」

「……考えが大きいのはいいですけど、飲み会はもう少しひかえて欲しいわ。ノブ郎のカウンセリングにも一緒に立ち会って欲しいですし」

と、夫人は掃除機を止めてため息をついた。

「なんども言っているが、飲みニケーションも仕事のうちなんだ。お前みたいに家のことだけしていればいいわけじゃない」

「でも私だって働いてますし……」

「働いていると言っても、お前の稼ぎはスズメの涙ほどのものだろう。時間がないなら辞めてもいいんだぞぉ」

 原氏は言うと、ナイフでサラミの塊をぶった切った。








▽〈原タケシ  +25㎉〉

▽〈原ヒロミ  -90㎉〉








▼「俺たち男は毎日挑戦を続けているんだ。ライバル企業との駆け引きや社内での意見の衝突、そして顧客との真剣なやり取り。どこに行っても試練が待ち構えている。お前のやっている気楽なパートとは訳が違うんだよ」

「……」

 ヒロミ夫人は完全に沈黙し、雑巾で窓を拭きはじめた。

「生活費はすべて私が稼いでいるんだ。もしお前がそれくらい稼げるなら、私が仕事を辞めて家事や子育てに専念してもいい」

「……」








▽うーん。

 これはもう手がつけられませんね。

 年齢を重ねてはいるものの、原氏はまだ餓鬼(こども)のままのようです。

「うちにも同じような老害がいるな。原課長のようなモラハラ人間はどうして出来あがるんだ?」おやおや、そうですか。

 刑事さんもなかなか苦労されているようですね。

 モラルハラスメントの背景には、長い時間をかけて形成された要因が絡み合っています。

 ええ。

 順を追って説明します。


 私達コンピューターと違い、人間は生きていく過程で特定の思考パターン、いわゆる「思考のクセ」が形成されるようです。

 これがクセモノです。

 平均的な日本人男性の人生というのは、子供の頃は腕力、青年期は学力、大人になったら経済力がものをいう、プライド㎉の奪い合いの連続です。

 そこで傷つきながら、勝ったり負けたりを繰り返しています。

 そうやって日々を過ごし、歳をとっていきます。

 長いあいだ勝負ごとの中で生きていると、対人関係を〝勝つか負けるか〟でしか考えられなくなってきます。

 そして下手をすると、この思考のクセを家庭の中にも持ち込み、妻に対しても〝倒すか倒されるか〟〝支配するか支配されるか〟という二元的な考え方に陥ってしまうのです。

 家庭内のモラハラというのは、このような背景から発生していきます。

 

「原氏のようなモラハラ人間は、どうすれば更生できるんだ?」うーん。

 残念ながら無理ですね。年齢的に完全に手遅れです。

 若者なら脳に柔軟性があるので、努力や環境によって変わる可能性がありますが、原氏くらいの歳ではほぼ不可能でしょう。

 年齢を重ねると人の考え方はほぼ固まってきます。私たちアンドロイドのように、〝インストール一発で仕様変更〟というわけにはいかないのです。








▼飲むだけ飲んだ原氏はソファーに寝転がると、大きなイビキをかき始めた。

 それを見たヒロミ夫人はよそいきの服装に着がえ始めた。

「ぐごー ぐごー」

 だらしなく口を開けて眠る原氏をよそに、夫人はそっと家を出ると都心行きの電車に飛び乗った。

 平日の昼間ということもあって、電車の中はかなり空いている。

 夫人はシートに座るとバックの中からスマホを取り出した。自動でオススメ(レコメンド)された画像が次から次へと現れてくる。

 お金持ちが豪華な食事を楽しんでいる画像や、素敵なプールサイドではしゃいでいる動画が、次から次へと現れては消えて行く。

 夫人は瞬きをすることも忘れ、スマホの画面を見つめている。








▽〈原ヒロミ  -80㎉〉








▼夫人は大きなため息をつくと、今度は女性用のネット掲示板をひらいた。

 そこには社会への不満・夫への愚痴・有名人への批判など、さまざまな恨みつらみが書き込まれている。

 夫人の親指が高速で動き始めた。掲示板を次々とスクロールしながら、同じようなネガティブな投稿を繰り返していく。








▽〈原ヒロミ  +30㎉〉








▼電車が駅に着いた。

 表参道に降りたった夫人はそれまでとはうって変わり、颯爽とした足取りでストリートを歩いていく。

 ヒロミ夫人は一件のブランドショップの前で足を止めた。慣れた様子で自動ドアから中に入っていく。

 店内に一歩足を踏み入れると、ドレスアップした美容部員が上品な笑顔で彼女を迎え入れた。棚には最新のバッグコレクションやエレガントなドレス、洗練されたシューズなどが美しく陳列されている。

「ご予約のお品物でございます」

「ありがとう」

 洋服を受けとった夫人は、すぐ横にある香水コーナーで足を止めた。

「こちらは今春の新作でございます」

 背筋を伸ばした店員が、穏やかな口調で声をかけてきた。

「あら、そう」

 夫人は目を薄く開け、美しく飾られた瓶をながめた。「たまには違ったものを付けるのもいいかもね」

「香りはその用途によって使い分けることをおすすめしております。どのような物をお持ちでしょうか?」

 店員はにこやかに笑みを浮かべながらたずねた。

「今メインで使ってるのは、爽やかな石鹸系なのよね~。この系統って男性からの評価は高いんだけど、同性からはナメられるじゃない?」

 夫人は腕を組みつつ片手を顎にあてがう。

「それでしたら、こちらなどいかがでしょうか?」

 店員は〝八万円〟という値札のついた香水を見せてきた。

「こちらは外国のセレブたちの間で今とても人気があります。奥さまにもピッタリお似合いになると思いますよ」

「……そうね、ありかもね」

 と言い、夫人はあいまいにうなずいた。「じつは近々同窓会があるのよね。香水もいいんだけど、疲れ切って老けて見える、なんてことがないようにしたいわ」

「それでしたら、この基礎化粧品を是非お試しいただきたいですね。奥さまはまだまだお若いですが、今のうちからしっかりとスキンケアをされておけば、同年代の方々とは大きく差がつきますよ」

 と店員は勧め、デザインの凝った容器を並べだした。

 夫人はしばらく考え込んでいたが、最終的には「全部いただくわ」と言い、財布からクレジットカードを取り出した。

 店員は深々と頭を下げる。








▽〈原ヒロミ  +290㎉〉








▼買い物を終えて店を出た夫人は、ぼんやりとした様子で道を歩き始めた。

 小さな声で彼女が何かブツブツと、独り言をつぶやいているのが聞こえてくる。

「……この靴ですか? 安物ですよ。ぜんぜん大したことなくて。いえいえそんなことありませんよ~。カバン? 一応新作ですけど……。いえいえ奥さまの方こそ素敵じゃないですか~」








▽〈原ヒロミ  +15㎉〉

 


▽さすが親子ですね。

 ヒロミ夫人とノブ郎くんは性格までそっくりです。

 ノブ郎くんはアニメやゲーム、VRなどの空想の世界にひたることで、プライド㎉を増やしていました。

 ヒロミ夫人は新しいブランド品を身に着けた自分の姿を妄想し、その姿で知人と会話している光景を思い描いて、自己のプライド㎉を高められるようです。


ヒロミ夫人から引き出せる記憶は、これくらいが限界のようですね。

次は、原タケシ氏の脳に電極をつなげて下さイ。


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