資料室 (二十年前)
▼場面が切り変わった。
室内にはデスクが列をなし、その上にはノートパソコン、散乱したコピー用紙、文房具などが雑然と置かれている。
「プレゼン、緊張しますね」
資料をたばねて抱えた若い女子社員が、大谷のところに近づいてきた。
「そうだね」
大谷は、ポストイットを貼る手を休めることなく答えを返す。
「今日のクライアントさん、気難しい人ですよね」
と女子社員は不安げな表情を浮かべた。
「そうかな」
「そうですよ」
大谷の穏やかでのんびりした口調に、女子社員は口元をとがらせた。
「前に何かあったの?」
「実は前回お会いした時、クライアントさんがブランドものの腕時計をしてたんですよ。少しでも和ませようと思って『素敵な時計ですね。私もそういうのが似合うようになりたいです』って褒めてみたんです」
「そしたら?」
「『そういう太鼓持ち的なお世辞は苦手なんだ』って言われちゃって……」
「なるほど」
「そこから完全に無言になっちゃいましたよ」
「よいしょっと、それは災難だったね」
大谷は微笑みながら立ち上がると、女子社員に資料を渡した。
「そんなにガチガチにならなくても大丈夫だよ。気楽にいこう」
二人は準備を終えると、会社の入口でクライアントを迎え入れた。
「最近マラソンを始められたと伺いましたが」
エレベーターに乗りこむと、大谷はすぐに口を開いた。
クライアントは少し驚いた表情を浮かべると、「そうなんだよ。マラソンっていうほど本格的なものでもないけどね。健康のためのジョギングだよ、ジョギング。いちおう毎日走っているけどね」と、恥ずかしそうに返した。
「なるほど。健康のためですか」
と、大谷はひかえめに相槌をうつ。
「ゆっくり走るのは体に良いらしいからね。でもやはり、何でも続けるっていうのは大変だよ」
「どれ位やられているのですか?」
「かれこれ四ヶ月ほどやっているかな。自分でも頑張っている方だとは思うけどね」
会議室までの道中、クライアントは饒舌に言葉をつむぎ続けた。
大谷はただただ相槌を打っている。
▽〈クライアント +90㎉〉
▼会議室につくと、すぐにプレゼンテーションが始まった。
大谷がパソコンを操作すると、スクリーンにはグラフや数字が整然と映しだされていく。
「今年からは、高品質な製品を小ロットでも提供することが可能となりました。当社はこれまで蓄積してきたノウハウを活かし、これからはより大きな市場での販売拡大を目指しております」
と、大谷はハキハキとした口調で説明を進めていく。「現在、各店舗の集客や販売においては、SEOよりもリスティング広告やMeta広告を中心に据えるのが一般的になっています。これによりCPAも上昇しているため、定期的な分析と最適化が不可欠です。さらに単一の広告媒体に依存しない多角的なアプローチを取り入れ、強化すべき点と抑えるべき点を見極めることが重要に……」
「ちょっと待ってくれ」
突然、クライアントが手をあげ、大谷の発言をさえぎった。
「そんなことより、売上の保証はあるのかね? それがなくては我が社に導入することなどできんよ」と、クライアントは厳しい口調で質問した。
「はい。顧客や関係者からの評価を収集し、フィードバックすることで角度を上げております。十五ページをご覧下さい。この統計情報によりますと――」
大谷は順を追って丁寧に回答していくが、それを聞くクライアントの顔はだんだんと曇ってきた。
▽〈クライアント -20㎉〉
▼「このモデルのシェアだが、今年度はだいぶ下がっているのではないのかね?」
クライアントが机の上の資料をトントンと叩いた。
「いえ、そちらは昨年と比べましてもシェアを拡大し、販売実績も上がっております」
大谷はパワーポイントを使って、クライアントの誤解を正した。
「そうかね」
クライアントはムスッとした顔をして黙りこんだ。
▽〈クライアント -110㎉〉
▼五分間の休憩時間に入った。
大谷は、トイレに向かうクライアントの後ろ姿を見つめつつ、「まずいな……」と小声でつぶやいた。
補助役の女性社員の方も、不安そうに顔を曇らせながら静かに状況を見守っている。
プレゼンテーションはすぐに再開された。
「それでは生産ラインの説明をさせて頂きます。ラインBは夜22時から翌朝6時までの間、約10時間稼働しております」
と、大谷は開口一番に言い放った。
「8時間、じゃないのかね」
と、クライアントは面倒くさそうに、大谷の計算ミスを指摘した。
「えっ?」
「だから、22時から6時までだろ? それなら8時間だろう」
「……失礼いたしました。8時間です。ご指摘ありがとうございます」
「もういいから、続けたまえ」
クライアントは仏頂面のまま話の続きをうながした。
▽〈クライアント +110㎉〉
▼プレゼンテーションが終了した。
クライアントは契約書にサインをすると、意気揚々と帰っていった。
「さすがですね」
ホッとした様子の女子社員が、大谷のもとへ駆け寄った。
「いや、まだまだ未熟だったよ」
大谷は少し肩をすくめて言った。
「そんなことないですよ」
女子社員の言葉を受け、大谷も安堵の表情を浮かべる。
「今月はかなり忙しくなりそうだね。私だけでは仕事が回らないから力を貸して欲しい。よろしく頼むよ」
大谷はそう言うと、契約書を女子社員に手渡した。
▽〈女子社員 +55㎉〉
▽………………おっとスイマセン。感心のあまり、思わずフリーズしてしまいました。
大谷氏はなかなかの〝言霊(ことだま)使い〟ですね。
「言霊?」ええそうです。
〝言葉に宿る力〟の使い手です。
そうです。
太古の昔から言葉には力があります。口に出したものは、多少なりとも現実に作用するのです。
大谷氏はそれを達人レベルで使いこなしています。
最初のエレベーターの中では、相手を直接的な表現で褒めるのではなく、巧みに自画自賛へと誘導していました。おそらく事前にかなりのリサーチを行っているのでしょう。
プレゼン中のミスもそうです。
業務を行うにあたって〝説明〟は必要なものですが、長々と理屈を伝えられると、〝まるで上から説教されているような感覚〟に陥ってしまいます。(私のこのプロファイリングもそうですね)
クライアントさんもその例に漏れません。
そのうえ自分の勘違いまでも指摘されたら、不快感は一層高まってしまいます。
そこで、一計を案じたというわけです
大谷氏は意図的に間違った発言をし、それを指摘してもらうことで相手を立てる戦略をとっていました。わざと下の立場に潜りこんだわけです。
たいしたものですよ。
大人というのは長く生きているので、子供と違って経験豊富です。単純なおべっかやゴマすりなどは、すぐに見破ってしまうのです。
すったゴマを喰べてもらうには、大谷氏のような高度な心配りが必要です。
さらには部下への気配りも忘れていません。
これは出世するわけですよ。
アンドロイドに性別はありませんが、もし私が女性だったら惚れてしまいますネ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます