記憶:大谷賢治
居酒屋 (二十八年前)
▼ザワザワ ザワザワ ザワザワ
夜の街の活気に満ちた居酒屋の一角で、仕事帰りのサラリーマンたちが十人ほど集まり、美味そうな火鍋を囲んでいた。
店はレトロな雰囲気がただよっており、わざと色あせさせたポスターや安っぽいイスの装飾が、古き良き懐かしさを感じさせている。
熱々の焼き鳥から旨そうな煙が立ち上り、男たちが座る部屋へと運ばれてきた。
大谷賢治は入口に近い席に座り、周囲の話に耳を傾けながら料理を取り分けている。
一番奥の上座に座る男がビールをあおりながら、「それで取引が無くなったのか」と口を開いた。
「そうなんですよ、原課長。結果的に相手の顔に泥をぬったような形になってしまって……完全に外されちゃいましたよ」
ワイシャツ姿のサラリーマンの一人が、頭をペコリと下げながら、上座にデンと腰をおろす原課長とやらにビールをついだ。
「お前それはまずいよ。あの会社とは長いこと取り引きしてたんだからさ。なんとかしないと社内評価に響いちまうぜ」
と、別のサラリーマンが横から口を出した。
「まぁまぁ……あらためて言われなくたって本人が一番わかっているんだから、これ以上は責めるんじゃない。かわいそうだろ」原課長は真剣な表情を作り、たしなめるような口調で言った。「それより今日は新人の大谷君も来ているんだから、もっと役に立つ話をしないといけないぞ」
「はい。ぜひお願いします」
原課長の言葉に対し、大谷は背筋を伸ばし、かしこまって頭を下げた。
▽〈原タケシ +70㎉〉
▼「そうそう。そういう一生懸命な人間はいいぞ、こちらも色々と教えたくなる」と原課長は手招きをして大谷を隣に座らせた。「大谷君、きみはケインズという経済学者を知ってるか?」
「いえ……ちょっと分からないです」
大谷は首をかしげる。
「一般人にはあまり知られていないがな。偉大な人物だよ」
原課長は自分の言葉に深くうなずきながら、手元にあったグラスを大谷に渡した。
「そうなんですね」
大谷は受け取ったグラスを両手で持つと、頭を下げ姿勢を低くした。
「ケインズの格言に『入ってくる情報が変われば、結論も変わる』というのがある」
原課長は、大谷のグラスにビールをなみなみとついでいく。
「なるほど、たしかに」
そう言うと大谷はすぐにビールに口をつけた。
「これは〝常に学び続ける必要がある〟というという意味にも取れる。社会人になった後も日々勉強しなければいけないということだよ。私も毎日の業務で忙殺されているが、その合間をぬってMBAを取得したぞ」
「本当ですか? 凄いですね!」
「君も最初は苦労するかもしれないが、疲れることを恐れちゃいかん。新人の時は特にそうだ。人より努力を続けていれば必ず大成する。私が保障してやる」
原課長は自分の胸をドンと叩いた。
「ありがとうございます。原課長からそう言っていただけると、勇気が出ます」
と、大谷はグラスにつがれたビールを飲み干して言った。
▽〈原タケシ +100㎉〉
▼最初のころは満足そうに話をしていた原課長だったが、時間がたち酔いが回るにつれ目つきが座ってきた。
「ご出身は旧帝大とお聞きしましたが、本当ですか?」
大谷はビール瓶のラベルを上に向けてから、原課長のグラスにビールをそそぐ。
「……まぁな。でも良い大学を出ることだけが重要じゃない。そうやって受験競争を勝ち抜くなかで、努力の習慣をつけることが大切なんだ」
「なるほど。実践されてきたからこそ、重みのある発言ですね」
「まぁな」
原課長はうなずくと、周りにいる後輩サラリーマンたちを順番に箸でさした。
「こいつらは学歴もたいしたこと無いうえ、仕事は失敗ばかりのどうしようもない連中だ。だがな、不思議と嫌いになれない」
「……はい」
大谷は困った表情をしながらうなずいた。
「まぁ、根はいい連中だから仲良くしてやってくれ」
原課長はそう言うと、グラスをあおって空にすると、日本酒を注文しだした。
周りの後輩たちは、頭をかきながら笑顔を浮かべている。
▽〈原タケシ +90㎉〉
▽〈後輩たち -60㎉〉
▼対面に座っていたサラリーマンの一人が「課長、仕事をやる中で一番大切なのは〝ビジョン〟ですよね?」と、おしぼりを差し出した。
原課長の額に青筋が浮かび始めた。
「ビジョンが大事だと?」
そう言うと、原課長はおしぼりをじっとにらみつけた。
「お前たちは毎日毎日、同じ営業先をただ回っているだけだろうが! ルート営業ばかりで新規の一つも開拓出来ない人間が、偉そうなことを言うんじゃない」
「すみません」
おしぼりを持ったまま、サラリーマンは小さく縮こまり下を向いた。
「この前も企画課のやつが私にむかって、ビジョンがどうとか言ってきやがったんだ。まったく〝釈迦に説法〟とはこのことだよ」
「たしかに、たしかに」
「まぁ、きっちり論破しておいたがな」原課長はおちょこを一気にあおった。「日本には〝ことなかれ主義〟の連中が多過ぎるんだ。言うべきことはハッキリと言う、これがグローバルスタンダードだ」
そう言うと、原課長は隣に座っている大谷にも日本酒をすすめた。
大谷はおちょこを受け取り愛想笑いを浮かべる。
「ビジョンだ何だと言いながら、みんな結局レッドオーシャンに居続けているんだ。困ったもんだよ」
「……」
大谷は黙って日本酒を口に運ぶ。
「大谷君、どうすれば日本人は戦う気持ちを取り戻せると思うかね?」
「……」
「どうかね?」
「……いや、ちょっと分からないです」
「『わからない』って簡単に言うんじゃないよ。それじゃ会話が終わってしまうだろ。社会人としてだな。もっといろいろと考えて話をしないと」
「……」
▽〈原タケシ +50㎉〉
▼会計の時間になった。
「ごちそうさまです!」
「いつもありがとうございます!」
サラリーマンたちは原課長に向かって頭を下げた。大谷もそれに続く。
原課長は食事代を全額支払い、さらに全員にお寿司のお土産まで持たせた。
いつの間にか上機嫌になっている。
「大谷君、何かあったらいつでも相談してくれ。また飲み会にも参加したらいい。こいつら本当にいい奴だからな」
原課長は爪楊枝をくわえながら、後輩たちの肩をバシッと叩いた。
▽〈原タケシ +130㎉〉
▽〈後輩たち -100㎉〉
▽刑事さん、驚かれていますね。私も驚いています。
この原課長という男は、ノブ郎さんやノブ子さんの父親の原タケシ氏のようですね。
現在、行方不明中の。
ええ、そうですか。間違いないですか。
なるほど、なるほど。原家と大谷家はここでも繋がりがあるというわけですか。娘が同級生なだけでなく、父親同士も同じ会社の先輩後輩だったと。
ふむふむ。
なるほど。
だんだん犠牲者の関係性が見えてきましたね。
まぁそれは一旦置いておいて、プロファイリングの方を先にしましょうか。
スゴイ飲み会でした。令和の時代ではめっきり見なくなった、ハラスメント満載の会でした。
原氏にとっては、好きなだけオラつくことのできる、とても楽しい酒の席です。
一方、参加していた後輩の方々は、ハラスメントを覚悟の上で来ているようでしたね。
そうです。
〝お金とプライド㎉の等価交換〟といったところでしょうか。
おごってもらったり、職務上の便宜をはかってもらう代わりに、精神的ストレスを引き受けているわけです。
後輩の皆さん全員が、その構造を理解しています。
俯瞰できていないのは原氏だけかもしれません。
原氏は自分のことを〝めんどうみの良い親分肌の男〟とでも思っているのでしょう。
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