第16話

「さぁ、ほら、あと3回は行けるよ! 頑張って!」


 霧篤さんは、終始満面の笑顔で、無駄にデカい声で励ましてくる。

 もう、無理なんだけど。あと一回も出来ないのに、三回とか、俺のことなんも理解していない。こういう奴が、社員を必要以上に残業させて過労死させるのだ。


 想定外の疲労と、桐生さんの叔父さん(この人も桐生さんだから、霧篤さん)のウザさすら感じる熱血ぶりに、黒い感情がもやもやと沸き上がってくる。


「いや、も、無理です。限界」


「もっと行ける! 限界を超えないと、筋肉は大きくならないよ!」


 別に、筋肉大きくしたいとか、思ってない。


 桐生さんのルーティーンとやらの間、暇つぶしに器具を体験できればそれで良いのだ。……クソ、どうして俺はこんな仕打ちを受けないといけないんだ。


 プールのある階層に連れて来て、水着回をちょっと期待させておいて……。


「霧篤さん、沼田くんは初心者なんだから、あんまり無理させちゃダメよ」


「うーん、霧乃のボーイフレンドならあと3回くらい出来ると思うんだけどなぁ」


 自分の運動をしていた桐生さんが、霧篤さんを止めに来た。

 思わぬ救世主の登場に薄く目を開けると、桐生さんの前髪は汗でしっとりと濡れていて、シャツも少し捲れて白いお腹がチラッと見えていた。


 少し驚いて、脚が持ち上がってしまう。


「ほらね! ここまで上げて!」


 桐生さんが心配そうに見てくる。


 なんとなく、桐生さんの優しい言葉に甘えて、もう無理です、出来ませんとは言えない雰囲気なような気がした。


 いや、違うな。

 桐生さんの前で、出来るって思われてることを放棄するのが恥ずかしいのだ。


 もう空っぽになっていたはずのエネルギーを絞り出して、2回、3回と足を持ち上げる。


「よし、出来たじゃないか。凄いぞ。よく頑張った!」


 霧篤さんは満面の笑顔で褒めてくれる。


 自分でも意外だった。出来たことよりも、見栄を張った自分が、意外だった。

 桐生さんに、見られてたからだろうか?


「いやぁ、根性あるね。霧乃が選んだだけある!」


「はぁっ、いや、けほっ、ごほっ」


「これ、飲みなさい」


 選ばれたっていうか、罰ゲームの不可抗力なんですけど……と否定しそうになったら、咽てしまった。桐生さんは俺の背中をさすりながら、スポーツドリンクの入ったボトルを渡してくる。


 身体が水分を欲していたので、迷わず口を着けてごくごくと飲む。


 甘じょっぱいスポーツドリンクが体内に浸透する。


 熱くなった身体から汗が噴き出て、速くなっている心臓の鼓動を自覚した。


 そう言えば、このスポーツドリンクのボトル満タンだったっけ?


 思わず、桐生さんの唇を見てしまう。


 もしかして今、間接キ……い、いや、違う。桐生さんは、ただ親切で飲み物を差し出したのだ。


 息を深く吐く。心臓の早鐘が収まらないのは、慣れない運動のせいだ。


 目を瞑り、心の中で復唱する。


 俺と桐生さんとの関係は、罰ゲームがきっかけ。もっと言えば、桐生さんや藤崎くんのグループで起こったいざこざがきっかけ。


 桐生さんは俺に好意があったわけではない。ただの消去法だ。この関係だってすぐに消滅する。変な期待をしてはいけない。身の程は弁えないといけない。


 勘違いしないから、俺は桐生さんに選ばれたのだ。


 少し落ち着いて来た。


「いやぁ、どうだったかい? 限界を超えると、気持ちいいだろう?」


 満面の笑顔の霧篤さんに聞かれる。


 いや、正直、気持ちいいとか全然思わない。普通にキツかったし、疲れた。でも、野生の熊みたいな人を前にしてそんなことを言う度胸なんてない。


「まあ、その……はい」


「はっはっは! 別に気を遣わなくて良いんだよ! 最初は誰だってキツいものさ! 何度も繰り返していくうちに、気持ち良くなっていくものなんだから!」


「そういうものなんですか?」


「そういうものさ!」


「じゃあ、霧篤さんは……あ、いや、愚問ですね」


「どうしたのさ?」


「いえ、霧篤さんなら限界を超えたとき気持ち良くなれてるんですか? って聞こうと思ったんですけど、その大きな筋肉を見たら聞くまでもないかなって思って」


「はっはっは! 烏くんだっけ? 君、上手だねぇ!」


「別に、お世辞を言ったつもりはないですよ」


 なんなら、褒めたつもりもあんまりないし。


「霧乃ちゃん。烏くん、良いね! 根性あるし、面白いし」


「そうでしょ?」


 タオルで汗を拭く桐生さんが、俺に渡したのとは別のスポーツドリンクを飲みながら歩いてきて、嬉しそうに答える。


 その笑顔はどういう意味なんだろうか?


 ……手に持っているスポーツドリンクを強く握る。

 なんか少し残念なような、それ以上に安堵しているような気持ち。


「沼田くん、付き合ってくれてありがとう」


「あ、いや……」


「あれ? 霧乃ちゃんもう終わりかい?」


「もうって、かれこれ30分はしてたわよ」


「たった30分じゃないか!」


「別に体型を維持したいだけだから、これくらいで良いのよ」


「うーん。女の子はもうちょっとがっちりしてる方が良いと思うけどなぁ」


「沼田くん、行きましょう」


 霧篤さんのセクハラまがいの言葉をスルーして、桐生さんは俺を手招きする。


「あ、烏くんもまた来てよ! 霧乃のボーイフレンドな間は無料で良いからさ!」


「あ、はい、ありがとうございます」


 ならまあ、次は来ないな。


 俺は愛想笑いを浮かべてぺこりと頭を下げながら、ジムを出て行った。


「じゃあ、ようやくケーキ?」


「……沼田くん、よっぽどケーキ好きなの?」


「甘いもの全般が好きってのもあるけど、今は、運動した後だからめっちゃお腹空いてる」


「そう、それなら丁度良かったわ。これから行くのビュッフェだから。ケーキもアイスも食べ放題だし、ご飯もあるわよ」


「そ、そうなの?」


「そうよ」


 ご飯を最大限楽しむためと思えば、さっきの筋トレも桐生さんの粋な気遣いに思えてくるから不思議なものだ。喉元過ぎればなんとやらってやつかもしれない。

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