第14話

 教室前のロッカーから置き勉を回収して図書室に向かうと、桐生さんは既に一人で勉強を始めていた。


 長い睫毛がカーテンの隙間から漏れる光に照らされ、俯いて解答をしたためている桐生さんは幻想の世界から飛び出してきたようで、閑散する図書室の空気が2℃ほど涼しくなっているようなそんな錯覚すら感じる。


 俺は桐生さんの斜め前の席に腰を下ろし、漢字書き取りノートを開いた。


 桐生さんは長い黒髪を耳に掛け、チラリと俺に視線を流した。空いている正面の席と俺とを少し交互に見てから、特に何も言わずまた課題に視線を落とす。


 授業で配られたのとは別の問題集だ……。


「何か?」


「あ、いや。……それ、予備校の課題?」


「これは、普通の参考書ね。本屋で買ったのよ」


「そうなんだ。うちの学校ただでさえ課題多いのに。大変でしょ?」


「まあ、そうね。でも、苦だとは思わないわ」


「そうなんだ。……何か、目標とかあるの?」


「別に、そんなのはないわ。ただ、家を出てみたいのよ」


「県外の大学に進学したいってこと?」


「そうね。……そうなると、やっぱりちゃんとした大学じゃないと両親も認めてくれないだろうし」


 まあ県外の大学に進学ってなると、学費だけじゃなくて家賃とか生活費の工面も必要になってくるだろうし、我が子をいきなり県外に送り出して一人で暮らさせるのも両親としては心配だろう。


 桐生さんはそれをちゃんと理解した上で、自分の望みを通すために真摯に努力している。


 それは素直に、尊敬に値すると思う。


「桐生さんは、凄いね」


「別に、凄くはないわ。学びたいことが明確でもなくて、ただ県外に出たいってだけだし、それに……」


「それに?」


「いや、なんでもないわ」


 桐生さんは一瞬だけ後ろめたそうな顔をしてから、言葉を濁した。


 そんな引き方をされると何を言おうとしたのか気になってしまうけど、桐生さんは言いたくなさそうに見えたから遠慮する。


「……どんな動機だとしても、目標を持って、そのために努力をしてるのは凄いし格好良いと思うよ。俺なんて、怒られたくないからしゃーなしやってるだけで、課題すらすっぽかしたいって思いながら生きてるんだから」


「ふふっ、ありがとう。怒られたくないって動機でも、ちゃんと課題やってる沼田くんも偉いと思うわ」


 天然なのか皮肉なのか、褒められてる気がしない。

 それでも全く悪い気はしないのだから、美人の笑顔は都合が良いなって思った。


 気恥ずかしい気持ちになった俺は、漢字の書き取りを始めた。


 桐生さんも、勉強を再開する。


 目標の為に、課題じゃない勉強を進める桐生さんと、明日先生に怒られないために課題の漢字ノートを書き溜める俺。


 なんというか、スケールの違いを感じる。


 俺にも目標とか出来たなら、桐生さんみたいに頑張れるのだろうか?


 目を閉じたくなるほどに眩しく感じるのは、角度的に直射で入ってくる朝日のせいだけではないだろう。



「キリも良いし、そろそろ行きましょう」


 時計が九時を回ったあたりで、桐生さんがそう提案してきた。

 課題の貯金は良い感じだし、座り疲れて来たのでこの提案はありがたい。


「うん。……それで今日は、どこに行くの?」


「ふふっ。それは、着いてからのお楽しみよ」



 いつもの癖で桐生さんの少し後ろに歩きそうになったけど、それだと着け歩く不審者みたいだって南さんの言葉を思い出した俺は、少し勇気を振り絞って隣を歩く。


 少し距離を詰め誤って、小指の先が桐生さんの手に掠った。


 俺は驚いて、腕一本分桐生さんから距離を開ける。


 桐生さんは、俺の小指が掠ったことなど気付いてすらいないように、そのまま毅然とした態度で歩いていく。


 鼓動が鳴りやまない。


 期待しているわけじゃない。桐生さんが俺のこと何とも思ってないなんて解り切っている。だけど、人生の経験値が色々と足りてない俺は、桐生さんの一挙手一投足に一々緊張してしまうのだ。


「……これ、ロッカーに直してくるから!」


「そう。じゃあ、靴箱で待ってるわ。急ぎじゃないから」


 逃げるように走り出した俺を、桐生さんは気遣ってくれる。


 胸が痛い。お腹も少し痛い。


 胸がいっぱいになるまで、息を吸い込む。少し溜めてから吐き出すと、ほんの少しだけ気分が落ち着いた。

 ロッカーに、課題ノートをぶち込んでから小走りで靴箱へ向かう。


 靴箱では、桐生さんが待っていた。


「霧乃ー!」


 少し離れたところから、声が響く。


 桐生さんは、靴を履き替える俺の方まで近寄ってきた。


 少し遠くで桐生さんに向けて手を振っていた藤崎くんは、ピシャリ、と動きが固まっていた。


「行きましょう」


「う、うん」


 桐生さんは、聞こえなかったみたいに見事にスルーをして校門の方を指さした。

 チラリと藤崎くんの方を見る。俺はあんまり目が良くないから、この距離からどんな表情をしているのかまでは見えないけど、いや、見えないからこそ、少し可哀想な気がした。


 でも、桐生さんは藤崎くんのことあんまり好きじゃないし、スルーを決め込むみたいだから、俺の方から踏み込む勇気はない。


「割と、晴れてるね……」


 気まずさに耐えられなかった俺が出したのは、天気の話題だった。


「そうね。最近ずっと雨続きだったし」


「梅雨明けも近いのかな?」


「奄美の方は晴れ始めてるけど、それでも梅雨明け宣言はしてないみたいよ」


「そうなんだ」


 空は晴れ間が見えるけど、空気が湿っているからか、緊張で汗でも掻いているのか肌の表面がジメジメしている。


 天気以外にも、今日の朝ご飯とかどの辺に住んでるのかとか昨日の晩御飯とか、ぽつぽつと続かない会話を繰り広げながら桐生さんの隣を歩く。


 因みに昨日の晩御飯は焼き魚とご飯とみそ汁で、朝ご飯はグラノーラなるものとグリーンスムージーなるものだったらしい。


 晩御飯だけ日本人らし過ぎるだろ……。


 そうこう歩いているうちに、目的地に着いたのか桐生さんは立ち止まる。


 その目的地は、あまり高い建物がが多くない県内にしては高めの、少なくとも10階以上は余裕でありそうな大きなビルだった。


 その大きな建物の看板には『KIRYU観光ホテル』と書かれていた。

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