#08:14時のお客様、田中さん。(いつもの席でいつものお茶を)


「いらっしゃいませ」


14時。いつもの時間に、いつもの常連のお客様が、スマイルキッチンの入口に現れた。


白髪の老紳士。森川さんの手帳には「田中さん」と記されていた方だ。私は手帳の内容を思い出しながら、自然な笑顔で迎える。


「あら、森川さんはお休みかい?」


「申し訳ございません。本日は急遽お休みをいただいております」


体調のことには触れない。それが私たちの仕事。お客様の思い出に、余計な心配は必要ない。


「そうかい...」


少し寂しそうな表情を浮かべる田中さん。その横顔に、毎日14時に訪れる理由が隠されているような気がした。


「いつもの紅茶でよろしいでしょうか?」


「ありがとう。そうしてもらえるかい」


私はカウンターへ向かい、紅茶の準備を始める。森川さんの手帳には、細かく指示が書かれていた。


『田中さんの紅茶:セイロン7:アッサム3の比率。グランデサイズのマグカップで。少し重いけど、この方がお持ちやすいとのこと』


茶葉を丁寧に計り、お湯を注ぐ。森川さんは、これを何度繰り返したんだろう。そして、その一杯一杯に、どんな思いを込めていたんだろう。


出来上がった紅茶を、グランデサイズのマグカップに注ぐ。その重みが、今日は特別に感じられる。


「こちらへどうぞ」


窓際の4番席へと案内する。田中さんの目が、再び驚きの色を帯びる。


「お嬢さん。お会いするのは初めてかな?」


「はい。普段は、マジックメモリーズという売店におりまして。本日は特別なヘルプでこちらに」


紅茶を置きながら説明する。田中さんは穏やかに微笑んだ。


「そうかい。でも、初めてなのに、私のことをよく知ってくれているね」


「森川さんから、しっかり引き継ぎを...」


言葉を濁す。だって、本当のことは言えない。手帳の存在も、森川さんの体調も。


「ここはいつ来ても心地がいいんだよ」


田中さんが窓の外を見やりながら言う。その視線の先には、パレードの準備をする場所。まだ誰もいないステージに、どんな思い出が映っているのだろう。



・ ・ ・

 


一日が終わり。


私は休憩室で、特別にいただいた紅茶を飲んでいた。セイロン7:アッサム3の比率。田中さんと同じブレンド。


手帳を開く。細かな文字で埋め尽くされたページをめくる。そこには、単なる接客マニュアルではなく、一人一人の物語があった。


金曜日の放課後に来店する男子高校生は、実は妹のためにケーキを買って帰る。でも照れ屋だから、自分用だと言い張る。


「え、どうしてそんなこと分かったんだろ...」


ページの隅に小さく書かれた注釈を見つける。『妹さんの誕生日に、家族で来店。その時の会話から判明。普段は照れて言えないんですね』


なるほど。森川さんは、こんな些細な会話も覚えていたんだ。


『制服デートのカップル。男の子は彼女の分まで払おうとする。でも、女の子はそれを申し訳なく感じているみたい。だから毎回、「これ、シェアしない?」って言って、さりげなく割り勘に持ち込んでる。』


森川さんの文字に、温かな思いやりが滲む。


季節や天候による客層の変化。パレードの時間に合わせた席案内の工夫。予算や時間に配慮が必要なお客様への対応...。


そして、田中さんのページ。


『毎日14時。奥様と一緒に来ていた常連様。今は一人で。でも、いつも同じ席で、同じ紅茶を。きっと、大切な思い出の場所なんでしょう。だから私たちは、その思い出を守らなきゃいけない』


私は深いため息をつく。はぁ~。


手帳を閉じる。この重み。森川さんは、毎日これを背負っていたんだ。


そうか。だから森川さんは、パークの男性スタッフたちの間で人気者なんだ。単に可愛いからじゃない。こんなにも一人一人の気持ちに寄り添える人だから。


「森川さんが選ぶ人って、どんな人なんだろう」


思わず呟く。バックヤードで森川さんに憧れる男性陣の姿を思い出す。相当な努力が必要だろうな。だって、こんなにも他人の気持ちが分かる人の心を掴むんだから。


「はぁ~。私にはそんな恋バナより、まずは目の前の仕事だな」


私は立ち上がりながら、紅茶を手に取る。


「それって、案外悪くない仕事かもしれない」


紅茶を飲み干す。セイロン7:アッサム3の比率。この味を、私も覚えていこう。


明日からまた、マジックメモリーズに戻る。でも、今日学んだことは忘れない。夢を売る仕事の本当の意味を。


ロッカールームに戻り、制服を着替える。鏡に映る自分の顔が、少し大人になったように見える。


「森川さん、早く戻ってきてくださいね」


そう願いながら、私は夜のパークを後にした。観覧車の光が、優しく背中を押してくれる。

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