第2話 浮遊島に浮かぶ学園

 ポータル(転移魔法陣)に足を踏み入れた瞬間、スレイトは足元がむずむずするのを感じた。次第にその感覚は全身を包み込み、空中に浮かんでいるような不安定さに襲われたかと思うと、突然、体が排水口に吸い込まれた水のようにぐるりと回転し始めた。

「あぁぁぁああ……!」

 体がまるでゴムのように引き伸ばされては捻じれるような異次元の視界。足が目の前でグネグネと歪み、腕はあらぬ方向に捻りあげられている。けれど、痛みは全くもって感じない。だが、その捻じれた自分の姿を目の当たりにするのは、非常に気持ちが悪い。

 次の瞬間には、一瞬にして視界が漆黒に包まれ、すぐに眩しくなり、眩しさをこらえながら目を開くと、ぼやけた視界の向こうに、壮大な緑の山々が広がっていた。

 やわらかな風が、スレイトの頬を撫でる。

 極寒の地、ブレシアでは味わえない暖かい風に、スレイトは胸をなでおろした。

「よかった。今日も無事に着いた!」

 ふうっと、安堵の息を吐いたところで彼は嘔吐した。

「ああああ! 気持ち悪ぃぃ! やっぱポータル嫌いだ! ……ってか、あの鉄仮面の魔法士ども。俺を蹴り落とすって何考えてやがんだ! 王子だぞ、俺はぁ!」



 緑の山々に囲まれた広大な大地の中央に、威厳をもって浮かぶ巨大な浮遊島がそびえ立つ。その中央には、幾重にも層を重ねて築かれた壮麗な城のような建造物がある。

 それが、ラヴァンデュア魔法学園だ————。

 多くの王族や貴族、名家の子息たちが通う、世界に名高い魔法学園で、一般市民の入学は厳格に禁止されている。中には身分を偽って潜り込む者もいるが———それは、また別の物語。


 浮遊島は地上から突き出した四方の巨大な鎖によって繋ぎ止められ、その鎖は学園へ続く不安定な橋を形成していた。橋は時折、風に揺られて鎖が軋むような音を響かせ、見る者の心に不安を刻み込む。

 なぜ浮遊島を鎖で固定し、その上に学園を築いたのか——その理由を知る学生は誰一人としていない。なぜ、鎖で固定する必要があったのか生徒たちは常に疑問に思っていたが、ある生徒が教師に問いただすと『複雑な理由だ』とだけ返され、それ以上は教えられなかった。

 浮遊島までの橋が非常に揺れるので落ちれば死ぬから怖い、と多くの生徒たちは言う。だが、スレイトは、そんな不安定な橋を渡るのが楽しみで仕方なかった。橋を揺らして他の生徒を怖がらせるのが、彼のお決まりの遊びだったが、ある日、教師に「子供みたいなことをするな」と、怒られてやめた。

「ポータルに比べたら、こんな橋、全然怖くねーじゃん!」

 ポータルを使ってやってきた生徒たちが、次々と浮遊島に向かう揺れる橋を慎重に渡っていく。スレイトもその後に続く。後ろから飛び跳ねて橋を大きく揺らしてやりたい衝動を必死に抑えながら、揺れに合わせて板を踏みしめた。


 地上から浮遊島までの距離は想像以上に長く、登り切る頃には息も絶え絶えだった。この過酷さに耐えきれず、学園を去る者もいた。

 学園が飼っているワイバーンを使い、地上から学園の入り口まで運んでもらうこともできるが、そのサービスは高額で、しかも予約はいつもいっぱいだった。

「はぁ、やっと着いた……ぜ。なんでポータルの着地点が学園内にないんだ? 浮遊島といい、面倒なことばかりだぜ。でも、体力つくからいいけどな」

 スレイトはへたり込み、地面に手をついて息を整えた。

「なんにしてもポータルが一番やっかいだぜ……」

 ポータルの恐怖で全身を強張らせていたせいか、肩の筋肉が異様に張っていた。スレイトは立ち上がり、両腕を回して軽くストレッチをした。

「まだポータルに慣れないのかい? スレイト」

 スレイトはその声にビクッと反応した。

「な、なんだ、チャートかよ!」

「可愛い女子じゃなくて残念だったかい?」

「べ、別にそんなこと思ってねぇし!」

 チャートと呼ばれた少年は、スレイトの反論をよそに、手に持った棒付き飴をぺろりと舐めた。その表情には余裕が漂っている。制服の赤いリボンネクタイはきっちりと結ばれ、ジャケットのボタンも全て留められている。短めのズボンは、小柄な彼に合わせて裾が折り返されているがだらしなく見えない。

 栄養の行き届いたマロンクリームのような柔らかな髪が、風にふわりと揺れていた。

 いかにもお坊ちゃんらしい風貌の彼は、スレイトに困ったような笑顔を向けた。

「来たばっかなのに、もう憔悴してるねぇ」

「……軟弱者め。チャート、お前、ワイバーン使いやがったな!」

「まぁ、王子の君と違って僕はお金を全部自分で使えるからねぇ〜。あははは」

 チャートは悪怯れることなく答えた。

「チッ。お前はなんで平気なんだよ。ポータル使うの」

「え〜? だって、大賢者さまが施した転移魔法陣だよ? 信用してるもん」

「……大賢者だって失敗することがあるかもしれねーだろ。お前も、授業の映像でみただろ。転移魔法で失敗した人間が……体の一部を失って、動物の体を代用した姿を!」

 スレイトは、魔法陣の部屋の隅で氷漬けにされ、まるで生きているかのように凍りついていた動物たちの姿を思い出した。

「あー。それは、大した魔力も精霊との絆もないくせに、超高度魔法と呼ばれる転移魔法を試して失敗した人たちでしょ? 自業自得さ。大賢者の魔法陣に限ってありえないって。スレイト、君っていつも強気で何事に対しても自信満々なのに、こと転移魔法に関しては子供以上にビビるよね〜」

「そりゃビビるだろ! 失敗したら頭が豚になるかもしれねーんだぞ!?」

 自分の頭が豚になったところを想像して、スレイトは青ざめた。

「牛かもしれないじゃん」

「う、牛も豚も馬も、なんだって動物人間はごめんだ!」

「でも、緊急移植はそのときの相性が一番いい生物が使われるんだから、しょうがないじゃない。それとも、違法で人間の首を調達するかい?」

「マジで言ってんのかチャート! できるわけねーだろ、んなの!」

「相性がいいのが、牛や豚じゃなく、ドラゴンだったらいいのにねぇ?」

 チャートが「あはは」と乾いた笑いをみせた。

「ドラゴンヘッド!?」

「その方が君の知能は上がるかもよ? 実際、ドラゴンヘッドになった教授は魔力が上がったって言ってるじゃん。見た目も結構かっこいいし、いいことづくめじゃない!」

「ドラゴンヘッド教授……」

 学園で生物学を教えているドラゴンヘッド教授は、若いころに自分の力を過信して転移魔法を試みたものの失敗し、ドラゴンの頭を移植した先生である。

「何がいいことづくめだ。ふざけんな!」

「どっちにしても牛頭馬頭や豚頭より何倍もマシさ。だって……」チャートはわざとらしく恐ろしい顔を作り、低い声で続ける。

「牛頭馬頭になると、徐々に人間らしさがなくなって、知能がどんどん下がって、最後には人間じゃなくなるんだって。森で暴れてるオーガやオークは、その成れの果てっていうよ? ……って、うわっ、痛っ!」

 スレイトがチャートを殴った。

「い、いい加減にしねぇと本気で殴るぞ、チャート!」

「もう殴ってるじゃん!」

「俺は絶対に嫌だ! 転移魔法に失敗して欠損部分を動物で補うなんて。俺は時期国王だぞ! 頭が動物の奴が王になれるわけねぇだろ! 俺は絶対転移魔法は自分では使わねぇと神に誓うぜ!」

「あのね、君が誓おうが誓わまいが、転移魔法は超高難度の魔法なんだよ。そんな簡単に使えるわけじゃないって。大賢者だって、膨大な精神力と集中力、それに精霊との強い絆が必要なんだよ。僕たちの家や君の城、学園にあるポータルは、魔力が強い場所を事前に特定して固定してあるから、安定して使えるんだ。けど、その場で魔法陣を描いて、好きな場所に自由に移動なんて、普通の人間には絶対に無理さ!」

「んなのはわかってる! でも、ポータルは……ポータルはなぁ!」

 スレイトはブルっと恐怖に震えた。

「はぁ〜。みんなが恐れて近づかない、魔物にだって率先して立ち向かうほど勇敢な君なのに、なんでこんな超安全なポータルが怖いのか、僕には理解できないよ」

「うるさい! 超安全なんてねぇーんだよ!」

「ほんと、重度のポータルフォビアだね、君は」

 ゴーン、ゴーン!

 授業開始を告げる鐘が校内に響き渡った。

 鐘の音に驚いた鳥たちが、一斉に羽ばたき、北の空へと消えていく。

 気がつくと、スレイトとチャートの周囲にはもう誰もいなくなっていた。

「やばっ、急がねぇと!」

 スレイトとチャートは顔を見合わせ、慌てて校内へ駆け出した。

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