第19話.小さくて大きな一歩


 魔に堕ちる。

 その恐ろしさを知らない者は、魔法士にひとりもいない。


 完璧に制御し、手足のように操るべき魔力に精神を呑み込まれて暴走する。この状態に陥れば、二度と人に戻ることはできない。魔力が枯渇するまで暴れて死ぬか、魔力が尽きる前に誰かに殺されるか――末路は悲惨な二択しかない。

 魔法は声によって発動するため、むやみに口にすることさえ禁じられているのが「魔に堕ちる」という言葉だ。


 そこまで言われれば、私の話を夢か妄想の類いだと一蹴できなくなったのだろう。顎に手を当てて、ノアは何かを思案している。はぁ、観賞用にするなら最高の美形なのに……。


「花乙女に選ばれないどころか儀式の最中に魔に堕ちるなど、リージャス家の恥さらしにもほどがあります。ですから、私は一刻も早く魔力を失いたいのです。そして自ら魔力を失った代償として、リージャス家を去ることにします」


 ほんの一瞬、ノアの表情が硬直したような気がした。


「この家を……?」

「リージャス家の人間として、許されないことだと分かっていますから」


 淡々とした口調を心がけたのは、ノアに泣き落としは通用しないからだ。あくまで事実を伝えるに留めたほうが、心証はいいだろう。

 最後に、私は腰を折って大きく頭を下げた。


「どうか、お兄様の力を貸していただけませんか。私には、お兄様しか頼れる人がいないのです」


 頭を下げながら、ここが分水嶺だという確信があった。魔法に精通するノアの助力を得られるか否か。私の運命は、ここで文字通り分かれる。


 ゲームシナリオ通り、魔に堕ちてカレンたちに討伐されるか。

 あるいは魔力を失い、ゲームとは無関係なところで生きていくか――。


「無理だな」


 ノアの返事は、取りつく島もないものだった。

 ぐ、と息が詰まる。全身から力が抜けて倒れてしまいそうになるのを、なんとか踏み止まった。


 その回答は、予想できるものではあった。だってノアは、アンリエッタに一切の関心がない。そんな彼が、私の言葉を信じてくれるはずがなかったのだ。

 それでも。知恵を振り絞ったのに、彼の協力を取りつけられなかったのが悔しい。

 そう思うのとは裏腹に、心の奥底から誰かの声が聞こえてくる。


 ――ほら、やっぱりだめだった。


 正しくは、それは声というほど明瞭なものじゃなかった。もっともっと弱くてか細いもの。込み上げてくる感情に名前をつけるなら、それは諦めだろうか。

 これは、私の気持ちじゃない。……もしかして、アンリエッタの?


「勘違いをするなよ」


 戸惑う私の耳に、ノアの声が聞こえる。

 そのときには、弱々しい女の子の声は聞こえなくなっていて……不安に思いながら顔を上げると、ノアが呆れるような眼差しを私に向けていた。


「俺は魔力を失うのが無理だと言っただけだ。魔力を安全に失う方法など、カルナシア王国では確立されていないからな」

「それって……」

「お前の話を鵜呑みにしたわけじゃないが、要するに魔に堕ちたりなどしないよう、魔力をコントロールする術を身につければいいだけの話だろう」


 いやいや、それができるなら苦労しないでしょ、と心の中で突っ込む。

 暫定・花乙女と呼ばれるアンリエッタは、素養だけなら学年で一二を争うほどとされる。素養のみで魔法が使えるなら苦労はしないので、暫定、なんて皮肉な呼ばれ方をするわけだが。


 でも、もしもノアに指導してもらって、魔力の制御方法を完璧に習得できれば――私が花舞いの儀で魔に堕ちる可能性は、格段に減るのかも?

 もちろん、私がどんなにがんばっても無意味なのかもしれない。RPGで負けが確定しているバトルがあるように、シナリオの強制力のようなものが働いて、そのときその瞬間が訪れれば、アンリエッタは必ず魔に堕ちる――そういうルールが、この世界にはあるのかもしれない。


 それでも今は、やれるだけのことをやりたいと思った。


「俺がお前を鍛えてやる」

「お兄様……!」


 私はぱぁっと顔を輝かせる。

 アンリエッタを嫌うノアからこれだけの譲歩を引きだせたのは、ひとつの成果だ。まだ結果が出せたわけじゃないけど、それでも何かが変わった。そんな気がしてくる。


「ありがとうございます。私、精いっぱいがんばります!」


 私はぐっと拳を握ってみせる。

 気味の悪いものを見るような目を向けられても、高揚する今だけは一向に気にならなかった。



 私の新たな人生は、この一歩から始まるのだ!






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 これにて第1章完結となります。

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