京都市下京区四条通烏丸東入ル長刀鉾町十七番地
九紫かえで
京都市下京区四条通烏丸東入ル長刀鉾町十七番地
僕が勤めている私立高校では土曜日にも授業がある代わり、平日のうちの一日が休日とされていた。
今年の僕の休日は火曜日。お昼過ぎに家を出て、阪急烏丸駅に着くのが午後三時過ぎ。駅から繋がっているビルにある喫茶店に直行すると、待ち人が既にいる、というパターンがほとんどだ。
「お待ちしておりました、先生」
礼儀正しく挨拶する彼女を、一言で表すとすれば、やはり大和撫子、なのだろうか。長い黒髪を頭の高い位置で一まとめにして垂らしており、なんだか弓道だとか剣道だとかが似合いそうな子だ。クラシカルな制服も彼女に似合っていた。
二人掛けのテーブルに陣取っている彼女が向かいの席に置いてあった鞄をどけて、僕に座るように促す。これがいつもの流れ。
「いつものアメリカンでよろしいでしょうか」
「いいけど、僕が行くよ」
「いけません。私がお願いしているんですから」
有無を言わさずに彼女が立ち上がり、カウンターへと向かう。それくらいの手間は自分でやるべきだとは思うのだが、聞いてもらえそうにないので、もうあきらめている。
その間に、彼女が机の上に広げていたノートを見る。別にこれはやましいことではなく、彼女の許可をとっていることだ。
「The man robbed her of her bag...あー、やったな、これ」
単語を並び替えるか、括弧の中に正しい前置詞を入れる問題だ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
コーヒーと引き換えに彼女にノートを渡す。
「もしかしたら、そのうち英語も教えてもらうかもしれません」
「それは困るなぁ。僕もまた勉強しないと」
僕がコーヒーに口をつけている間に、彼女は英語のノートを鞄にしまい、代わって現代文の演習教材を取り出した。
「それで、今週はこの小説なんですけど――」
+ + +
きっかけは些細なことだった。
四月下旬の火曜日。ふらりと京都に出かけた僕は、おやつ時にこの喫茶店で休憩していた。そうしたら、隣のテーブルで女子高生達が勉強していたものだから、自然と彼女達の会話内容が耳に入ってきた。
それだけなら、ただの日常の一コマだったのだが、よくよく聞いてみると、僕が普段授業をしている科目である国語で、しかもちょうど今授業でやっているところだった。
(あぁ、なるほど。高校生はこういうところでつまづくのか)
彼女達の答えを聞きながら、僕ならここをどう指導するか、ということを考えていたのだろう。
「以前の自分と今の自分。まずはこの二つに分けて、出てくる要素一つ一つをつなげていって――」
「そうなんですか」
ついつい声に出てしまっていたらしい。隣のグループの一人と思われる女子が寄ってきていた。
「それで」
「あぁ、いや。だから、例えば丸善は昔の彼を象徴する場所で――」
ここで口をつぐんでしまうのはもう遅い。一通り解説をしきると、彼女ははぁ、と一声上げてから。
「ありがとうございました。わかりやすかったです」
「いや、大したことは言ってないけど」
「そんなことはありません」
ぺこりと一礼して、長い黒髪の彼女は隣のテーブルへと戻っていった。
そういえば、「檸檬」の舞台も京都だったよな、と少し間の抜けたことを考えながら、僕は冷めていたコーヒーを飲みほした。
次の火曜日も僕はまた同じ京都の喫茶店へと足を運んだ。
また彼女がいたらいいな、という下心が全く無かったかと言われれば嘘になる。そんな僕の心を見透かしたかのように、彼女は二人掛けのテーブル席に一人座って問題を解いていた。
「あっ」
彼女が問題集から顔を上げた瞬間に視線が重なった。
「また来てくださったんですね……先生」
その日からだ。なし崩しで彼女に国語を教えるようになったのは。
+ + +
「アとエで迷うかもしれないけど、エはここに好意を匂わせる描写があるからやっぱり違う。だから、アが正解」
「アもなんだか違う気がするのですが……」
「迷うよね。ただ、こういう問題はひっかけるために作ってるから。まずは明らかに違うって理由をつけられるものから、消していくのがセオリーだよ」
時計を見ると、もう五時を回っていた。
「そろそろ帰ろっか」
「はい」
阪急烏丸駅のプラットホームは仕事終わりのサラリーマンや観光帰りの年配の人々が行きかっていた。
ここで準急か普通に乗る彼女と、特急に乗る僕は解散することになる。
そういえば。
「毎週真面目に勉強してるけど、君はもう志望校は決めているのかい」
「そうですね。次の模試でB判定以上がとれたら、そこにしようと思っています」
他の科目の成績はわからないけど、彼女ならそこそこ上の大学にはいけるだろう。
「でも、おかしいですね。先生ったら」
梅田行きの準急が到着した。
「何が」
「志望校より先に、聞くべきことがあるんじゃないですか?」
そういうなり、彼女は僕に背を向け、マルーンカラーの電車に足を進める。そして、一度だけこちらへと振り返った。
「続きは……また来週、です」
* * *
次の週の火曜日。
梅雨時の関西地方は朝から雨が降っていた。そういえば、そろそろ学期末テストの時期だ。その後は夏休みになるが、この勉強会は続くのだろうか。
「お待ちしておりました、先生」
雨に降られたのだろうか。それとも蒸し暑いからだろうか。湿った白い夏服が肌に張り付いていて、胸元には黄色い何かが見える。
「ふふ。やはり気になりますか」
「いや」
慌てて視線を外したが、この調子だともうバレてしまっているだろう。
「いつものアメリカンで?」
「お願いするよ」
彼女が席を外している間に頭を冷やそう。
彼女が言うには、彼女の高校の国語教師は解説がわかりにくいのだという。
ただ、僕が教えている感じでは、彼女は国語が苦手というわけではなかった。むしろ得意なのでは? という疑問すら抱いている。
「夏休みはどうしようと思ってるの」
「先生さえよろしければ夏休みもお願いしたいのですが……」
ちらっと上目遣いで僕を見やる。
名前すらわからないのに、何週間もこうやって時をすごしていると、彼女のことが少しずつわかってきた。
「僕はいいけど。でも、学校の補習とか塾とかは無いの?」
「大丈夫です。それも、火曜日の午後は空けていますから」
彼女が僕に好意を持っている、だなんてうぬぼれたことは言わない。
ただ、少なくとも、彼女は僕に興味は持っている。ある日突然現れた、歳もそう離れていない男性教師と、こうやって毎週会おうとしてきているのだ。それも、勉強に切羽詰まっているというわけでもないのに、だ。
しかしそれを言うなら……興味がある、ということなら、僕もそうなのだけれども。
「でも、先生。三週間後はちょっとお休みしてもいいですか」
「三週間後?」
「はい」
三週間後は七月十六日か。学期末試験も終えて、一休みしたい頃合いなのかもしれない。
「授業じゃないんだから、君の好きなようにすればいいよ」
「ふふ。そうですか」
彼女は軽く笑ってから、アイスティーに口をつけた。
その笑みを単語で表現するなら――してやったり、といったところか。
「今、私の好きなようにすればいい……先生はそうおっしゃいましたよね?」
「う、うん」
「それでは私の好きなようにさせてもらいます」
彼女は鞄の中から便箋を取り出すと、さらさらっと何かを書き始めた。
「三週間後は午後六時にここにいらしてください」
京都市下京区四条通烏丸東入ル長刀鉾町十七番地
「いらしてくださいね」
そう言うなり、彼女は机の上に広げていた教材とノートを片付け始めた。いつの間にか五時を回っている。
「ちなみにだけど」
「先生は、先ほど、私の好きなようにすればいいとおっしゃいましたよね?」
もし行かなかったらと言おうとしたところで、先を読まれた。
「そんな、先生ともあろう人が、教え子に対して、御自身の言葉を違えるようなことはなされませんよね?」
「いや、君が好きにすればいいと言っただけで、僕を好きにしていいとは言ってないんだけどなー」
「私は先生を好きにしたいんです」
売り言葉に買い言葉でとっさに発してしまったのだろう。
お互いが言葉の意味に気が付くのに三秒ほど。
「ち、違うんです、今のは」
「あ、あぁ」
「今のは聞かなかったことにしてください」
顔を赤らめながら彼女は席を立ちあがった。
「……先生の意地悪」
理不尽な言われようだけど、ぷくっと膨れ上がった彼女の顔が可愛かったから良しとしようか。
なんだろう。僕はもう……彼女の好きなようにされてしまっているのかもしれない。
* * *
京都市下京区四条通烏丸東入ル長刀鉾町十七番地。
京都中心部の地名は南北の通り名、東西の通り名に町名を組み合わせるから長くなる。
ただ調べてみたらなんてことはない、これは阪急烏丸駅の住所そのものだ。普通に烏丸駅で待ち合わせにしましょう、と言えばそれまでなのだが、彼女はあえてこの長ったらしい住所を紙に書いて僕に示した。
さて、それでは問題です。この時の彼女の気持ちを答えよ、なんてね。
「お待ちしておりました、先生」
七月十六日火曜日、午後六時。祇園祭宵山の今日の烏丸駅は、いつも以上に人でごった返している。
名前も連絡先も知らないというのに難なく合流できた彼女の髪型はいつものまま。ただ、今日は制服ではなく、淡い紫色の浴衣を身にまとっていた。
「そういうことね」
いつもよりも上品で、別嬪に見える彼女の姿に胸が躍るのも仕方がない。胸の内を顔に出さないために、あえて僕は軽い言葉を紡ぐ。
「ここ、長刀鉾町って言うんだ」
京都はどうしても縦横の通りで認識ができてしまうから、ここも四条烏丸といった形でしか記憶していない。祇園祭のときくらい、長刀鉾町と呼んでみるのも、なるほど悪くはない。
「単に駅で待ち合わせましょう、というより、風情があるかと思いまして」
コンチキチンという祇園囃子が響き渡る中、僕達は山鉾の提灯が照らす人混みの中を少しずつ歩いていく。
真夏の京都の街中だ。夜になったとはいえ、暑い。
「飲みますか?」
「ありがとう」
事前に調達してくれていたようで、天然水のペットボトルを彼女が僕に渡してくれた。
「祇園祭の宵山ってこんな雰囲気なんだね」
祇園祭を実際にこうやって体験するのは今回が初めてだ。
「楽しんでおられますか」
「楽しいけど……暑い」
「ふふ。それは仕方ないですよ。夏ですから」
今度は扇子を渡してくれた。男物だからわざわざ用意してくれていたのだろう。この状況に手慣れているようだった。
「もしかして、君は来たことあるの?」
「はい。中学の頃に友達同士で」
彼女のこれまでの生い立ちを、僕は何も知らない。
高校はおそらく京都市内。それで、烏丸駅で準急か普通に乗っているから、僕よりも京都寄りのところに住んでいるのだろうな、ということまではわかる。だから、祇園祭に以前に足を運んでいたとしてもおかしくはない。
ただそれは……僕が知らない、彼女の姿だった。
「そうか」
いや、そもそもだ。
僕は彼女の何をわかっているというのだ。
だって、名前すら知らないじゃないか。
たまたま出会った余所の学校の女子高生に勉強を教えるというだけの関係。今まではこれ以上踏み込むことを恐れていたのだ。名前も住所も学校名も。彼女のことを知れば知るほど、きっと僕と彼女はただの通りすがりの関係ではいられなくなる。
僕と彼女は生きている場所が違うのだから、それでいいと思っていた。そうしなければいけないと思っていた。
でもそれは……僕の気持ちをふまえた答えじゃない。不正解だった。
「あの」
彼女は僕を祇園祭に誘ってくれた。わざわざ烏丸駅の地名を長刀鉾町と呼ぶという、一風変わった仕掛けとともに。
彼女はとうの前に、名前も知らないただの通りすがりの関係から先へ進みたいと思っていたのだ。それなのにあと一歩のところで、彼女が思いとどまっているとすれば……それは僕の態度のせい。
「あのさ」
「なんでしょう?」
彼女の背後にはちょうど長刀鉾があった。提灯で照らし出された彼女の顔は、今までで見た中で、最も美しく、そして、可憐なものだった。
「君の名前を教えてくれないか?」
目を丸くしたのは一瞬のこと。すぐさま、彼女は澄ました笑みを浮かべ、さらっとこう告げた。
「申し遅れました。中川天音、と申します」
ふふっ、と彼女は笑う。
「ようやく名前を聞いてくださいましたね。どういう心境の変化なのですか」
「大したことじゃないよ」
気恥ずかしくなって視線を逸らした。
「そんなことはありません。現代文の試験なら確実に問題になるところです」
「困ったな、それは難問だ」
「……先生の意地悪」
僕だってまだ自分の気持ちを整理できているわけじゃない。
このまま夏祭りの雰囲気に流されると、行きつくところまで行きついてしまいそうで。そんな気持ちを彼女、いや、中川さんは汲んでくれるのだろうか。
「教えてくれないならいいです。自分で考えます」
「そうしてくれると助かるよ」
それとも。
「その代わり、私のことは下の名前で呼んでください」
「なんで?」
「なんでも何も。先生は先ほどおっしゃいましたよね。私の『名前』を教えてほしいと」
わかったうえで、さらに弄んでいるのだろうか。
「いや、この場合の名前は姓名両方という意味で」
「中川は苗字です。名前は天音です」
恋愛経験に乏しい僕には、彼女の気持ちがわからない。
「天音さん」
「今まで、君とか言ってきていたのに、今さら、さん付けなんて不要だと思いませんか?」
「あぁもう! 天音って呼べばいいんでしょう、天音!」
わからないからこそ……もっともっと知りたくなる。天音の気持ちを。
「はい。これからも、末永くお願いいたします」
そんな大げさな、と突っ込む野暮なことはしない。
これから天音と一緒に時を過ごしたい。それは偽りのない僕の気持ちだから。
「そういえば私も先生の名前をお伺いしていませんでしたね」
「そうだった。僕の名前は――」
完
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