ロックスの悪魔
睡雅
1. 古井戸
井戸は人間に似ている。
浅い井戸もあれば深い井戸もあり、なみなみと水をたたえた井戸もあれば枯れ井戸もある。重い蓋で固く頑丈に閉ざされ一片の光も差さない井戸。かと思えば蓋もされず通りすがりにゴミを放り込まれる井戸。丸い井戸。四角い井戸。小さな井戸。大きな井戸。
頑なに外界との接触を断つ人間もいれば見知らぬ人間からクズのような感情を放り込まれる人間もいる。枯渇してしまったと思い込んでいても何かの変化で生き返ることが出来る人間もいる。井戸にもまたそれぞれの〝個性〟のようなものがあるのだ。人間に作られやがてその役目を終えたとしても、そこに在り続ける限り変化し続けるものと変わることを拒絶するものがある。
澄んだ水を湛えるものも、地脈から流れ込む毒を抱えたものも。
女はその古井戸に石を投げ込んでみた。
陽の光が当たらないその場所はいつも薄暗く、井戸を覗き込んでも何も見ることはできなかった。どれくらいの深さなのか底に水が溜まっているのかどうかも全く分からなかった。女が投げ込んだ石は一瞬のうちに闇に吸い込まれた。静かな春の午後だったが、女の耳には微かな音さえ届かなかった。
女はもう一度小石を投げ込んでみたが結果は同じだった。女の手を離れた刹那小石は真っ直ぐ闇に吸い込まれ、音の無い世界に移行したように思えた。最初に投げ込んだ石に当たる偶然を期待したが、女は小さなため息をついて古井戸から立ち去った。
女は古井戸の近くに住んでいた。時々気が向くと古井戸を覗き込んでいたが、やがて女はいなくなった。
農夫はヤギを飼っていた。古井戸の近くの畑で野良作業をしている間ヤギに雑草を食べさせていたが(井戸の周りにびっしりと雑草が生えていたためだ)、蛇に驚いたヤギが古井戸に落ちてしまった。
農夫は慌てて家の納屋から梯子を持ち出し、古井戸の壁に立てかけてヤギを引き上げた。ヤギは恐ろしさで悲痛な鳴き声を上げていたが、農夫が「もう大丈夫」と背中を優しく叩いてやると安心したように小さく鳴いた。ヤギの足にはぬかるんだ黒い土がべったりと付いていたが、水で濡れた形跡はなかった。
信心深い農夫は古井戸の周りの草を刈り花立を誂えた。ヤギの命を取らなかったこの古井戸は神聖なものであろうと思ったからだ。
その後年老いた農夫は胃癌を患い、認知症を併発してこの世を去った。
呆れるほど台風が発生した年があった。
夏から秋にかけてあぶくのように台風が生まれ、不快な湿度と不安と苛立ちをしつこく撒き散らしていた。ひとつの台風が過ぎ去ると別の台風がやってきて、うんざりする量の雨を連れてきた。
少女は雨が止んだ合間に飼い犬と散歩に出た。
家の裏手に荒れた田畠があり、田畠を縫うように細い道が別の道へと繋がっていた。いつ降り出すか分からない天候だったために少女は散歩を早めに切り上げようと思い、家の裏手からその細道を抜けて古井戸の前に出た。細道の途中に鹿垣があり、鹿垣が終わる隅のあたりにまるで風景に溶け込むようにひっそりとその古井戸はあった。
少女は古井戸の前で立ちすくんだ。
何度も何度も訪れた台風のせいか、井戸からはごうごうと大きな音とともに水が溢れ出して道を塞いでいた。少女は仕方なく道を引き返そうとして踵を返したが、ふと井戸から流れ込んだ水が溜まっているのを目にした。
細い道の下、荒れた田畠の草さえ大量の水に溺れていた。泥水の上に浮かんだ白いものを見た少女は恐ろしさのあまり金切声を上げた。
それは長い髪を蓄えた人間の頭蓋骨だった。
ロックスの悪魔 睡雅 @Alexandria
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