第9話
次の日。出社すると千秋と畑中に体調を心配された。 近くで話が聞こえたらしい横溝にも。
どうやら岳は、千波がファミレスに行かなかった理由を体調不良にしたらしい。
そんな彼は久しぶりに社内で仕事らしい。千波のことを見てニコッと笑ってみせる。ただし、今日は珍しく何も言わない。
千波はいつも通り業務をこなそうとパソコンに向かう。
だが、仕事中にも関わらず涙がにじんでくる。
昨夜は泣けそうで泣けなかったのに。
まだ昨夜のことを引きずっているらしい。気分が重たく、食欲もわかない。
ここまでショックを受けているなんて少女マンガの主人公気取りか、と自分にツッコむ。
忘れたいのに忘れられない。昨日の衝撃はそれだけ大きかった。
以前、誰かに聞いたことがある。「忘れたい」と考えている時点で忘れられないと。
(嫌だ……。しばらくこんな状態とか……)
千波は手を止めパソコンから目をそらす。誰にも聞こえないようにかすかなため息をついた。
そんな午後、今日も大草が会社を訪れた。
ちょうど千波が畑中に保存したデータを渡したところだ。席に戻ろうとしたら、大草に呼び止められた。
「こんにちは、若名さん」
「大草さん……こんにちは」
彼は帽子を外して頭を下げる。それに合わせて千波も会釈をした。
「どうした? なんか元気ないね」
「いえ……」
笑顔の彼にうまく笑い返すことができなくて申し訳ない。彼が気を悪くしていないといいが。
大草は合コン以来、ここに訪れる度に必ず千波に話しかける。
告白めいたことを口にしたが、社外で会うような誘いをしたり告白を蒸し返すことは絶対にしない。
しかし、あれはからかっただけだったのだろう、とは思えなかった。
不意に訪れた沈黙でほほえむ彼の顔がとびきり優しいのだ。他の社員に向けるものとは違う。まるで初恋を知ったばかりの少年のような純粋さがあふれ出ていた。
昔の男慣れしていない千波だったらコロッと彼に心を許していただろう。今も男慣れしているわけではないが。
「チナは昨日から体調があまりよくないんだよ、ケンちゃん」
後ろから岳が現れ、千波の横に並ぶ。しれっと肩に手を置かれただけなのにドキッとし、顔が強張る。
最近は岳で心と頭の中を占められていた。大草からの告白めいた言葉を忘れてしまいそうなほど。
「え、そうなの? 出勤して大丈夫だったの? なんなら配達のついでに僕が送ってあげようか?」
「……ありがとうございます」
冗談めかした言葉に苦笑いを返した。彼のおどけた調子に一瞬だけ、心がが軽くなったような気がした。
二人で笑いあうと、肩が重たくなった。否、岳が肩にのせた手に力を入れたようだ。
「ケンちゃん、他の部署が集荷待ってるみたいだよ? なんならここまで持ってきてるみたいだけど」
岳が指さした先には、部署の出入り口で箱を持っている者が何人か。皆、小さな声で”ケンちゃ~ん、はやく~”と呼んでいる。気さくな彼は他の部署でも人気なのだろう。
大草は帽子を被り直すと頬をかいた。
「あらあら本当だ。じゃ、またね。がっくん、若名さん」
「うん、またよろしくねー」
「お疲れ様です」
岳はかろうじて笑顔を保っているようだ。頬が引くついている。
二人で大草の背中を見送ると、岳に肩を二回叩かれた。絡まれるかと思ったが、彼はあっさりと自分の席へ戻ってしまった。
大草のおかげで少しだけ気持ちが晴れた気がした。
それでも、昨夜見た空人の横顔が時折よぎる。
その度に悲しみが襲ってきて仕事の進度はいつもより遅かった。夕方にもなると周りから人が減っていく。先程まで岳がいたようだが、いつの間にか姿を見なくなった。そのことに心がきゅっと締め付けられる。
終業時刻を迎えてからは、パソコンの画面を見つめながら時々岳のことを見ていた。その時の彼は何かをするわけでもなく、帰ろうとする社員に話しかけては見送っていた。
さすがに畑中も帰るらしい。コートを羽織り、心配そうに千波のデスクに近づいた。
「若名さん大丈夫? 体調悪かったんでしょ? 適当な所で帰りなよ」
「あ、はい……。あともうちょっとです」
「無理しないでね。お疲れ様」
「お疲れ様です」
とうとう一人になった。
千波は無言でカタカタとキーボードに指を走らせ、やっと仕事を終えた。
凝った肩をポンポンと叩いていたら、頬に温かいものが当たった。
振り向くと、岳がココアの缶を差し出していた。
「お疲れ。帰るぞ~」
帰ったとばかり思っていた人物の登場に、千波は目を見開いた。
缶をしきりに頬に押し付けてくるので、眉間にシワを寄せて受け取った。
本当は嬉しい。部屋内は暖かいが指先はずっと冷たかった。
「もう帰ったんじゃないんですか?」
「勝手に帰すなよ。チナが一人で頑張ってるのに帰れるかよ」
岳は千波の頭をそっと少しなでると、反対の手にしている缶コーヒーをあおった。
今日はやたらとふれてくる気がする。上目遣いでにらみつけるが、彼はどこ吹く風。
「あーあったか。チナも飲みなよ。あったまるぞ」
「……いただきます」
千波の怒りの視線など、気づいてすらいなかったようだ。隣のデスクにもたれかかった。
勧められるがままにおとなしくココアを飲んだ。冷たい手にちょうどいい温度だ。体も温まり、ふぅ、という息が出た。心が安らいだ気がした。
「今日は珍しいな。こんな時間まで残ってるなんて」
「今日中に終わらせたかったので。ハンパな所で止めておくと気持ち悪いですし」
「チナらしいわ」
笑いながら岳は千波の頭をワシャワシャとなでた。
「ちょ……やめて下さい。髪型崩れる」
「別にいーじゃん。もう帰るだけだし」
ジト目になると、岳は笑いながら”ごめんごめん”と謝った。彼は手櫛で千波の髪を整えた。その手つきが優しくて、千波はおとなしくされるがままのになる。
「……香椎さんは何してたんですか?」
一連の動作に照れたのをごまかすために話題を振る。先ほどまで見上げてにらんでいたのに、今は顔を上げることさえできない。
うつむいていたが、隣から岳の気配が消えたのが分かった。
視線をめぐらせ、顔をゆっくりと上げた。岳はブラインドを下ろした窓の前で、行ったり来たりを繰り返していた。
帰るぞ、と言っていたくせに帰る気配を出さない。
千波はデスク周りを片付け、コートを手に取った。立ち上がってキャスター付きの椅子を押し、袖に手を通す。
「あたし帰りますね。さすがにもう遅いですから」
「あ、のさチナ!」
岳の一際大きな声に、マフラーに伸ばした手を止めた。彼はらしくなく視線をそらし、頭をかいてうつむいた。
「泣いていいよ」
まるで今日一日、千波の心境を知っていたかのような口ぶり。
優しく見つめる彼に、不覚にも泣きそうになる。
岳は千波に歩み寄ると、目を細めた。
あまり大柄ではない彼と並ぶと必然的に顔が近くなる。
甘いマスクの持ち主に、顔のパーツの完璧な位置関係を見せつけられた。
「好きだったんだろ? 昨日見た大学生」
「はぁ!?」
空人のことはカヤとズッキしか知らない。会社の人に悟られるようなことを口にしたこともない。
なぜ岳が空人のことを知っているのか。顔も、昨日ホームセンターにいたことも。
千波が真っ赤になったり真っ青になったり震えていると、岳は顔の前で両手を合わせた。
「ごめん! 俺見てたんだ、大学の文化祭でチナがあの大学生と話してる所」
岳の話はこうだ。
彼の恩師を探していたら、たまたま千波と空人が話している所を目撃してしまったらしい。二人の会話の内容も聞こえた。そこで空人が、千波が忘れられない人だと分かった。
千波は火が噴き出しそうな顔を手で覆った。
人生で初めてに等しい行動を見られた。普段なら絶対に伝えない言葉も聞かれた。
それをよりにもよって岳に見られていたなんて。
「はっず……。黒歴史見られたみたいになってる……」
「お前、今日ずっと泣きそうだったじゃん。昨日だってめっちゃ辛そうだったし……。その調子だとあれから一度も泣いてないんだろ」
千波は思い頭を垂れ下げ、顔から手を離した。
なんでこんな急に素直になれたのか。もう理由はどうでもよかった。
あっさりとうなずいた千波に驚き、岳はわずかに目を見開いた。ほほえむと片手で彼女を引き寄せ、両腕で包みこんだ。
未遂だったり事故だったり。
こうして本気で抱きしめられたのは初めてだった。
「香椎さん……?」
「チナがおとなしくしてるのは珍しいな。ずっと辛かったんだろ、よしよし」
岳はポンポンと千波の頭をなでる。
異性にこんなことをされるのは初めてだった。
抱きしめられ、優しくされたせいか千波の瞳から涙がこぼれた。雫はあっという間に頬を伝っていく。
あ、でも。
千波はやんわりと彼の腹を押した。
「ファンデ、スーツにつくかも……」
「いいよ。ファンデーションでも鼻水でもつけていいからとりあえず泣け。泣きそうで泣かないの、見てるこっちが辛いわ」
鼻水はさすがにつけんわ……とツッコミたかったが、涙がボロボロとこぼれる方が早かった。
千波が初めて会社で泣いた瞬間だった。しかも人前で。
自分がもし、会社で泣くなら陰でひっそり、だと思っていた。みじめな気持ちで。
誰かに泣きつくのは久しぶりだった。カヤとズッキ相手にでさえ、こんな風に泣いたことはなかった。
さすがに声は上げなかったが、肩がずっと震えている。知らず内に岳のスーツを握りしめていた。
岳は千波の頭を片手で引き寄せ、彼女の耳元でささやいた。
「……俺のことしか考えられなくなった?」
……。
千波は無言で首を振る。
「今ので恋に堕ちる所じゃね!?」
「……バカ」
千波は岳からゆっくり離れ、背を向けてティッシュで目元を軽く押さえた。
岳はふぅ、と息をついてポケットに手を突っ込んで近くのデスクにもたれかけた。
「俺ならチナにあんな思いさせないよ?」
不覚にも動きが止まってしまった。振り返ろうとしたら岳が、千波の肩にあごを乗せた。
先ほどから近すぎる。調子に乗り過ぎだ。……というのは建前の指摘で、これ以上続けられたら心臓がもたない。
とりあえずティッシュを丸め、ゴミ箱に投げ捨てた。バッグを引っ掴んで逃げるように岳から離れた。
「……お先に失礼します!」
「チナ」
部屋を出る直前に呼ばれ、肩をビクつかせて振り向いた。
「気を付けて帰れよ」
岳は片手を上げてひらひらとさせている。
優しい表情。それには見覚えが。つい最近も見たばかりだ。
千波は無言で勢いよく頭を下げた。部署の部屋から走り去り、会社を出る直前で立ち止まった。
近くの壁にもたれ、ずるずると座り込む。
(ずるいよあんなの……)
最後に見た岳の表情。
それは、空人が恋人に向けていたものと全く同じだった。
(あたし彼女じゃないのに……)
それでも。あの表情を浮かべていた理由ならわかる。岳がいつも言ってることだから。
岳の千波への"好き"は本気だ。
自分がいつも受け入れようとしなかっただけ。
それでも。とうとう気づいてしまった。自分の気持ちにも。帰り際の岳の姿を見て。
(あぁ……好き。私も好きだよ……。いつの間にこんなんなっちゃったんだろ……)
とうとう自覚した思い。
きっかけは空人のことが大きいだろうが、他にもないわけではない。
カヤとズッキの岳への太鼓判、横溝からの合コンの誘い、千秋の理想の男性の話、大草との会話。
最近は何かと恋愛とは、結婚とは、と考えさせられる機会が多かった。
それがとうとう爆発してしまったのだ。
岳は一人、取り残されるように千波に振り切られた。
(あちゃー……。刺激が強かったか?)
頭をかき、千波が消えた方向を見つめていた。
コートを腕にかけてバッグを持ち、彼も部署を出た。
ただし、向かったのは会社の出入り口ではない。
誰もいない廊下に革靴の音が響く。階段を上がった先にあるのは社長室。その隣にある部屋の前で岳は立ち止まった。
彼はスーツの内ポケットから黒いカードを取り出し、ドアの横にあるカードリーダーに当てた。
五秒ほどカウントする電子音が響き、同時にドアのロックが解除される音がした。
岳はカードを内ポケットに戻して、ドアノブに手をかける。
「しゃ……社長!?」
「一足遅かったね、香椎君」
いくつものモニターが壁に並んでいる部屋。どのモニターも薄暗い部屋が映し出されている。
その中央でデスクトップを前にしている男────社長は、ドアを開ける格好でかたまっている岳に不敵に笑った。
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