第5話

 結局あの後、会社近くで時間を潰し、約束通り定時で退社した美香とディナーへ繰り出すことになった。


 自宅の近くにある、フレンチだ。

 記念日の度にこの店を予約していたが、ここ1年ほどは俺の仕事が忙しくなりすぎてご無沙汰だ。


「しかし本当に定時で上がるとはね。俺、定時なんかで帰ったことないよ」

「一応、貴方に言われたタスクは全部終わらせたわよ」


 やはり美香は仕事ができるのだ。

 そして、美香もそれを楽しんでいるようだ。心なしか肌艶もいいし、声も弾んでいる。


 元の体に戻ったら、また専業主婦生活に戻るのだろうか?

 このまま、なんなら俺と同じ会社に就職すればいいのに。


 ん?「元の体に戻ったら」?

 果たして、戻れるのか?

 体の芯を、ヒヤリと冷たい水が滑り落ちたような感覚になる。

 元に戻れる保証なんて、どこにもないではないか。何の手掛かりもない。

 一生このままという可能性も――


 それ以降は、何を食べても味がしなかった。


 **


 今日も飲みすぎたようだ。

 立ち上がると足がふらついた。

 慣れないヒールを履いているせいもあるだろう。


「酔い覚ましに歩いて帰りましょう」


 俺の姿をした美香の顔色は、変わらない。

 そういえば、美香は酒が強いのだった。

 ってことは、アルコールへの耐性って体質的な要因より精神的な要因の方が大きいってこと?


 月夜の中を、2人肩を並べて歩く。


「危なっかしいわねぇ、私の体で転んだりしないでよ」

「ねぇ、美香。」

「何?」

「どうするの、このまま戻らなかったら」


 ついに弱音を吐いてしまう。

 言ったら現実になりそうな気がして、今日ここまで言えなかったことだ。


「あら、貴方、戻りたいの」

「そりゃ当たり前だよ!…俺は、仕事が忙しいのを言い訳に、色んなものをないがしろにしてきた。美香との時間もそうだし、マキの件でも……。思い知った。いかに俺が思い上がってきたか。俺は俺の体で、俺の人生を生き直したい。叶うなら」


 俺のボヤキとも告白ともつかぬ独り言を黙って聞いていた美香は、不意にその場に立ち止まった。


「じゃあ、元に戻ってみましょう。心当たりがあるわ」


 そう言って、おもむろに靴を脱ぎ始める。

 リーガルの革靴を、まずは左足から。


「靴を交換しましょう。片足ずつよ。」


 よくわからないが、俺は言われるがまま、ルブタンの靴をまず左足から脱ぎ、代わりにリーガルの靴に足を通す。

 右足も同様だ。


 これで、俺の小さな足はブカブカのリーガルの靴にすっぽり収まり、代わりに美香の大きな足はルブタンにギチギチに詰まった。


「昨夜もこうやって、靴を交換したの。覚えてない?」

「覚え…て、ない」

「貴方が酔っ払って帰ってきて、『そのルブタンを寄越せ!』って言い出して。私には、俺の靴でも履いとけ、って。それでコンビニに行くぞ~って一緒にしばらく歩いてたんだけど、こんなバカ高いヒール履いてられるかって途中で諦めて引き返したの。」

「はあ、そうだっけ…」

「Put yourself in my shoes.」


 美香が急に、流暢な英語を喋り出した。

 そういえば、学生時代はバックパッカーでアメリカを横断したとか言ってたな…


「私の立場になってくれ、っていう意味の英語よ」


 いつの間にか、自宅マンションにたどり着いていた。


 久々に、1つのベッドに2人で横たわる。


「さあ、もう一度靴を交換したから、次に目覚めたらきっと元に戻っているわ」

「ほんとかな」

「わかんないけど。戻れなかったらその時はその時じゃない。ねえ」

「ん?」

「元に戻る前に、入れ替わったまま夫婦の営みをしてみたらどうなるか、興味ない?」

「ああ、それは興味あるね。とても」


 **


 朝。カーテンの隙間から容赦なく差し込む日の光が、目の奥を刺激する。

 ……頭、いてー!完全に二日酔いだ。


 寝返りを打とうとして、すぐそばに美香が寝ていることに気づく。


 陶器のような肌、バラ色の唇。

 面食いな俺が愛して止まない、妻の顔。


 ということはやっぱりあれは夢だったのか。


「美香」


 妻の細い肩を優しく揺り動かす。


「…あら、おはよう」

「変な夢を見たんだ」

「それは…」


 美香の瞳がいたずらっぽく光る。


「私たちが、入れ替わる夢?」


 はっとして、スマホを開く。

 マキの最後のLINE。


「夢じゃ…ない?」

「ふふふ、楽しかったわね。また、日常が退屈になったら入れ替わって遊びましょう。ただし、貴方の仕事が忙しくないときにね…」


 ああ、それと。

 美香は真っ白な肢体をうーんとのびやかにストレッチしながら、こともなげに付け加えた。


「長谷川女史との古美術展、今週末だから」


 その時にはまた入れ替わろうと思う。絶対に。


 ≪終≫

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