第4話
14時。
静寂が支配する自宅に帰る気になれず、タクシーに乗って向かった先は、俺の勤め先だった。
全く、どれだけ会社が好きなんだ、俺は…。
外周をぐるりと回って、中庭へ入る。
コの字型の建物に囲まれた、植栽豊かな弊社自慢の中庭は、一般にも開放されており、散歩ルートにする人も多い。
俺もよく、煮詰まってくると中庭にあるベンチに腰掛けて考えに耽る。
午後の休憩にでも行っていたのだろうか、コンビニの袋を提げたうちの女性社員2人組が、かしましくお喋りしながら社屋の中へと入っていくのが見えた。
「ねー、そういえばさっきのランチで見かけた坂本課長」
「あー、サバの味噌煮?」
「意外と食べ方綺麗で好感度上がったんですけど」
「骨しか残ってなかったもんね!」
「坂本課長改めサバ味噌課長だ」
「サバ味噌課長、ウケる」
なんということだ、妻のお陰で俺の新たな隠語が生まれてしまったようだ。
そういえば、12時のランチ報告以降、美香からの連絡はない。
まさかまた、何かおかしなことになっていないだろうか?
マキのことを思い浮かべる。
マキのLINEにはまだ返事をしていなかった。
無意識に、通話アイコンを押す。
飲み会からの帰り道、家に着くまでの道すがら、よくこうして電話での密会を楽しんだものだった…
「もしもし?」
勤務時間中にも関わらず、マキは着信に答えた。
「課長…あたしあれからずっと、中庭で泣いてるんですけど!」
「え、いるの!?」
「え、やだ、この声…まさか奥様!?」
しまった、今の俺は美香なのだった。
マキは完全に、妻が俺のスマホを乗っ取って電話を掛けていると思っている。
「奥様ですよね?私たちのこと、もう知っているんですよね?」
「えっ、えーと、まあ知ってるというか…なんというか…」
どうする、電話を切って逃げるか?
面倒を避けようとする心理が働いたその時、
「やあ、こんなところで何してる?」
颯爽と現れたのは俺、の姿をした美香。
「上の階から見えたからさ、降りてきたんだ」
いや、視力いくつだよ。俺の課があるのは20階だぞ。
「坂本課長!」
木陰からマキまで飛び出してきた。
俺の姿をした美香、美香の姿をした俺、不倫相手のマキが一堂に会する。
要するに修羅場だ。
「奥様、ですよね」
マキがキッと俺の顔を睨む。
「えーっと…ええ、そうよ」
そう答える他ない。
「あの、坂本課長を責めないでください。最初はあたしから迫ったみたいなとこありますし、今日はっきり振られちゃいましたし…」
だよね、だよね、そーだよね!?最初は君からグイグイ来たよね!?もっとその辺詳しく聞かせて、横にいる俺の姿をした美香に!
「あ、あら、そうなの…それじゃあ、夫は、アナタに迫られて仕方なく付き合ってたってわけね?」
「ええ、まあ途中からはノリノリで電話してきたり出張に付き合わされたりしましたけど…」
しゃらーーーーーっぷ!
そこまでだ。それ以上はいかん。いかんよ。
「ま、まあ、アナタも若いし?恋に恋する、みたいな気持ちがあったのかもしれないわね。今後はもっとちゃんとした人と真面目にお付き合いしなさいな」
俺に言えるのはこんなことぐらいだ。
見ると、マキが涙ぐんでいる。
「うう、奥様…お優しい…あたしはこんなに優しい奥様のことを裏切っていたなんて…!」
感極まったマキが、美香の姿をした俺の手をギュウッと握った。
思わずドギマギしてしまう。
ハッと目をやると、俺の姿をした美香が能面のような無表情で立っている…
「それで奥様…あの、もしかして、慰謝料とかは…」
「ああ、慰謝料!?慰謝料ね!?えーと…」
ドギマギしたまま、美香の顔色を伺う。
畜生、俺が今まで表情筋を鍛えるのをサボってきたツケなのか、全く感情が読めない顔をしてやがる。
「い、慰謝料のことは、また追って連絡するわ。まあでも、夫にも責任はあるのだし、痛み分けかなーなんて気も…ゴニョゴニョ」
なんとも答えづらい質問だが、語尾をゴニョらせることでなんとか事なきを得た。
「わかりました…あっ、あたし、そろそろ仕事に戻らなきゃ。それじゃ奥様、今日お会いできて良かったです!」
何か色々と吹っ切れたのだろうか、先ほどよりスッキリとした面持ちでペコリと頭を下げ、マキは社屋の中へと吸い込まれていった。
最後まで、俺(の姿をした美香)の方を見ることもなく。
「さーてさてさて」
マキが見えなくなった後、美香が何を言うのかと思えば。
「定時まであと2時間。さささーっと仕事終わらせちゃうから、夜食事でもしましょう」
「え、そう来る!?」
てっきり修羅場の続きかと思いきや。
つくづく、読めない妻だ。だがそこが良い。
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