第3話
このまま元に戻れなかったらどうしよう。
ソファの上で膝を抱えて、嫌な想像ばかり働かせる。
最初のうちは俺が仕事の指示をすることになるが、慣れてきたら美香は一人でも回していけるようになるだろう。
午前中の数回のやり取りで、美香の能力は俺と同等かあるいは上手であることを察した。
そして俺は、これまで築いてきた関係を断ち切り、専業主婦として、社会的な関わりをほぼ持たずに過ごしていく。
今はとても見る気にならないが、いつかは昼間のワイドショーをテレビから垂れ流す日常になるだろう。
いずれ「坂本美香」として何か仕事を始めるにしたって、一から関係性を築いていくことになる。
今までの社会人生活で、いかに自己を犠牲にし、ここまでの地位に上り詰めたか。
それをもう一度繰り返すのは…不可能だ。
そこまでの気力も体力も、もう残っていない。
茫漠。
はああ…っと、もう何度目かのため息をついたとき、「しゅぽっ」またLINEの通知が鳴り響いた。
美香からだ。
開いてみると、湯気の立つ定食の画像。
「今日のランチはサバの味噌煮定食です」
サバの味噌煮定食、か。
俺の普段の食事は、コンビニで適当におにぎりを買って済ますことが多い。
時間があるときでも、「サバの味噌煮」は選択肢に入らないだろう。
「ヘルシーな食事で俺の体を気遣っていただき、ありがとうございます」
返信すると、俺の、というか美香の腹もぐううう~っと鳴った。
ネガティブな思考に陥るのは、きっと腹が減っているせいもあるだろう。
普段なら買い置きのインスタントラーメンで腹を満たすところだが、美香の体のことを考えると、少しでも体が喜ぶものを摂取してやりたい。
俺はグーグルマップを立ち上げ、近くにあった「マクロビカフェ」とかいうところに目星をつける。
マクロビが何かは知らないが、何か意識の高そうな女性がそんなことを話しているのを聞いたことがある、ような気がする。
きっと健康にいいのだろう。
ずっとパジャマのままだった俺は、俺が一番好きな美香の服(ぴったりと体に沿ったニットワンピだ)に袖を通し、先日美香の誕生日に買ってやったルブタンの靴を履き、外へ出た。
**
マクロビカフェとやらは、平日昼間だというのにほどほどに混みあっていた。
ほとんどが女性客であり落ち着かないが、俺も今は見た目は女性なのだった、と思い出す。
日替わりランチを頼んだところ、豆腐ハンバーグに人参の細切り(ラペ?とかいうものだと説明された)、レタスサラダ、玄米ご飯にスープがついてきた。
あとフェアトレードだかのアイスコーヒー、デザートに豆乳プリンがつくらしい。
これで1500円。高いのか妥当なのかよくわからない。
俺はテーブルの下でそっと靴を脱いだ。
ヒールでここまで歩いてくるのは、相当骨が折れた。
歩き方が悪いのか、かかとに靴擦れをしてしまったようだ。
美香の体に申し訳ない。
周りを見ると、ほとんどの女性がヒールの靴を履いている。
平気な顔をしているが、きっと相当な鍛錬の賜物だろう。
店にいるうちに少しでも足を休ませよう…
豆腐ハンバーグは、旨かった。
淡泊ながら、しっかりした味付けのソースがかかっているので満足感がある。
ハンバーグと玄米を交互に口に運んでいると、目の前にすらりと長身の影が現れた。
「相席よろしいですか?」
「ああ、はい」
見上げると、やや長髪で、おしゃれ髭を生やしたクリエイターじみた男がにこやかに微笑んでいる。
どこかで見たことのある顔だ。
「坂本さんですよね。僕もここ、よく来るんです。陶芸教室の前とか」
ああ、思い出した。
美香の通っている陶芸教室の講師だ。
有名な陶芸家の親を持ち、本人も陶芸教室に個展に精力的に活動しているとかなんとか…
「この間坂本さんが作ったお猪口と徳利、もうすぐ焼きあがりますよ。旦那さんへのサプライズプレゼント、楽しみですね」
講師はさらりと暴露する。
美香、そんなの作ってくれていたのか…
しかしこいつの口からは聞きたくなかった。いやなんとなく。
「いやぁ、いつも言ってますけど、つくづく旦那さんが羨ましいなぁ」
俺の勘違いではない。
この講師の鼻の下は今、間違いなく伸びている。
そしてそれは多分、普段から。
くそ、俺が不倫なんてしている間に、美香は陶芸教室の講師にこんな風に言い寄られていたなんて。
「うふふ、うち、夫婦仲はとてもいいですのよ」
ここは俺が応戦しなくては。多少おかしな口調になっている気がしないでもないが、ここぞとばかり惚気アピールをする。
「このルブタンの靴も、旦那が私の誕生日に買ってくれたんですの」
講師の目がすうっと美香の足に吸い寄せられる。
じろじろ見るんじゃねえ、と、俺は自分で蒔いた種にも関わらずそんなことを思う。
「坂本さんはいつも、ご主人のお話を楽しそうにされますね」
え、そうなの?
いつも俺の話を?
「ちょっとおバカだけど、いいやつなのよ…って。ほんと、愛されてて羨ましい旦那さんです」
なんだかちょっと引っかかるが、悪い気はしない。
結局、俺は運ばれてきたデザートも最後まで平らげ、まだ食事を続ける講師を残し店を出た。
「では、また教室で」
会釈をし合い、歩き出す。
「いってぇ!」
すっかり靴擦れのことを忘れていた。
タクシーを呼ぼうか、どうしようか。
そもそも、今からまたあの静寂の家に帰るのか。
まだ元気な太陽が照りつける路上、しばし思案する。
そして、やってきた一台のタクシーを呼び止めた。
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