第2話

 顔を洗ったあと、鏡に映る美香の顔に、しばし見惚れる。


 大きな黒目がちの目。

 陶器のようになめらかな、透き通った肌。

 口紅を塗らなくてもふんわりとバラ色の唇。

 やはり、面食いな俺の好みにドストライクだ。


 結婚して数年。子供はいない。

 俺には、美香さえいれば十分幸せだ。

 と、思っていたのに。


「あー、なんで不倫なんかしちゃったかなぁ…」

 ぼやいた瞬間、「しゅぽっ」とLINEの通知が鳴り響き、びくっとする。


 9時。一回目の美香への指示出しの時刻だ。


 美香からは、昨日退社後に受信した社内メールの概要がまとめて送られてきていた。

 過不足なく、端的にまとめられているお陰で、スムーズに指示を出せる。


 あの件は村田に調整を依頼して、あれについてはクライアントにアポどりが必要だ。キーマンは――――

 しばし、仕事に没頭する。


 あの作業はいつもマキにお願いしていたが…今日は隣の課の子に依頼することとしよう。

 悪事を隠ぺいするための頭もよく回転する。


 LINEで一通り指示を出し終えると、急に静寂が気になり始めた。

 専業主婦の美香は、普段どんな風に日中を過ごしているのだろうか。


 いつも家の中はピカピカに磨き上げられ、手の込んだ料理で俺の帰宅を迎えてくれる。


 掃除機でもかけるかな…と腰を上げかけ、まあでも十分綺麗だしな、と言い訳をしてまたソファにどっかりと腰を下ろす。

 センスよく整えられた我が家のリビング。


 テレビをつける気にもならず、しばしだらりと体を弛緩させた。

 美香の均整の取れた体をもってすれば、こんな風にだらけた姿勢でも様になっているのだろう。


 **


「しゅぽっ」

 またLINEの通知だ。時刻は午前11時。少しまどろんでいたようだ。

 美香から何か仕事の確認かな、と思い画面をオンにし――固まった。


 メッセージの送り主は、「マキ」。

 内容は――

「先ほどはどうも。坂本さんにはがっかりです。最低な思い出をありがとうございました。さようなら」


 えええええええ――――

 いやいやいやいやいや。

 ちょっと待ってちょっと待って。


 最悪な想像が頭の中をすさまじい速さで駆け巡る。

 先ほどはどうも?

 ってことは美香か、美香だよな…?

 ってことは、バレて…いやいつから…っていうか…


 美香、一体マキに何をした!?


 俺は光の速さで美香に電話を掛ける。

 出てくれ、頼む…いややっぱり出ないで…


 果たして、3コールで美香は電話に出た。


「何?」

「あ、いやあの…」

「何、貴方の口から言って」

「その、須藤マキさん、の件で…」

「ああ。何かね、貴方と素敵な関係になっているようだったので、人気のない会議室に呼び出して」

「呼び出して…?」

「もう終わりにしよう、って言ったの。」

「ああ…」

「そしたら彼女、最後にキスしてくださいって泣くもんだから」

「えええ…」

「答えてあげたわ。すっごい濃厚なやつ。…でも、心と体って繋がっているのねぇ。私はあいにくレズビアンじゃないので、キスしたところで体の方がどうしても反応しなくて。それで彼女、『役立たず』って怒ってどっかいっちゃった」

「ああ、最悪だ…」

「何がなのよ?うふふ、大丈夫。マキさんとの縁が切れた代わりに、もっと強い縁を繋いでおいたわ」

「もっと強い縁…?」

「隣の部の女部長。長谷川女史。」

「ははは長谷川さん!?鉄の女の!?」


 長谷川部長は50がらみの独身女性だ。

 若い頃は女子プロをやっていたというその体躯もさることながら、一切の妥協を許さず、タフにクールに仕事を推し進める姿は、「鉄の女」と呼ばれ皆から恐れ敬われている。

 笑った顔は見たことがなく、いつもその化粧っけのない顔を不機嫌そうにゆがめている。


 そんな長谷川女史と、まさか不倫を…!?


「勘違いしないで。プラトニックな関係よ。」

「へ」

「長谷川さん、美術に造詣が深いのね。古美術展のサイトを熱心に眺めていたから、私の好きな焼き物の話をしたら意気投合しちゃって。今度一緒に古美術展、行くことになったわ」


 長谷川女史が美術に興味あるなんて、初耳だ。

 美香は趣味で陶芸をやっており、焼き物には目がない。

 難攻不落と言われた長谷川女史の懐に入り込むなんて、さすがだ。


「まあマキさんの件は後でじっくり話し合うとして」


 そうだった、そっちはまだ何も話し合えていない。

 違うんだ、ほんの出来心で、俺には美香しかいないんだ―――

 いくつも言い訳を用意していたのに、美香の話す予想外の展開に、全く口を挟む余裕がなかった。

 美香も、怒っているのかいないのか、読み取れない態度が不気味だ。

 昔からミステリアスなところがあるが…


「用件はそれだけね?ランチまでに終わらせたい仕事があるの。じゃ」


 一方的に通話を切られる。

 俺はまた、静寂の中に放り出されてしまう。


 っていうかまだ昼前かよ!

 今日がなげぇよ!!!

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