愛護

鈴川 ナッセ

愛護

ある日の夜、殊に二十時頃のこと。警察に一つの通報が入った。

「人を殺めてしまったかもしれない。」

通報があったのは住宅街。並んだ家々に挟まれ、車が横に二台やっと並ぶ程度の幅の路上だった。最寄りの警察署から二人の警官が現場に向かうと、そこには一人の男とその男に抱えられた犬がいる。男は、落ち着かないようにそこいらをうろうろしていたが、パトカーのランプを見ると待っていたといわんばかりに警官たちの前に駆け寄った。

「通報していただいたAさんですか。」

「はい、そうです。」

 早口にそう言うAの顔は緊張していてやや青白い。それに反して、激しい運動をした後のように肩で息をしており、Aの着ているTシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。

「ひとまず、落ち着いてください。それで…」

「あっちです。」

Aは家の塀沿いに立つ街灯のところを指さして急き立てるようにこう言った。一人の警官が側に残り、もう一人の警官がAの示す方に向かったが、そこには倒れている人などいない。その周辺や地面をよく探してもそれらしいものは全く見つからない。強いて言うなら金属製の小さいスコップが一つと、その横に一匹の潰れた蜚蠊が胸部から白い液体を出してコンクリートの地面にへばりついているのみである。

「ここに何があるんですか。」

「あぁ、そうか。これだけ見てもわかる訳がない。ごめんなさい。説明しないと…」

「とにかく、落ち着いて。ゆっくりでいいので、何があったか話して下さい。」

Aは狼狽しながらも警官に促されるように二三度深呼吸をした。すると、だいぶ呼吸も落ち着いたのか、事の顛末を話し始めた。Aによるとそれが起こったのは先ほど、十九時四十分を過ぎたくらいのこと。この街灯の立っている場所から道路を挟んで向かい側に玄関口を構えているのがAの家だという。その家で映画を見ていたところ外から犬の唸る声が聞こえた。Aは何だろうと思い、様子を見に外へ出た。すると向かいの街灯の辺りで一匹の犬と一人の男が向かい合っていた。犬は目の前の男に怒りの混じった声で唸り今にも襲い掛かりそうである。男の方はというと街灯の外で顔色は窺えなかったが、犬から逃げようともせずただぼんやりと立っているように見える。Aは彼に、危ないからこっちへ来いと伝えようと思った。しかし、Aが口を開けた途端、彼は犬が逃げる間もないほどの速度で唐突に犬の首へ手をかけ犬がもがくのも知らずに首を絞め始めた。その行為にAはあっけにとられ開いた口がふさがらなかった。しかし、首を絞められた犬の先ほどとは打って変わった苦しさを訴えるような声にAは我に返る。いくら襲われそうだったとしてもこんなことをしていれば犬を絞め殺してしまう。

「何をしているんだ。もうやめておけ。」

Aは彼にこういったが、聞こえなかったのか首を絞めるのをやめる様子がない。

「聞こえなかったのか。これ以上やれば死んでしまうから手を放せ。」

Aはもう一度、今度は先ほどより幾分か大きな声でこう言った。しかし、応答はなく依然と犬から手を離さない。Aは前のめりになって街灯の光のもとに露わになった彼の顔を見て思わずぎょっとした。歯を強く食いしばり、鼻には力んで縦にしわが入り、その目に至っては犬を鋭く睨みつけ、唸っている犬よりよっぽど獣っぽく見えた。Aは彼の異常さを感じ、犬のほうを助けねばと思い直す。それを助長するかのように犬はだんだんともがきを弱め、唸る声も小さくなっていき、もうすぐ死んでしまうのではないかとすら思える。それを見たAは思わずかっとなった。咄嗟に足元にあったガーデニング用具を入れたバケツからスコップを引き抜き、街灯のほうへ走った。Aはそのまま怒りに任せて、彼の右肩辺りを目掛け思いっきりスコップを振り下ろした。しかし、実際には必死だったため肩でなく頭に当たったようにも思えた。いずれにせよ殴られた彼は一度ぐらっと揺れたのち、背中から地面に倒れてしまった。倒れた彼の手から犬を放した。犬はすぐには立ち上がらず少しの間苦しそうにしていたが次第にゆっくりと整った呼吸を始めた。よかった、と思った途端に殴った彼のことが頭をよぎる。もしや殺してしまったのではと唐突に不安と焦りに駆られ、恐る恐る振り返る。彼はまだ地面に倒れたままだった。その様子に思わず腰が抜けたが、救急を呼ばなくてはと思った。しかし、立ち上がる時にした一瞬の瞬きの間に彼は目の前から忽然と消え、潰れた蜚蠊がその跡に残っていたという。

「そして、今に至ります。もしかしたら殺してしまったのではと…」

「しかし、死体がないのではなんとも。」

「それは僕にもわからないんです。スコップを振り下ろした感覚はあるんです。もし人を殺していたとしたらどんな罪でも受ける覚悟です。どうか信じて調べてください。」

Aは警官の目を見て一生懸命にこう言った。とても馬鹿げた話だ、人が蜚蠊に変身したとでも言うのか。しかし、話しぶりからAが全くの嘘をついているようには思われなかった。

「では、これが殴るのに使ったスコップですか?」

警官が地面に落ちていたスコップを拾い上げAに聞いた。

「はい、そうです。」

「殴ってからこのスコップには何にもしていませんね。」

「はい、何にも。そのまま、ここに落としたのだと思います。」

二人の警官は拾ったスコップを見てみたが、血糊やそれをぬぐった跡などなく、むしろ乾いた土がこびりつきガーデニングにしか使っていないという様子がうかがえる。

「これで人を殴ったようには思えないですね。」

二人はもう一度手元で懐中電灯を付け、スコップをよく見てみた。するとスコップの先端に白い粘性のある液体がこびりついているのを見つけた。この色には見覚えがある。

「この液体。ここに潰れている蜚蠊のものではないですか?」

各人ともしゃがんで蜚蠊とスコップを見比べる。

「本当だ。すると、何だ?僕は蜚蠊を人と勘違いして潰したということか。」

Aはやや調子の悪げな顔のままきっと自分がいかにおかしなことを言っているかわからずに真面目腐ってそういった。警官にはいよいよこの男が怪しく思われてきた。第一、あんな小さいスコップで殺人など、たとえ頭だろうがよっぽど殴りでもしなければ難しい。初めから蜚蠊を潰しただけで、それをAが勘違いをした、ということになるのだろう。そうなると問題は人を殺したかでなく蜚蠊に人の幻を見たこの男自体である。

「どうやらあなたが人を殺したということはなさそうだ。」

「本当ですか。あぁ、ありがとうございます。」

「ところで、お仕事は何をなさっているんです?」

「仕事?仕事は医者です。といっても動物ので、獣医をやっています。」

「へぇ、獣医さんね。ここら辺に開業しているの?」

「ええ、駅前の方に。…疑っているのですか?僕は本当に獣医です。ちょっと待っていてください。」

Aは自分の家のほうへ歩いていった。少しして黒いワニ柄の賞状筒を持って来、中の賞状を取り出して待っていた警官にみせた。それはAの獣医師免許であった。Aの生年月日や名前、『農林水産大臣』の印があり偽物ではない。

「先程までは取り乱していましたが、普段は真っ当に働いているつもりです。」

Aが麻薬か何かでおかしくなっている事を警官は疑ったが、普段医師として真面目に働いているのであればそうとは考えにくい。仮にそうだとしたら通報なんて行為はしないだろう。そうなれば少なくとも今男を変に拘束する必要もないか。

そのとき、警官の考えを決定づけるかのようにAの抱えた犬がワン、と鳴いた。その一声で場の雰囲気が一気に緩んだ。

「これは失礼。ただ、勘違いというのが不可解で」

「あ、それはたぶん、さっき観ていた映画がホラーで。僕、ホラー苦手で。」

「そうだったんですか。」

「お恥ずかしい限りです。きっと観ている最中だったから幻覚みたいなのを見たんです。」

Aは今までの緊張がなくなり、顔に血の気が戻って来ていた。


「いやぁ、それにしてもよかった。殺したのが人でなく蜚蠊で。」


緩んで線の抜けた、先ほどの空気と対比的にやや馬鹿でかいともいえるような大きさの声が、少々安心のこもった吐息と共に漏れ出すようにAの口から発せられた。

「実際は犬が蜚蠊とじゃれていたということですかね。」

警官もどこか雑談をするような雰囲気で話す。

「犬は好奇心が強くてよく虫にじゃれますから。そうだ、この子可愛いでしょ。」

「確かに。何ていう犬種なんです?」

「トイプードルですね。このお目目がかわいいでしょう。」

Aに抱えられた犬はつぶらな瞳を上目遣いに向けている。

「やはり詳しいのですか。」

「生き物を救うのが獣医ですから。色んな子を診るため詳しくもなります。それにしてもこの子がこんな夜道にいることもおかしいんですよ。差し詰めどっかの飼い主の管理不足でしょうけど。だめですよね。生き物は大事にしないといけないのに。」

「ですね。では、私たちはそろそろ戻りますので。それでは。」

「わざわざありがとうございました。」

警官たちはパトカーに乗り警察署まで戻っていった。Aは抱えた犬を見て、どこかケガしていたらいけないし、迷子だろうから今日はうちで預かろう、と思い犬とともに家の中へ入っていった。




その場に残された一匹の蜚蠊。

彼はただ他の仲間たちより人に対する恨みの念が強かった。故に犬への怒りは決してその立場に対する妬みや嫉妬といった羨望ではなかった。人は利己的だ。公の自然に住むくせして彼らの方が人に依存しているのだと偉ぶる。人の使う生き物という言葉。そこにいるのは人とその愛玩具共。奴らの持つあのぶん殴りたいと思えてしまうほどに人に媚びた押しつけがましい愛嬌は彼にはない。故にその領域に彼は入らない。


潰れていた蜚蠊は実際にはまだ生きていた。自らの脚を、生きようと必死に伸ばしていた。この手を取る医者などいなかった。

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