朔望

六花一片

第1話

 その澄ました顔を絶望やら憔悴やら何かで染められたら、どんなに清々するでしょう。当分快感が尾を引いて、腑抜けにされてしまうかもしれません。勿論これは決して、意地悪ではないのです。君を大切に思うから、君には是非とも人間らしく、居て欲しいのです。

 君は何時でも鷹揚としていました。生まれと育ちの良さもあったのだろうけれど、その言葉が似合う君は、随分と大人びていました。初めて会った時、君は一等地の大学を思わせる服を着て、私はブランドに詳しくないのですが、何処となく瀟洒な雰囲気の手提げを携えていたのです。私は君を、私と同年齢か少し上かと想像しました。

 今改めて言うけれど、私達が初めて会った時に(無論私の記憶上でだけれど)私は本当に、死のうとしてはいなかったのです。これは偽っても仕様がないですし、特に私には当時、死ぬ理由がありませんでした。病気でも無ければ、何かに絶望していた訳でもありません。でも確かに生きようとして生きていたかと聞かれると、恥ずかしながら、あてもなく死んだように生きていたと言わざるを得ないだろうと思います。一方で、体の構成で見たら、君なんかよりよっぽど健康だっただろうとも思います。あの時、私が池に入っていったのは、ただ絡まった釣り糸を回収しに行こうと思っただけなのです。それなのに、君は遠くの方からぐんぐん近づいてきて、力強く私の手を引きました。そして、随分と真剣に見知らぬ私に説教してきました。勝手に死んではいけないだとか、悲しむ人がいるだとかなんとか。ただその時の私には、そんなこと余りにもどうても良かったのです。白くて、傷一つ無い肌に、首に、光る汗に思わず恍惚として、急に汗が吹き出してきて、酷く情けなくて、それでいてその情けなさが、どこか心地よくて。まあ、ふと我に返った時には恥ずかしさで随分と死にたくもなりましたけど。

 誤解が解けた後(君はまだ私が死のうとしている可能性に注視しているように見えましたけど)君は初めて会う私にも、臆せず質問をしてきました。却って他所者の私のほうが、君を胡乱に感じていたほどに、そんな君のことを奇妙な人間だと思いました。初対面の人間には、否定の気持ちで関わるべきだと、私は決めつけておりました。それもあったからでしょうか、私は私に関することに尽く嘘をついて返答いたしました。実際には私は、東京大学の研究員では無いので、あの池にもたまの休暇にバス釣りに来ていたに過ぎません。確かに、自殺の名所だとはいつか聞いたことがあった気もしますが、落ち込んでいたのは、恋人に振られたからでは無くて、単に釣果の少ないのに半ば癇癪を起こしていたからです。幸い、水生生物については少し明るかったですから、研究員役として君の目を輝かせるくらいの話は出来たと自負しております。ただ、ここに君についた嘘を全て告白して、君からの異常な信頼を全てこそぎ落としたいと思うのです。それが、この手紙唯一の目的ですから。

 私は君にまた会うために、あの池に釣りをしにいく振りをしました。もう釣りなんかには疾うに飽きていたけれども、君に会うなら、あの池でしか、私は私自身を偽れないと思ったのです。ついさっき、たまの休暇で来ていたと言ったけれど、もう告白してしまうとこれも嘘なのです。私はフリーターだから、休暇もクソも無いし、だからこそ、兄に押し付けられて、祖父の終活準備の手伝いに駆り出されたに過ぎませんでした。手伝いと言っても、祖父は優しい人なので作業を少しするとすぐに暇ができてしまいます。その暇を埋めるために、祖父の釣り竿を借りてあの池へ釣りをしに行っていたのです。

 そういえば、その日が夏休みも終わる頃だったと気付いたのは、君が夕方に制服で私の前に現れてからでした。まだ私が高校を卒業してから4年ほどしか経っていないのに、そんなことはすっかり頭から抜けていました。君がまだ学生だということは、初めて会った時には聞いていたけれど、改めて目の前に年下の健全な肢体を見せられると、ちょうど倫理の観点で、君の前から逃げ出したいのでした。異郷の地で、誰にも知られずに会話をしているという事実が一層私の肉欲を駆り立てました。勿論、相応の教育と良心、法と臆病な心のお陰で直接君の記憶に影を落とすことはしなかったのですが、君が思うより、私は君に生々しい情動を抱いていました。君はそんなことに気づくことなど無く、私と接しました。老婆心と、ダブルスタンダードのようで申し訳ないですが、近代的なリテラシーに欠ける子だと暗に危惧しておりました。

 君はついに毎日、一週間ほど池の畔で待つ私に会いに来てくれました。回数を重ねるごとに私の疑念は晴れていくような気がしました。君が純粋な好奇心から、異邦人の私にこころを動かされたのだと、信じるようになりました。しかし、私はもう働きに出なければなりませんから、そろそろ東京に戻らなければいけないと思っていました。むしろ既に何かと託つけて、祖父の家に立て籠もっていた最中であったのです。君に対しても、今は目新しいように感じる私の話を、いつまで聞いてくれるだろうかと思うと、あと数日、これ切りの関係だと思ったのです。ただ同時に、これ切りの関係ならとも思ったことがありす。「なら」の後を考えると、恐ろしいやら恥ずかしいやらで、心臓が妙に重く脈打ちました。体を正中する一筋の地脈が、発散できずに燻っている感覚です。

 愈々私は東京に発つ決心をしました。色々な衝動に駆られておりましたけれど、相応の精神力というのは備わっていたようです。いつものように君に会って、別れを告げました。思った数倍別れを惜しんでくれたので、一瞬色魔の如き感情を覚えました。ニヤけを抑えるので必死でした。ただ、本当に最後の時になると、今までの沈んだ調子からは想像の出来ない笑顔で君は、君の余命ついて話しました。その時、私は驚きと悲しみより先に己に対する呵責がやってまいりました。私は、今にも消え入りそうな君のその体に、健全な学生の生命の鼓動を感じてしまっていたのですから、本当に情けない限りです。もう死んでしまう君を、情痴の捌け口にしていたのでは、勝ち逃げのような気がして、なんて卑怯なことだろうと、懺悔致しました。

 と、同時にある種の疑念が、再度心を掠めました。掠めただけでとどまれば、今この文を認めることも無かったのですが、君の笑顔を前にして、加速度的に増幅していったのです。君が今まで私に向けてきた態度は、その余命の下にあったのかと思うと、多少不快の念が湧いて来たのです。今さっきあったような私との別れと自分の死とを勘定して、前者と後者で見せる表情は逆であるべき様に思えたのです。君が私に見せた表情というのが、君がその余命ゆえの達観で人に尽くすという利他的な心で固められていたのだとしたら、君の表情はきっと、どんな事に対しても普遍的に使われるものだと、そう感じたのです。実際には、私は自分も君に本当の自分を見せていないということをすっかり忘れていました。ただ私は、君の中には当然、感情の起伏があって、嫌悪と受容の2つの相克の中で、その後者の方に私が入り込めたと思ったから、調子づいて君と会っていたのです。なのに後者しか君が見せていないなら、私は君の見せるショーをもてそやす愚かな観客に成り下がるのでした。君があんまり綺麗だから、その内には汚いものがあるはずであって、それを見ないことには君を逝かせることは出来ないと思いました。

 私は君に、見舞いに行ってもいいのかと聞きました。君は是非と答えました。既に私は、君の笑顔が、嫌悪の反対にあるものでは無いと感づいてしまっていたので、当然単なる慈善のためにこの提案をした訳ではありませんでした。

 私は君から純粋な好意を向けられたいと思ったことは、今に一度もありませんし、むしろ今は、いきなり発狂して君に気持ちが悪いという感情を、君のその広大で純白のこころに落としたいとすら思うほどです。私の気持ちはおよそ肉欲を離れませんし、君と二人切りになった時に、今この場で不意に君を襲ってしまったらと考えると、というか尋常な精神ならそんなこと頭に登ることさえ無いのですから、やはり私は貴方の側にいてはいけない人間だったのでしょう。そう君が知ってくれれば、あとは君で勝手に私を解釈していただいて構わないのです。

 貴方は人を嫌ったり、面倒くさがったり致しませんでした。見舞いに来る人々皆丁重に扱っておりました。そうして、しみじみと感謝のこころを口にするのです。そうしたものと同列に死があるように見える君を、傍から奇妙に感じたものです。まるで、この世に未練なんて無いかのような、清々しい君の笑顔には、今際の際まで決して絶えることが無いだろうと思わまされました。実の母ともなれぱ流石に悲しみというのが一番に見えましたけれど、君が冗談を言って笑わせれば笑うだけの余裕はあったそうです。君はまだ若く、死を前にして喚く必要があると感じていました。前にも言いましたが、人は否定から入る生き物です。君が子どものように不条理に憤慨することをしなければ、私は君の表情を心の底から産み落としたものだとは、信じられないのです。

 この手紙を読み終わる頃には、私は君の病室の前で、死んでおります。この手紙はもう病室から殆ど出られない君が、私の死をより現実的に感じるために書いたのです。私は君が死んだから死ぬのであって、私はまだまだ誰よりもこの世の蜜を吸い尽くしたいと思っていました。だから、死ぬ必要は君にしか存在しないのですが。言わば貴方のせいで死ぬのです。少しくらい、腹を立ててみてください。

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朔望 六花一片 @rikkahitohira

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