第4章: 「70歳の体で挑む、最後の決戦」

 静寂に包まれた倉庫の薄暗い廊下を、佐藤凛は慎重に歩を進めていた。シャネルの香水の微かな香りが、彼女の存在を密やかに主張している。ラルフローレンのカシミアカーディガンの袖から覗く手首には、カルティエのラブブレスレットが静かに輝いていた。


 突如、警報音が鳴り響く。


「おや、こんな盛大な歓迎パーティーを開いてくれるなんて、嬉しいわね」


 凛は冷静に呟いた。その瞳には、若かりし日の鋭さが宿っていた。


 イヤホンから、元同僚の田中の声が聞こえる。


「凛、大丈夫か? まさか、年齢のせいで足を滑らせたんじゃないだろうな」


「あら、田中さん。私より先に滑っているのは、あなたのギャグじゃないかしら?」


 凛は軽やかに返した。その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。


 廊下の突き当たりから、3人の若い犯人たちが現れる。凛は一瞬、自分の体力の衰えを意識した。しかし、その眼差しに迷いはない。


「おや、お客様? それとも、掃除のお手伝いかしら?」


 凛の言葉に、犯人たちは一瞬戸惑いを見せる。その隙を突いて、凛は素早く行動に移った。


 まず、手元にあった掃除用バケツを蹴り上げ、一人目の顔面に直撃させる。バケツの中の洗剤が飛び散り、床が滑りやすくなる。


「あら、床が滑るわね。若い人は転ばないように気をつけてね」


 凛の言葉とは裏腹に、二人目の犯人が滑って転倒。凛は素早くモップを振り回し、その男の顔面を強打した。


 三人目の男が凛に飛びかかってくる。しかし、凛は身をかわし、男の勢いを利用して壁に叩きつけた。


「若いって素晴らしいわね。でも、おばあちゃんの経験をなめちゃいけないわ」


 凛の動きは、年齢を感じさせない俊敏さだった。長年の訓練で培った技術が、今も彼女の体に刻み込まれているのだ。


 犯人たちが立ち上がろうとする中、凛は周囲を素早く観察した。天井のスプリンクラーが目に入る。


「少し暑くなってきたわね。涼しくしましょうか」


 凛は手元の掃除用具から小さな火花を散らし、スプリンクラーを作動させた。突然の水しぶきに、犯人たちは混乱する。


 その隙に、凛は近くにあった棚を倒し、犯人たちの退路を塞いだ。


「この歳老いた体でも、あなたたちのようなバカな若造たちにはひと泡吹かせることはできるのよ」


 凛の言葉に、犯人たちは怒りを露わにする。しかし、彼らの動きは明らかに鈍っていた。


 イヤホンから、冴木の声が聞こえる。


「凛、さすがね。昔を思い出すわ」


「ええ、でも昔と違って今は編み針を武器にするかもしれないわよ」


 凛は軽口を叩きながらも、周囲への警戒を怠らない。その眼差しには、孫を救出する強い決意が宿っていた。


 犯人たちが再び立ち上がろうとしたその時、凛は最後の一手を繰り出した。バッグから取り出したのは、大量の高級ハンドクリーム。それをモップで床に塗り広げ、さらに滑りやすくする。


「お肌の手入れは大切よ。特に、これから刑務所暮らしになるあなたたちにはね」


 犯人たちが完全に動きを封じられたのを確認し、凛は翔太がいる部屋へと向かった。その背中には、もはや普通のおばあちゃんの姿はなかった。


 そこにいたのは、孫を救出するために再び立ち上がった、元特殊部隊員の勇姿だった。


 凛は慎重に部屋のドアに近づいた。カルバンクラインのパンツスーツは、その動きを妨げることなく体にフィットしている。ドアの前で立ち止まり、耳を澄ませる。


「翔太、おばあちゃんよ。大丈夫?」


 凛の声は、優しさと強さが同居していた。


「おばあちゃん! ここだよ!」


 翔太の声が聞こえた瞬間、凛の顔に安堵の表情が浮かぶ。しかし、その安堵は長くは続かなかった。


 突如、背後から強烈な気配を感じ取る。凛は咄嗟に身を翻す。


「まさか、こんな年寄りに翻弄されるとはね」


 低く唸るような声。そこに立っていたのは、犯人組織のボス、鷹村だった。身長190センチを超える巨漢で、その眼光は鋭く凛を見据えていた。


「あら、ようやくご登場なさったのね。お待たせしたかしら?」


 凛は平然と応じる。その声には、かすかな皮肉が滲んでいた。


「ばばあめ……。その老いぼれた体を今からくしゃくしゃにたたんでやるぜ」


 鷹村の声には、敵意と同時に一抹の敬意も混じっていた。


「あら、年齢は数字に過ぎないわ。大切なのは、その人生で何を学んできたかよ」


 凛の言葉に、鷹村は冷笑を浮かべる。


「そうだな。では、その学びとやらを見せてもらおうか」


 鷹村が一歩踏み出した瞬間、凛の脳裏に様々な思いが駆け巡る。孫の翔太の笑顔、家族との穏やかな日々、そして……かつての戦場での記憶。


(この体で勝てるかしら……。でも、翔太のためなら……!)


 凛は深く息を吐き、静かに構えた。その姿勢は、年月を経てなお研ぎ澄まされた武術の極致を感じさせるものだった。


 二人の間に緊張が走る。それは、単なる肉体の戦いではない。経験と知恵、そして守るべきものの重さを賭けた戦いの幕開けだった。


「さあ、ダンスを始めましょうか。くれぐれもステップを間違えないでね」


 凛の唇から、最後の挑戦の言葉が零れる。その瞳には、決して諦めない強い意志が宿っていた。


 鷹村の拳が風を切る。凛は、しなやかな動きでそれをかわした。ディオールのアイシャドウがほんのりと瞼に輝き、その動きに優雅さを添えている。


「おや、随分と荒っぽい誘い方ね。そんなんじゃ女の子にモテないわよ」


 凛の軽やかな冗談に、鷹村の顔が歪む。


「ふん、口は達者だな。だが、それだけじゃ勝てんぞ!」


 鷹村の蹴りが凛の顔面を狙う。凛は瞬時に身を屈め、その大きな足を掴んだ。


「若い者は、焦りすぎるのよ」


 凛は鷹村の足を引っ張り、バランスを崩させる。しかし、鷹村はすぐに体勢を立て直した。


「なかなかやるな、婆さん」


「あら、お世辞は嬉しいけれど、もう少し上品な言葉遣いを心がけたらどうかしら?」


 凛の皮肉に、鷹村の動きが一瞬乱れる。その隙を突いて、凛は鷹村の腹に一撃を入れた。


「ぐっ……!」


 鷹村が後ずさる。しかし、その体格差は歴然としていた。凛の攻撃は、鷹村にとってはそれほどのダメージにはなっていない。


「体力では勝てないわね……。でも、それが全てじゃないわ」


 凛は周囲を素早く観察する。そこには、掃除用具や配管、古い家具などが散らばっていた。


(これらを使えば……)


 凛の頭の中で、次々と作戦が練られていく。


「どうした? もう力が尽きたか?」


 鷹村が再び攻撃を仕掛けてくる。凛は、近くにあった掃除用バケツを蹴り上げ、またもや中の洗剤を鷹村の顔にぶちまけた。


「くっ!」


 一瞬の隙を突いて、凛は鷹村の足元に滑りやすい洗剤を撒いた。


「床が滑るわよ。気をつけてね」


 鷹村が体勢を崩す。凛は素早く動き、古い棚を押し倒して鷹村の動きを封じる。


「くっ……、こんな小細工で……!」


 鷹村が棚を押しのけようとする。その時、凛は天井の配管に目をつけた。


「ごめんなさいね。これで最後よ」


 凛は素早く周囲を見回した。そこには長年使い込まれた掃除用具が散らばっていた。その中で、彼女の目に留まったのは、頑丈な金属製の柄を持つモップだった。


「これね……」


 凛は咄嗟にそのモップを手に取った。重量があり、しっかりとした作りのモップだ。


 彼女の鋭い目が天井を捉える。そこには、年月の経過を物語る錆びついた鉄製の配管が走っていた。配管の継ぎ目部分には、かすかな水滴が浮かんでいる。長年の使用で、その部分が脆くなっていることは明らかだった。


「さて、ちょっと水まきでもしましょうか」


 凛は、モップを両手で力強く握り締めた。そして、まるで槍を投げるかのように、モップを天井めがけて放った。


 モップは空中で回転しながら上昇し、その金属製の柄の先端が、見事に配管の継ぎ目を直撃した。


「ガキン!」


 鈍い金属音が響き、衝撃で配管が大きく揺れる。


 一瞬の静寂の後、「ピシッ」という小さな音が聞こえた。それは、長年の金属疲労が一気に限界を迎えた瞬間の音だった。


ザザザッ……


 最初は小さな水流だった。しかし、その勢いは瞬く間に増していった。


ドバッ!


 突如、配管が大きく裂け、そこから勢いよく水が噴き出した。まるで消防車のホースから放たれる水のように、強烈な水流が鷹村に降り注ぐ。


「なっ……何だこれは!」


 鷹村の驚愕の声が響く。彼の巨体が、まるで暴風雨に晒されるかのように水しぶきに包まれた。


 凛は冷静に状況を見極めていた。水流は予想以上に強く、床一面に広がっていく。鷹村の足元は瞬く間に水浸しとなり、その動きを鈍らせていった。


「おや、急に水風呂のようになってしまったわね。サウナにでも入ったのかしら? 体を冷やしすぎないように気をつけてちょうだい」


 凛の皮肉めいた言葉が、水しぶきの音に混じって響いた。彼女の計算は、見事に的中していたのだ。


「なっ……!」


 水を被った鷹村の動きが鈍る。凛はその隙に、モップの柄で鷹村の急所を的確に突いた。


「ぐあっ……!」


 鷹村が膝をつく。凛は、最後の一撃を放った。


「これで、終わりよ」


 凛の手刀が、鷹村の後頭部を捉える。巨漢の体が、ゆっくりと倒れていった。


 凛は、深く息を吐いた。その顔には、疲労と安堵が混じっていた。


「翔太、大丈夫? おばあちゃんよ」


 凛は、急いで孫が閉じ込められている部屋のドアに向かった。鍵を開け、中に入ると、そこには涙目の翔太がいた。


「おばあちゃん!」


 翔太が凛に飛びついてきた。凛は、孫をしっかりと抱きしめる。


「大丈夫よ。もう安全だからね」


 凛の目に、温かな涙が浮かんだ。長年の特殊部隊での経験も、この瞬間の喜びには及ばなかった。


 イヤホンから、田中の声が聞こえてくる。


「凛、よくやった。警察がもうすぐそちらに到着するようだ」


「ありがとう、みんな。これで一件落着ね」


 凛は、翔太を抱きしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。その背筋は、まっすぐに伸びていた。


「さあ、帰りましょう。おばあちゃんの特製ケーキを作ってあげるわ」


 翔太の顔が輝く。凛は、孫の手を取り、静かに歩き出した。その姿は、もはや単なるおばあちゃんではなく、家族を守る強き戦士のそれだった。


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