第3章: 「香水の薫り漂う、心理戦」
佐藤凛は、古びた倉庫の薄暗い廊下を歩いていた。掃除婦の制服に身を包み、その姿は一見すると平凡な老年女性のように見える。しかし、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。髪は地味な茶色に染め、シンプルなメイクで年齢よりも少し上に見せている。
凛は、ゴム手袋をはめた手で古びたモップを握りしめながら、周囲の状況を細かく観察していた。耳には最新の超小型イヤホンが仕込まれており、元同僚たちとの連絡を絶やさない。
「凛、気をつけて。この組織、想像以上に複雑よ」
冴木の声が聞こえてきた。
「ええ、わかってるわ。ここは、まるで蜘蛛の巣ね」
凛は小声で返す。その声音には、若かりし頃の凛を思わせる冷静さがあった。
凛は、モップで床を拭きながら、さりげなく会話を耳にしていく。そこで彼女が気づいたのは、この犯罪組織の内部に潜む複雑な人間関係だった。国際組織の一員でありながら、それぞれが異なる思惑を持っている。
「ふぅん、まるで将棋盤ね。駒を動かす順番を間違えれば、一気に崩れそう」
凛は内心でそう分析した。彼女の目には、組織の中での力関係が手に取るように見えていた。
「おい、ばあさん! そこはもう掃除したろ!」
若い組織員が凛に怒鳴った。
「あら、ごめんなさいね。この歳じゃ、同じところを何度も掃除しちゃうのよ。すぐ忘れちゃうのよね」
凛は、控えめな笑顔で謝罪した。その態度は完璧な演技だった。
「まったく、使えねぇなぁ」
組織員は舌打ちして立ち去る。
(ふん、若いのに融通が利かないのね)
凛は心の中でつぶやいた。この些細なやり取りも、彼女の計画の一部だった。
凛は、倉庫内を巧みに移動しながら、組織員たちの会話を拾っていく。新薬の情報をめぐる利害関係の対立が、徐々に明らかになっていく。
「へぇ、あの男は金だけが目的のようね。対してあっちの男は組織の理念を重視しているわ」
凛は、さも何気ない様子で掃除を続けながら、的確に情報を分析していく。彼女の手には、高級ブランドのハンドクリームが塗られていた。乾燥から手を守るためだが、それは同時に指紋を残さないための工夫でもあった。
「凛、そろそろ仕掛けるタイミングだ」
イヤホンから田中の声が聞こえる。
「了解。さて、お掃除の時間の始まりよ」
凛は、さりげなく2人の組織員の近くに寄った。
「あら、こんなところにゴミが……」
凛はわざとらしく呟きながら、床に落ちた紙切れを拾う。その動作で、彼女は巧みに会話に割り込んだ。
「すみません、お二人とも。この書類、誰かが落としたみたいですが……」
凛が差し出した紙切れには、組織の内部情報らしき文字が書かれていた。もちろん、凛が巧妙に作り上げた偽の情報だ。
2人の組織員は、互いに疑わしげな目を向け合う。凛は、その反応を見逃さなかった。
「おや、何か問題でも?」
凛は、年老いた掃除婦を演じながら、巧みに2人の間に分断の楔を打ち込んでいく。
「いや、何でもない。そんな紙、知らねえよ」
一人が言い、もう一人は黙ったまま紙を奪い取った。
「まぁ、お互い様ってことね。みんな秘密があるんだから」
凛は、さも世間話をするかのように言葉を投げかけた。その一言が、2人の間に確実に不信の種を蒔いていく。
こうして凛は、組織の至る所で小さな火種を散りばめていった。そして、それらの火種は徐々に大きくなり、組織の結束を内側から崩していく。
「ふふ、人の心も、埃と同じ。掃除の仕方で、きれいにも汚くもなるものよ」
凛は、内心で満足げに呟いた。その瞳には、かつての特殊部隊員としての鋭さが宿っていた。
倉庫内の緊張が、目に見えて高まっていった。凛の巧みな策略により、組織の各所で不協和音が響き始めていた。
まず、新薬の情報を独占したいと考える科学者グループと、単に金銭目的の犯罪者たちの間に亀裂が生じた。
凛が仕掛けた偽の内部文書により、科学者たちは犯罪者グループが裏で取引を進めているのではないかと疑い始めた。
「おい、俺たちの取り分はどうなってるんだ?」と、がさつな声が廊下に響く。
「約束は守るさ。それより、お前らの方こそ、何か企んでいるんじゃないだろうな?」と、白衣を着た男が冷ややかに応じる。
次に、組織の理念を重視する古参メンバーと、新しく加わった若手の間で対立が激化した。凛は、古参メンバーの会話を故意に若手に漏らし、世代間の溝を深めていった。
「最近の若いのは、組織の大義を理解していない」
「こんな時代遅れの組織に未来はないぜ」
さらに、凛は組織のボスの信頼が厚い側近たちの間にも不和の種を蒔いた。ボスの耳に入る情報を巧妙に操作することで、側近たちは互いを出し抜こうと画策し始めたのだ。
この混乱の中、凛は掃除婦として自由に動き回りながら、各グループの会話を注意深く聞き取っていった。そして、ついに決定的な情報を耳にする。
「くそっ、あの小僧をこれ以上ここで拘束するのは危険だ。明日の朝一で、C棟の地下室から別の場所に移すぞ」
凛の目が光った。これこそが彼女の求めていた情報だった。
「みんな、翔太の居場所を特定したわ」
凛は、小声でイヤホンに向かって報告した。その声には、静かな勝利の喜びが滲んでいた。彼女の眼差しは、まるで昔、作戦成功の報告をする若き特殊部隊員のそれのようだった。
「よくやったな、凛」と田中の声が返ってきた。
「これで、作戦の準備が整ったな」
凛は、モップを握る手に力を込めた。心の中で、孫の顔を思い浮かべる。
「もうすぐよ、翔太。おばあちゃんが必ず助けに行くからね」
彼女の瞳に、決意の炎が燃えていた。次なる戦いへの準備は、既に整っていたのだ。
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