真夏の「人生」補習授業

虫人間

残り続ける大切な傷と思い出

夏休みに入りもう20日が過ぎた。蒸し暑い暑さがあたりに充満していて、拭いきれないほどの滝のような汗が流れるように出てくる。


教材を落とさないように片手にハンカチを持ち、その汗を拭きながら、日差しが強く差し込む廊下を歩いていく。廊下で反射する光に目が眩みながらも高1ーAと書かれたクラスプレートが吊るされる木製のドアを開ける。少し軋む音を鳴らしながらもドアはゆっくりと開いていき、いつもとは違った教室が姿を見せる。


その中でも唯一のいつも通りと主張するように制服姿の女子生徒がシャーペンを手に取り、ノートを広げているのが見える。いつものように教卓の上に教材を置き、片手にチョークを持つ。


教科書を持ち、ペラペラとめくりながら横目で今日の範囲を確認し、カツカツと軽い音を立て、チョークを進める。難しい範囲でも出たのか女子生徒が顔をしかめているのが目に映った。


「では、今日の数学補習を始めます。」


何回言ったのか分からない声がいつもと違う教室を元の教室へと引き戻していくような気がした—————。


「では本日の数学補習をこれから始めようと思う。しっかり話を聞くように」


教室の閉じた窓越しでも騒がしく聞こえるしきりに鳴き続けている蝉の声が私の声をかき消そうとしてくる。聞こえているかどうか一瞬心配になったのだが、その心配は杞憂だったと思わせてくれるほど元気な声で返事が返ってきた。


「はーい。がんばりまーす!」


その声は広い教室内全体に響き渡り、反響音さえ聞こえてきそうな勢いだった。多少耳鳴り

の感覚を覚えながらも私は話を続けた。


「元気があるのはいいことだが、その元気を勉強にも活かしてほしいのだけど」


そう言うと、彼女はうっすら苦笑いを浮かべながらシャーペンの手で器用にくるくると回した。そのはにかむ笑顔の中に不安や焦りの気持ちが見えたような気がした。


「君ももう高校2年生で受験期も近い。ここでしっかり勉強しておかないと。」


少し脅しになってしまったかと自分の中で後悔するも彼女は背筋を伸ばし、こちらに真剣な眼差しを向けてくれているのを確認し、ホッとした。


彼女の名前は花見エリカ。明るい性格で常に周りの子達に気を配り、手伝いや頼みも積極的に聞いてくれると周りの生徒や教師たちの間で評判となっているうちの自慢の生徒の1人だ。だが勉強面に関しては優秀とは言えず、今日こうして彼女と2人で使うには広すぎる教室で補習授業を行なっている。


「じゃまず今回は前回で出題されたテストの範囲の復習を行う。しっかり話を聞いて次は間違わないように」


淡々とした口調で私が話すと彼女は突然立ち上がり、見てくれと言わんばかりにノートを広げ高々と上に持ち上げこちらに見せつけてきた。


「先生がそう言うと思って前回テストで間違えたところを頑張って自分で解いてみたんですよ!」


彼女が掲げたノートは乱雑ながらも自分の間違えたポイント、どうして間違えたのかなど絵や図形を使用しながら正確に記されていたのが見てとれた。


「ノートをまとめるのはいいことだ。これからも精進するように」


先ほどと変わらない口調で私が話すと彼女は表情で不満を表しながら、私の事をじっと見てきた。


「これだけ頑張ってしてきたんだからせめて褒めるぐらいはしてください!」


怒ったような口調で話す彼女は軽く駆け足をして机の間を縫うように進み、私に向かってノートを勢いよく突き出す。私は少しため息をつきながらチョークの粉をパンパン両手でよく払い、片手でノートを受け取る。


「ノートはその都度見るようにする。だが褒めるのは私が君は成長したと思った時だけだ。例えばこんな補習を開かなくとも君がテストでいい点数を取ってくれた時とかね」


彼女に背を向けながら教科書を片手にチョークを進める。顔を見なくても不満げな表情をしているのが予測できる。


「じゃあしっかり毎日出すので、先生もちゃんと見てください」


彼女とは思えない落ち着いた声色に少し驚き、思わず背後に目をやると彼女は予測とは反し

た笑顔を浮かべていた。彼女が浮かべる笑顔はいつも天真爛漫で眩しく感じていたが今回の笑顔はどうしてもそうは思えない気がした。

何か私に伝えたい事があるのだろうか?

そんな事も思った。でも流石に考えすぎだと思い、頭の中の考えを振り払うようにチョークを滑らせる速度を上げた。今日もこうして学校では教師の声とまれに聞こえる女子生徒の声が蝉の声の中に溶け込んでいき、一刻一刻と時間が過ぎていった—————。


夏休みが始まって20日目を今日で迎える。夏の暑さは少し和らいだものの廊下での暑さはやはりハンカチが必要だと伝わってくる。あれから彼女、花見エリカは昼ごろに学校に訪れ、数学の補習を受けるたびに前回の補習でまとめた所や追加で勉強した部分をノートで提出するようになった。最初は乱雑であったものの少しずつではあったが綺麗にまとめることができるようになっていて補習授業への意欲、理解度ともに向上しているのが感じられた。

今日もまた数学補習が終わり、彼女はノートを提出するためにカバンをゴソゴソと音を立てながら探っていた。


「先生ー!今日もノート提出するねー!」


カバンから出したためか表紙が少し曲がったノートをいつものように自慢げに私に向かって差し出す。するとノートの中からある一枚の紙がひらひらと私に向かって落ちてくる。随分と長い間カバンに入れていたせいか無造作に折り目がつけられているのが見えた。思わず拾い上げるとそれは彼女が書いた手紙のようなもので複雑な折り目でもはっきりわかるほど数多くの謝罪の言葉が綴られているのが見てとれた。


その内容に疑問を持ち目を通そうとしたが、彼女は信じられないほどの速さで勢いよく私から紙を奪い取った。突然のことで私は立ち尽くして彼女を見つめていたが、彼女の姿は信じられないほどの恐怖と焦りで満ち溢れていた。その姿はあの時に見せた笑顔に似たものを感じた。

ここで動かなければこの先大きく変わってしまう。

そんな気がした。


「これは一体なんなんだい?」


私は出来るだけ優しい口調で語りかけるように口を開いた。私のそんな様子に気づいたのか彼女は必死に笑顔を作ろうとするもその笑顔は引きつっていて心の中にある感情を隠しきれていなかった。


「大丈夫ですって。ただの手紙ですよー。」


乾いた声で笑う彼女の目は泳ぎ、今すぐにでもこの場から逃げ出したい、そんな声が耳元で聞こえてくる気がした。かと言ってこのまま見過ごすわけにはいかない。そこで私は体を震わせながらも笑顔を絶やさない彼女に一つ提案をする事にした。


「分かった。だがこのまま少し授業を続けようと思う。まだこの範囲が中途半端で少し歯痒くてだな。何か今まで通り質問する事があったら遠慮なく言ってくれ」


思わずいつもは言わない冗談混じりの会話が口から飛び出したが、これで良いと思った。私には彼女の閉じている心の中は分からない。だがそれが見えなくとも決して彼女には苦しい思いをさせない。そう心に決めていた。


「分かりました、、、」


彼女はいつもからは想像できないほど弱々しく、すぐにでも消えそうな声でそう言って私から顔を俯かせていた。その俯かせる顔には心の中にある感情が隠されている事を私は確信していた。


授業は進み、私がチョークを進める音だけが教室でこだまする。今回の範囲の最後のページとなる部分に私が手に触れた時、彼女は静かに少し震える手を片手で支えながら挙げた。その手は支えがあっても弱々しく上げているのが精一杯の様子だった。そんな彼女の顔はまだ俯いたままだった。


「はい。花見さん何か質問があるのかい?」


いつもの補習授業の典型文を私は返す。あんな事があったのに変わることのない私の態度にきっと彼女は驚くだろう。ただその言葉は私と彼女だけと交わしたいつもの言葉だ。だからこそ私はこの言葉を掛けた。どんな質問に対しても生徒に答えを導かせる。そんな教師にどんな時でもなりたいと思っていたから。


この言葉を聞くと彼女は俯いた顔を上げ、喉の奥から声を必死に絞り出しながら言葉を発した。


「私、いじめられているかもしれないです。」


そこには紙をくしゃくしゃにするかのように両手で今にも溶けそうなほどの目から出る涙を拭い続け、ヒックヒックと泣き入り引きつけを起こしながら泣きじゃくる彼女の姿があった。その姿は今にも触れたら壊れてしまいそうな繊細なガラス玉のようだった


「どうして今まで教えてくれなかったんだい?」


そんな壊れそうな彼女にそっと触れるように優しく語りかける。彼女は咽びながらも自分のペースでゆっくりと口を開いた。


「私、昔1人の女の子を集団でいじめていた事があったんです。私たちより年下の小さな女の子だったんですけど。その子に苦しいこととか悲しませることとかいっぱいさせちゃって」


そう言って目から溢れ出る涙を必死に抑えようとする彼女には後悔の気持ちがはっきりと表れていた。


「でも最近私がいじめられてきてその子の気持ちもはっきりわかるようになってきてね。いじめをしてきた私がこの気持ちから逃げることは許されないかなと思ってね。それでそんな事を考えてると勉強にも力が入らなくなっちゃって」


彼女はいつものように笑顔になるが、曝け出した本当の感情を隠しきれていなかった。でも彼女はそんな事をもう気にする余裕がないのだろう。もう彼女の心は壊れかけている。そう感じた私は彼女の話に静かにうなづいた後、一呼吸し彼女に背を向ける。そしてチョークを片手で持った後、ゆっくりと黒板の元へと歩きながらいつもの口調で彼女に言う。


「これから私から君の為に考えたこれからの人生についての授業を行う。君がどのような決断をしても私はそれをいつでも尊重する。だがこの授業だけは常に心の中にしっかりとしまっておいてほしい。では始める。」

私の力強くも決意に満ちた声が空っぽの教室に響き渡った。


痛いよ。なんでそんなことをするの?やめてよ。

そんな声がいつも頭の中で響き続ける。中学生の頃に見たあの光景が今でも鮮明に思い出せる。何気なく立ち寄ってしまった休み時間に見たトイレでのあの光景。みんなで泣き続ける一人の女の子を囲み、笑いながらバケツで水をかける同級生達の姿を。水を被り、女の子の涙とともに水びたしの床にポツポツと滴り落ちていく。同級生達の背中の間から見える女の子の目は酷く色褪せ、澱んでいた。だが私を見つけるとその目の奥に希望と期待を宿す光を持ち、濃くはっきりと輝かせながら私を一直線に見つめていた。


・・・だけど私は助ける事ができなかった。

同級生達の私に気づいて、鋭い眼差しで睨みつけてくるその姿は次は自分が標的になることを強く暗示しているような気がしてしまい、抗う事ができなかった。怖かった。従うしかなかった。


そして私はみんなの言うまま一緒になって彼女をいじめた。中学生活ではたくさん思い出を作ったはずなのに、ただ残ったのは彼女をいじめてしまったという強い罪悪感と劣等感だった。まるで自分のことが化け物のように思えてしまうほどに。高校生になってかつて一緒にいじめていた人、いじめていたあの子とももう会うことは無くなった。これから会うことも一生ないのだろう。だけどこの感情は高校生になった今もずっと私を蝕むように心の中に宿り続けている。


高校生になってからはさまざまな手伝いや頼みをたくさん聞くようになった。自分では罪滅ぼしのためだと言い聞かせていたけど、やっぱり自分がいじめられたくなかったからだと思う。あの目に焼きついている鋭い眼差しの恐怖は二度と感じたくなかった。

だけど私はいじめられた。理由などは分からず、理不尽にただ恐怖を与え続けられた。それはいじめている時よりもはるかに苦しく、辛いものだった。でもこの辛さは私があの子にいつも与え続けてきたもの。これは私が耐え続けないといけないものなんだ。


「どうしたんだい。花見さん。」


突然頭の中に響く声に私ははっと目を覚ました。すると目の前にはチョークを片手に少し屈んで私の顔色を覗くいつもの先生の顔があった。夕日で教室内全体が真っ赤に照らされ、目が眩みそうになる。だが先生は相変わらずこちらを見続けてくれていた。まるで暗い暗闇の中で私を照らし続ける一点の光のように。その姿に安心感を強く覚えたが、だからこそなおさら迷惑はかけるわけにはいかないとも感じた。


私が話題を変えようと口を開こうとするが先生は覆い被せるように少し早口で私に伝える。


「今は何も考えずにただ私の話を聞いて欲しい。これは君のためであって私のためでもある授業なんだ。私のためだと思って席に座ったままでいてくれ」


そう私に伝えてくる先生は少し悲しげな表情を浮かべていた。これ以上先生には迷惑をかけたくない。私は静かに話を聞くことにした。先生はふぅーと大きく深呼吸した後、私を見ながら静かに話を始めた。


「まず私が先生になった経緯を説明しよう。

私が高校生だった頃、ある1人の同級生に出会った。その子は天真爛漫で明るくて太陽のような人だった。今の君と同じように。」


先生は昔のことを思い出すかのように空を見ながら私に話を続ける。ゆっくりと。はっきりと。


「私は生まれつき表情や仕草からおおよその感情を読み取る事が出来た、、、。だからこそ私は彼女の異変にいち早く気づいてしまった。満面の笑顔に中にある強い恐怖の気持ちを。」


先生の顔がだんだん険しくなっていくのが分かった。思い出したくない記憶だったんだ。でもなぜそれを私に?


「私はその感情の理由を知ろうとしなかった。知りたくなかったんだ。どうやったらそこまでの恐怖を持ってしまうのかを。ある日彼女は私たちの目の前から消えた。後日、彼女はいじめられていた事が発覚した。」


「いじめ」という言葉に思わず身震いをしてしまった。そんな私を見て先生はものすごく心配しているのが分かった。けど私は話を続けてくれと先生の目をじっと見る。その目を見た先生は再び話を続けた。


「私はすごく悔しかった。彼女の感情には気づいてあげれてたのに何もしなかった。してあげられなかったんだ。」


先生は声を少し荒げながら私に言う。よっぽど悔しかったのが伝わる。あの子の周りにも私のせいでこんなふうに思わせてしまった人達がいるのかな。


「そうして私は再び過ちを繰り返さないために1人の教師となった。自分のようなただ見ているだけの人やいじめられていたあの子のような人を導いてあげるために。」


そう言って私の方に目線を向ける。まるでいじめられている私を導いてあげたいとでも言うように。私は思わず席を立ち、勢いのままに言葉を吐いた。


「私は確かに今いじめられています。でも過去に私は一人の女の子をいじめていたんですよ!こんな私よりよっぽど辛くて悲しい思いを私は彼女にさせてきた!だから私はこうなって当然なんですよ!私だけが助かろうとするなんておかしいです!」


甲高い私の声が教室に響き渡る。心の中にある感情が溢れ出てどうしようもなかった。私はヤケクソにやりながら机の上で暴れるように泣きじゃくった。先生はただ私の事をじっと見続けていた。


「もっと自分のことを大切にしろ!」


突然聞こえた怒鳴り声に私は聞こえた方へと顔を向ける。今の私はどんな顔をしているのだろうか。そこには唇を強く噛み締めている先生の姿があった。いつもとは違う先生の怒る表情に私は思わず涙を目に浮かべた。先生は噛み締めていた唇を解き、私に口を開いた。


「君が過去いじめていたことは許されない事だ。そしてそれを私は許すつもりはない。だけど君はその経験があったからこそ今の自分で在れたのではないか?」


先生は話を続ける。その目は私だけを一直線に見てくれていた。


「決して私はいじめを肯定するわけではない。だが今までの失敗や後悔を積み重ねることで自分を変えていき今や未来の自分を創っていったんだ。その過去は残酷だが、一生背負わないといけない大切な傷だ。」


先生は優しく話を続ける。この時もまだ私の目を見続けてくれた。その目からは涙が溢れ出て仕方がなかった。


「そしてその傷は私を教師という自分に変えたように、君を周りを気遣い、大切にしようとする性格に変えた。君は今の自分を見れず、ずっと過去の自分だけしか見れていない。今の君はいろんな生徒や先生に褒められる立派な人間だ。人をいじめていた君とは程遠いほど。そんな自分をしっかり見てやって大切にして欲しい」


そう言って先生は私のカバンに押し込んだぐしゃぐしゃとなったあの手紙を取り出し、先生はゆっくりと私に語りかけた。


「これはもし自分が耐えられなくてここからいなくなった時にいつでも見つかるようにと思って、君がずっとカバンの中に入れていたものだろう。君の心は君が思うよりもとっくに限界を感じていたんだ。だが君はもうこの手紙を持っておく必要はない。」


そう言って私の目の前でその手紙をビリビリと音を立てて破いた。耐え続けようとしていた私はとっくに限界を迎えていたんだ。こんな手紙を書いてしまうほどに。そんな本当の気持ちが紙の破れる音とともに聞こえてくる。私は溜まる気持ちを吐き出すように大声で泣いた。


「いじめの件は私に任せて欲しい。決して迷惑だなんて思わないでくれ。私を変えてくれた過去への償いと感謝をしたいからな。君は今の自分にしっかりと向き合って自分を大切にしてやってくれ。以上でこの授業は終了だ。」


涙で目の前を見る事ができなかった。だけど先生の姿は確かに見えた。自分の過去を悔やみながらもしっかりと向き合い、前に進む先生の姿が。その姿に負けじと私は今できる最高の笑顔を先生に向ける。


「ありがとうございました!先生!」




——————「じゃあこれで今日の数学補習は終了です。お疲れ様でした。」


広げていた教科書をパタンと閉じ、シューっと軽やかな音を立てながら黒板消しを走らせる。


「今日どこ行きたいー?」

「あっ最近行きつけのいいお店があるんだー!」

「えっー行ってみたいー!」


チョークの粉をパンパンと手をはたき、騒がしくも眩しい笑顔を輝かせる女子生徒を見送る。太陽は西に傾き、夕日で赤く染まる教室を見回すと一人の生徒が目に入った。その生徒は小さな紙を片手に深く頭を悩ませているようだった。その紙には多くの大学名が書かれているのが見えた。


「進路について困っているんですか?」


少しかがみながら生徒と目を合わせる。さっきまでの焦った表情が少しだけ柔らかくなってくれたような気がした。


「あっ先生。そうなんですよー。行きたい大学はある程度決まってるんですけどなりたい職業はどうしても決まらなくて。」


楽しそうに話す彼女の顔を見ていると、かつてのあの姿と重ねて不思議と笑みが溢れてくるような気がする。


「そういえば先生はどうして先生になったんですか?先生はとっても頭が良くて、もっといろんな職業に就けたはずなのになんで教師っていう職業を選んだんですか?」


突然の問いに少し戸惑いつつ、私の心の奥にしまっていた大事な記憶の引き出しにそっと手をかける。決して錆びつくことのない、なくならない大事なある一授業の記憶だ。


「私を高校生の頃、救ってくれてた憧れの人が担任の先生だったから。いつもそっけない態度で授業してて全然生徒のことを見ていないと思っていたのに、いざとなったら生徒のために一生懸命になってくれた熱い人でね。そんな先生に救われたから私も教師になりたいって思ったの。」


楽しそうに話す私を見て生徒はニヤニヤと笑みを浮かべる。私は少し咳払いをして話を続けた。


「その時私に先生が言ってくれたの。今の自分を見てしっかり大切にして欲しいって。だから今の自分が何をしたいのか身近なものから探してみると良いんじゃないんですか?」


そう言うと生徒はうんうんと頷きながら、満面の笑みを浮かべて元気な声で言う。


「なるほど。分かりました!ありがとうございます!エリカ先生!」


その笑顔を見て私も吊られて笑顔を浮かべてしまう。あの時の夏よりも暑さが増し、蝉の声も少し騒がしくなったような気がする。教師の立場になり生徒を見る立場になってもあの授業は私に永遠に残り続ける。私の大切な傷として思い出として。



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真夏の「人生」補習授業 虫人間 @04142008

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