第四章・行き合いの空
朝ご飯は毎日食べる。女子のグループにも部活にも入ることもなく。冷めているものだから、勝負ごともあまり好まない質ときた。
総じて、JKらしくない。
そう自分を分析しながら、宙はひたすら足を動かした。
思考の海から浮上して、あたりを見渡す。気付けば、見慣れない場所に行き着いていた。
どこだろう、ここ。
足音が響く。見慣れないドアに、何か古びた札がかかっていた。
「侵入禁止、かあ」
しょうがない、引き返すか。
踵を返す前に、宙はダメ元でドアノブに手をかけた。
今思えば、これが運命のいたずらというやつだったのかもしれない。
「え?」
すうっ、と動く感触と入ってくる風に、宙は目を見開いた。
「開いてる……?」
広がる未知の空間。迷ったのは一瞬だった。
屋上に足を踏み入れた宙はわぁ、と声をあげた。ごうんごうん、と音を立てて回るエアコンのものらしき室外機。なにやらタンクのような構造物。塗装がはがれかけているフェンス。
冒険気分で順々に見て回っていると、奥の方に突然人影が見えた。
一歩一歩近づくにつれ、その後ろ姿が鮮明になっていく。
ただ空に手を透かしているわけではなく、どうやら何か作業をしているらしい。
宙が近づいても、その男の子は気付いていないようだった。それを良いことに、宙はほど近い床へ座り込む。
少年の手元を見て、思わず歓声を上げてしまいそうになったのをぐっとこらえた。
綺麗。
そんなありきたりな言葉では足りない。
宙は生まれて初めてそう感じた。
空に浮いている大きめの枠の中は、空であって空ではなかった。ゆらりゆらり、浮かぶ碧と雲の白がマーブル模様を創り出す。決して混じり合わないその二色を、少年は自在に操っていた。
無駄の一切ない手さばきに、表面が引っ張られて模様がふわりとついてゆく。逆光でよく見えないけれど、少年は何か針金のようなものを持っていて、その先を枠の中に沈めているらしかった。
どこからか取り出した白い紙を、少年は枠の中へ慎重に浮かべる。
引き上げられた紙を見て、宙は今度こそ声をあげた。
その紙には、さっきの枠の中のマーブルが、そのまま写し取られていた。
まだゆらゆらと揺れるそれを、少年は慎重に日光が降り注ぐ床へ置く。
放心状態の宙の方へ、少年が振り向いた。
少年が被るフードに、きらりと光が反射する。
「え……?」
固まる二人。
先に復活したのは、宙の方だった。
「ごめんね、勝手に見ちゃって……」
続いて再起動したらしい少年が、ふるふると首を左右に振る。どうやら気分を害したわけではないらしいことを知って、宙はほっと息をついた。
「さっきの、すごく、綺麗だった」
思わず口からこぼれたのは、純粋な感想。少年はもう一度目を見開いて、それから口の端を上げた。
「……ありがとうございます」
くるりと宙に背中を向け、少年は床に置いてあった何かを掴んだ。
「これ、差してみてください」
よくあるビニール傘。これを差したら、何か起こるんだろうか。
少しの期待を込めて、宙は傘を開いた。
そのまま、頭上へと持っていく、
あれ?
傘は、いつまで経ってもコンビニで見かける姿のままだった。
なんだ、ただの傘だったのか。
冷静に考えると、ただの傘じゃない確率の方がよっぽど低い。
さっきの光景を見たのもあって、ついファンタジックなことを考えてしまった自分に苦笑する。
「ただのビニール傘かぁ」
聞かせる気はみじんもなかった独り言に、少年の目が限界まで開いた。
まさに驚愕、といった表情に、宙は小首をかしげる。
「どうしたの?」
少年は、目を泳がせながら口を開いた。
「えと、そこに何か、映らない?」
もう一度傘のビニール部分を見ても、見える景色は変わらない。うろこ雲と入道雲が混ざって浮かぶ、高い秋の空だ。
「今の空は映ってるよ?」
とりあえず返した質問への答えは、少年の予想とは違ったらしい。
ほんとに?と重ねて問う少年に宙は立ち上がって一歩近づき、傘越しに少年の顔をのぞき込んだ。
よく見ると、左の頬からこめかみにかけて火傷らしき傷跡がある。でも宙の興味は、その上に向いていた。
一対の濃紺のグラデーションの上に、日光の反射がきらりと光る。
ばちっと目が合ったところで、少年はようやく納得したらしい。困惑は消えない様子で、しばらく何かを考えていたけれど。
少年はうつむいて、どこからか一枚の紙を取り出した。
「これ、」
差し出されたそれは、さっき目の前で見た空の写しとはあきらかに違う。青空のものだろう、そう予想された。
「さっき作ってたやつは?」
これに不満があるわけではなかったけれど、つい疑問が口をついて出る。
少年は答えた。
「あれは、まだ固定できてないから」
どうやら一定時間日光にさらさないと、色が抜けてしまうらしい。理屈じゃなく、なんとなく分かる気がした。
少年は、また空をかき混ぜて写し取る作業に移った。
目線を外し、手渡された紙を、手癖で鶴へと折ってゆく。
綺麗に折り目をつけられたこともあって、なかなかの出来に仕上がった。
「ねぇねぇ、見て!」
また一つ写し空を完成させた少年に、ちいさな鳥を見せる。
ぱた。
手のひらの上に動きを感じ、宙は空中にさまよっていた視線を固定した。
ぱた、ぱたぱた。
風かな、では済まされない動きに、宙は息を吸い込んだ。
生き生きと羽を動かしだした紙製の鳥は、やがて手のひらから飛び立つ。そして、高く空へと舞い上がり。
雲の合間へと、溶けた。
鶴が消えた一点は、今やただの空だった。
それでも、信じられない気持ちでじっと見つめてしまう。
隣を見ると、口を半開きにした少年。きっと、宙も同じ顔をしている。
下校の時間です、校内に残っている生徒は速やかに――
流れてくるおなじみの放送に、はっとした。いつのまにか、時間が過ぎてしまっていたらしい。 宙は、ドアへと歩を進める。
ドアノブにかけようとした手が、ぴたりと止まった。
「また、来ていい?」
「……君が、来たいなら」
なぜか寂しげな笑みを浮かべる少年を気にしつつ、宙は屋上をあとにした。
掃除を終え、宙は階段を駆け上がる。
ドアを開けると、そこには一面の青空が広がっていた。
これは、すごいな。心の中で呟く。
上へ視線を向けると、そこには障害物は何もない。まるで、空を見るためだけの特等席だった。
昨日と同じ場所に立っている人影に近づくと、少年は驚いた様子でこちらを見た。
「え、昨日の、」
「行くって言ったじゃん」
ね?と念押しすると、少年は目を泳がせながら頷いた。
「ほんとに来ると思わなかった……」
少年のつぶやきへの宙の反応を遮ったのは、鼻にぽつり、当たった水滴だった。
ばらばらばらっ。
空は晴れたまま一瞬で勢いを増した雨に、二人はされるがままに打たれる。
少年が、ぽつりとこぼした。
「これ、昨日の鶴……」
ドアを開けてから感じていた既視感を指摘され、宙は少年と顔を見合わせた。
いつのまにか雨の勢いがおさまってきた。宙は、もう一度上を見上げる。
それは、昨日飛んでいった鶴の紙に写っていた空によく似ていた。確証はない。空がそのまま写し取られているわけではないし、証拠品は飛んでいってしまったのだから。
でも一度そう考えると、そうとしか思えなかった。
「君、名前はなんて言うの?」
少年の目がこちらを捉える。唇が、薄く開かれた。
アマト。どんな字だろう。
君は?
ためらいがちに投げかけられた問いに、こう答えた。
「私はソラ!」
これからよろしくね、アマト。
こうして、二人の不思議な関係が始まった。
宙は毎日のように屋上へやってきたが、いつもアマトがいるわけではなく。必然的にその集まりは、不定期になった。
二人揃ったからといって、何をするということはない。
ただ空を眺めたり、自分が思っていることを話したり、宿題をこなしたり。
完全に同じ過ごし方は二度となかったけれど、二つだけ変わらないことがあった。
一つ目は、写し空を毎回一枚、アマトが宙に手渡すこと。そして、それは宙の手によって折り紙にされるのが常だった。
二つ目は、下校の放送が鳴ったら宙は帰ること。
この二つを軸に、二人きりの集会は回っていた。
宙は、手元に視線を落としながら言った。
「アマトの一番好きな空って、何?」
純粋な疑問だ。てっきりすぐ答えが返ってくるものと思っていた宙は、思いのほか長い間に少し戸惑った。
しばらくして、返事が返ってくる。
「わかんない。ほんとに、空だったらなんでも一番なんだ」
「じゃあ、質問を変えます。アマトの一番思い入れがある空を教えて」
一見悩みそうなこの質問に、アマトはすぐに答えてみせた。
「ブルーモーメント」
「ブルー、モーメント?」
思わず繰り返してしまう。その横文字は、どうやら空の名前らしい。
「なんで?」
これにも、すぐに答えが飛んでくる。
「写せないから」
「え?」
無知な宙に、アマトは丁寧に説明してくれた。
太陽が沈んだ後、空が青く染まる時間があるらしい。その時間はうまく固定ができない、とアマトは語る。
だから、一番思い入れはあるかな。
そう言って目を細めるアマトと、できあがったカメラの折り紙。
宙はそれらを、交互に見つめる。
カシャリ。
何かの音が、したような気がした。
また別の、名もなき日。
宙は、ある決意を固めた。
「アマト、こっち向いて」
素直に作業を中断したアマトと、目を合わせる。
「ずっと、不思議だったの。あなたが、ポンチョのフードを取らない理由」
どこまでも凪いだ、深い青色の目。目線をそらさずに、宙は続ける。
「そろそろ、直接空を見てもいいんじゃない?」
「……気付いてたんだ」
傷が残る頬へ、手を伸ばす。
もう少しで触れるか、というところで、宙の手は透明な膜に阻まれた。
アマトがいつも被っているポンチョのフードが特殊な形状をしていることに、宙は気付いていた。例えるなら、養蜂家が身を包む防護服。そんな風に、透明なビニールのようなものが顔と首を覆っていたのだ。
「大丈夫だよ、ずっとこれでやってきたし。ソラも、いきなり取ったら見慣れないでしょ?」
「そういうことを、言ってるんじゃないの」
この期に及んでまだ他人のことしか考えていないアマトに、宙は心底腹が立った。
透明なバリアの下で、隠しきれない寂寥が滲む。
そんな目をしておいて、ごまかせるとでも思っているのか。それとも、気付いていないのか。
おそらく後者であろう彼に、頭痛がした。
「僕は、幸せに向いてない奴なんだ。だから、」
「アマト」
すごみを感じさせる一言に、アマトは言葉を止めた。
「アマトは、どうしたいの?」
「さっきから、他の人と思い込みの話ばっかり。アマトがどうしたいのか、全然わかんないよ」
全然わかんない、は少し嘘が混じっている。彼の目を見たら、そんなの一目瞭然だ。
でもたぶん、彼は気付いていないから。
「――、僕は」
言葉に詰まって動かなくなってしまったアマトに、少し強引すぎたかと反省した。
これをきっかけに、自分のことに気付けるようになったら上々かな。
そう結論づけようとした宙の頭に、いきなり引っ張られたような痛みが走った。
体を持って行かれそうになるほどの強風に、思わず目を閉じる。
次に目を開けたとき、宙の目に映ったのは。
震える手でフードを取った、アマトの姿だった。
順序も何もなしに、宙は叫ぶ。
「幸せになって、いいんだよ!」
ぎゅっとつぶられていた瞼が、少しずつ少しずつ開いてゆく。
ついに限界まで目を見開いたアマトは、目の前に広がる景色に息を飲んだ。
しばらく目の前の光景に見とれていた彼は、振り向いて宙と目をしっかりと合わせた。
「ソラ、ありがとう!」
花開くような笑顔、傷跡に伝ったしずく、高い高い空。
これより尊いものは、たぶん世界中のどこを探したって見つからないだろう。
そんな陳腐なことを、思わず考えてしまった。
十月一日、いつもの時間。
今日から閉門が早くなる。
「私、カメラを始めたの」
手元に集中しつつ、宙はつぶやく。
あのとき以来たまにフードを外すようになったアマトの目線が、直接宙へと向けられた。
「理由、聞いてもいい?」
理由。宙がフィルムカメラを始めた、その。
「アマトが、」
「え、僕?」
いかにも予想外、といった反応を返される。宙にとっては、その反応こそが予想外だった。
折り紙とカメラの検索履歴で埋まるスマホを思い返し、宙は微笑む。
宙をここまで変える存在は、宙からしたらアマト以外にありえないというのに。
「アマトが、ブルーモーメントが欲しいって顔してたから」
だから、あげたいと思ったのだ。
アマトが自分以外の誰かに渡すためのものとは別に、彼の思い入れがある空を。
「はい」
できあがった傘の折り紙を、アマトに渡す。
一瞬目を丸くした彼は、次の瞬間には納得したような、それでいてこの上なく寂しそうな笑みを浮かべていた。
そして、もうもらってる、とよく分からない呟きをこぼす。
その折り紙をしまいこんだアマトは、代わりにもう一枚、写し空を取り出した。
あっ。
宙は、声をあげた。記憶が一気に蘇る。
それは、最初の日。鍵の開いた屋上で、見知らぬ少年が作っていたものだった。
その写し空に半分の折り目をつけたアマトは、おもむろにその線に沿って破り始めた。
きれいに半分になったそれの、片方が宙へ差し出された。
懐かしさに思わず見入る宙に、アマトの声が入ってくる。
「……ソラ、ありがとう」
またね。
そう、聞こえた気がした。
胸騒ぎがして顔を上げると、
そこにはがらんとした屋上と、一面の空が残るのみ。
少年がいた証は、手の中の写し空と開いたドアの鍵以外、いくら探しても見当たらなかった。
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