第三章・かけら星

 ふうーーー。


 少しすぼめられた口から、憂鬱が溶け出した息が吐き出された。


 ふと視線を上げると、辺りはずいぶんと暗くなっている。

 それでも、帰るという選択肢は智佳には存在しなかった。


 公園と言うには狭すぎるスペース。そこの枯れた噴水のへりに座り、ぼんやりと明かりの群れを眺めた。


 

 母の発する言葉に引っかかりを覚え始めたのが、一年前。智佳が目に見えて母親に反発するようになったのが、半年前くらいだっただろうか。

 お互いの言動で不満がたまり、それがにじみ出た相手の言葉で更に苛々する悪循環。

 溝はみるみる深くなって、


 ついに母娘は衝突を起こした。それが、一ヶ月前のこと。


「もううんざり。こんな子に育てた覚えはないわ」

 私はもう、お母さんの言いなりじゃない。私は私、勝手に育つから。


「智佳が自分のことしかしないなら、お母さんも自分の分しかご飯作らないよ?」

 そういう言い方、ずるいと思う。腹立たしいことに私はまだ、保護者がいないと生きていけない。


「お母さん、悲しい。なんで言うことを聞いてくれないの?」

 出た、同情作戦。絶対に、折れてなんかやらない。


「あなたのためを思って――


 そこまで言われたとき、智佳のイライラゲージはついに爆発を起こした。


 ぼろぼろと涙をこぼして、叩きつけるように叫ぶ。


「もう、放っておいてよ!」



 青ざめた母親の顔。

 いい気味、とかろうじて心の中で吐き捨てて、智佳は足早にリビングを後にした。



 だから最近はずっと、門限ギリギリで家に帰るようにしている。

 門限という決められた中で動くのは癪だったけれど、文句を言われるのも避けたかったから。


 でも今日は、気付いたらゲームセンターがある駅を通り過ぎていた。

 仕方なく最寄り駅から、家と反対方向に歩を進めたのだ。




 隣にすとん、と誰かが座る気配がした。

 こんな時間に、誰だろう。


 首を傾けた智佳の目に映ったのは、透明なフードを被った同い年くらいの少年。

 そして、その少年の頬からこめかみにわたって刻まれた、痛々しい傷だった。


 智佳がその横顔から目を離せないでいると、その少年はゆっくりとこちらを向いた。


 ぱちり。目が合った、気がした。

 形のいい唇から、言葉が紡がれる。


「こんばんは」


「こんばんは…」


 反射的にオウム返しをする。落ち着いた様子で、少年はこう問いかけた。


「空は、お好きですか?」


 こういうのって、好きな天気を聞くもんじゃないの?

 そう心の中で言ったつもりだったけれど、もしかしたら口に出てしまっていたかもしれない。

 その少年は口の端を上げ、質問を変えた。



「何か、やるせないことがありましたか」


 

 何もかも知られているような感じがして、智佳はその少年をまじまじと見つめた。


 この人なら、話していいかもしれない。



 そう思った瞬間、智佳は目の前の少年にすべて吐き出してしまっていた。母親と亀裂が入ってしまったこと、どうしたらいいのか分からないこと。人生をすべてやり直せるなら、やり直したいこと。



 じっと目の前の女の子を見つめていた少年は、ぽん、と智佳の頭に手を乗せた。


「あなたはきっと、優しい人なんだね」


 え、と声が漏れる。言われたことない、そんなこと。


「お母さんが嫌いになりきれなくて、どうしようもなくて苦しい。嫌ってしまう自分が嫌でしょうがない」


 びくっ、と肩が跳ねた。

 それはまさに、智佳の心の中で泣いている、ちいさな女の子の嘆きだったから。


「僕も、自分が嫌いだった」


 だから、と少年は続けた。


「わかる気がする」


 そのたった一言は、百のまやかしの言葉よりもよっぽど大きい力を持っていた。

 視界が一気にゆがむ。とっさに上を向くことも出来なくて、智佳はぼろぼろと大粒の宝石をこぼした。








 智佳は鍵を開けると、真っ先に自分の部屋へと駆け上がる。

 ベッドに体重を預け、さっき手渡された紙を取り出した。


 あの不思議な傘に映ったのは、一見ただの漆黒。

 でも、ただの色じゃないことは、すぐに分かった。それはまさしく、紺色と黒の間のような、果てのない夜空だった。


 そしてその空には、きらきらと星屑がまたたいていた。

 都会の空では光ることさえ許されない、何光年も先の光。



 渡された紙に映っていたのは、あのとき傘に映った空より、若干青が濃い夜空。すっと引かれた淡い線は、たぶん元は星屑だ。


 少年はこれを渡して、こう言った。



 過去って、絶対に覆らない。一度口からこぼれた言葉は、決して口には戻せない。

 でも、自分の捉え方次第で、未来はちょっとだけよくなるんじゃないかなって思うんだ。

 



 智佳は目を伏せる。


「だったら、私を変える方法を教えてよ」


 こぼされた孤独は、ピンク色の枕カバーに染みこんだ。






 

 いつもより早く目覚め、智佳は自分の分の朝食を作る。

 生活雑音の中で、考えてしまうのは昨夜の少年の言葉。


 ねえ、今は自分を好きなの?

 ……うーん、あんまり。でも、今はこれでいいって思えるから、これでいいかな。


 どういう意味だろう。問うことはできなかった。

 次に目線を上げたときは、あの少年もあの傘も、すべてかき消えてしまっていたから。




 二本早い電車に乗って着いた学校は、想像よりだいぶがらんとしていた。リュックを置くと、黒板に書かれた先生の文字が目にとまる。


 智佳は扉のほうへと足を進めた。





「ともか?」

 ぴたり、足が止まる。後ろからかけられた声に、振り返った。


「やっぱり、智佳だ。久しぶり」

「…宙?」

 

 声の主は、中学校時代の友人だった。クラスが離れてしまってから、もうしばらく話していない。


「どうしたの?こんなに早く」 

「いやー、なんか早めに起きちゃって。だから、プリント取りに行く途中。智佳のクラスにもあった?板書」

「あった、え、それで私も職員室に」

「ほんと?一緒じゃん」

「それだけじゃなくて、私も起きちゃって」

「そこまでおんなじなの?すごいね」


 ぽんぽん弾む会話に、思わず頬が緩む。

 宙に会ってまだ一分と経っていないのに、もう胸の中の嫌悪感が薄くなった気がした。

 思わぬ得を手に入れた気持ちでいたとき、宙が言葉を選びつつ聞いた。



「智佳、なんか悩んでる?」


 感情の機微にさとい友人は、もう智佳の悩みに気がついたらしい。こういうところが敵わないんだよな、と思いながら、智佳は正直にこぼす。


「…自分が、好きになれなくて」

「いいんじゃない?」


 さっきのテンポと同じように打ち返されて、智佳は思わず唖然とした。

 当の友人はこちらをチラリと見てから、こう話し出す。



「自分が好きになれないのは当たり前だよ、だって他の誰よりも汚いところを知ってるんだから。アイドルみたいに、ただ良いところだけを拾い上げるようにはいかない」


 宙は、智佳を見上げて続ける。


「でも、その中でもなんというか…そういうのも認めつつ、ああなんか自分、悪くないなって思えたら」


 きっと人生、最強だよ。



 すとん、と何かが腑に落ちた。

 そうか、無理に自分を変えようとするのは、私には向いていなかったのか。




 ご清聴ありがとうございました、と真面目な顔をして言う宙に、智佳はこれまた真面目そうなすまし顔をして言った。


「やっぱりあなた、最高ね」

「それは光栄です、お嬢様?」


 間髪入れずに返ってきた言葉に、顔を見合わせる。

 廊下に、二つの笑い声が重なって響いた。





 家に帰ってただいま、と言うと、一拍開けて返事が返ってきた。


 まあ、驚くだろう。これまで半年もの間、家での挨拶をしなかった娘が急に変わったら。


 母親の視線を感じながら、自室への階段を踏む。



 授業中に、ひとつ気付いたことがあった。それが気になって残りの時間の授業は全く入ってこなかったけれど、まあよしとしよう。ノートは、あとで宙にみせてもらえばいい。



 学習机、一番上の引き出し。

 そこからあの紙を取り出し、智佳はああ、と声をあげた。


 

 やっぱり、そうだった。





 まだ母との関係が崩れていなかったとき、どうしてそうなったかは忘れたけれど、星を見に行ったことがある。


 満天の星空が見えるはずの丘の上。そこはあいにくの曇り空で、明るさなんてなかった。


 残念だね、と言った母の横顔を思い出す。

 まさにそのときの空が、この中に閉じ込められていた。

 今手の中にあるような星屑を見た記憶はなかったけれど、たぶんあのときの空にもあったのだ。


 ただ、私は母がせっかく連れてきてくれたのに目的が果たせなかったことが残念で、もう少しと見たがる母を引きずって、車に戻ってしまった。

 

 もう少し、見ていたらよかったかもしれない。


 そう素直に思えた自分に驚く。


 あれが、たしか母と見た最後の空だった。






 あの紙を空に透かす。


 これを空に溶かすのは、もう少しだけ先にしよう。そう思った。


 きっと私は、今の気持ちをすぐに忘れてしまう。だからこれは、お守りだ。

 今の気持ちに、帰ってくるための。


 





 なんだ、今の私、そんなに悪くないじゃん。







 すっかりオレンジ色に染まりだした空に、一番星がきらりと瞬いた。





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