第二章・碧羅の天
拝啓、幸太さま。
お元気ですか?
手紙なんて長らく書いていなかったから、少し不思議な気持ちがしています。本当に、あなたと遠い昔にした文通以来じゃないかしら。
あなたは私が手紙を書いていることに、きっと驚いているでしょう。
この前会ったのがお盆だったから、八月の半ばね。そのとき私は、こんなに活力に溢れてはなかったから。
なぜ私は二ヶ月足らずでこんなに回復することができたのか。そのきっかけの出来事を、これからお話しします。
十五夜が近い秋の夜。何の気なしにテレビをつけてご飯を食べていたら、急に母校の名前が耳に入ってきたの。ええ、そりゃあ驚きました。
ちなみに母校と言っても高校じゃなくて、なんと小学校なの。びっくりでしょう、ほんとに。
テレビが言っていたのは、その小学校が改築されて、地域の人たちの交流の場になっているという話でした。一分もなかったその映像を見て、そして、行ってみたいと思ったの。
母校にたどり着いてまず感じたのは、不思議な感慨でした。懐かしいのに新しい、という相反する感覚を抱えながら、私は上へと昇っていったの。
そして三階まで昇って、帰ろうと思った。まあ、当たり前と言えば当たり前よね。見られるところはすべて見たわけだし。
踵を返したとき、後ろから声がかかりました。
「もしまだいらっしゃっていないようでしたら、ぜひ屋上にいらしてください!」
はきはきと言われた言葉に理解が追いつくまで、少しかかったわ。屋上、おくじょう。どこか懐かしい響きのその場所が、まさかこの小学校にあるとは思わなかった。
そうして、まるで何かに引き寄せられたように私は屋上への階段を上り、そしてそこへつながるドアを開けました。
屋上はがらんとした空間で、椅子がぽつりぽつりと置いてあるだけ。私のほかに誰も人はいませんでした。
私は柵に近づき、顔を上げて広い景色を眺めました…というより、空中を見ていた、という方が正しいわね。
せっかく綺麗な景色だったはずなのに、私にはその景色を感じ取るだけの心の隙間がなかったの。
虚空を見つめて、数分くらいは経っていたと思うわ。もうそろそろ帰ろうか、と思い始めたときでした。
「こんにちは」
空気に溶け込むような声が、耳に届きました。不思議と、驚きはなかった。その声の主はごく自然に、例えるならあの屋上に置かれていた椅子くらい自然に、私の隣に立っていました。
その男の子はゆっくりと言いました。
「空は、お好きですか?」
私は正直、返答に困ってしまったの。端から見れば私は空を眺めている人だっただろうけど、実際の私は、そのときの空の色も覚えていなかったから。
答えに詰まった私に、その子は少しも動揺せずに何かを差し出してきました。
「傘?」
反射で受け取った後、私はその傘をしげしげと見つめました。
何の変哲もない、透明な傘。そのほかに何も情報は受け取れなくて、思わずその子を見上げます。
くいっ、とその子の口角が上がる。
「差してみてください」
ますます意図が分からない。
混乱しつつ、私は傘を開きました。
ただ風景が透過されていただけだった傘の裏。
その色が――
「えっ」
――碧へ、
変わる。
どうやら頭上に掲げたとたん色が変わったよう、そう理解したのは数秒後のこと。
そこから私の目は、その色から離れなくなりました。継ぎ目さえ見当たらない、すこんとどこかの空から抜けたような一面の碧。
色あせた世界の住人だった私に真っ直ぐに届いたその色は、私を魅了するには十分すぎるほどでした。
「何か、苦しいことがありましたか」
何もかも見透かしたような静かなその声が、心に響く。
「夫が、いなくなったの」
自分の口からするするとこぼれることのはに、私は驚くと同時に心のどこかで安堵していました。
そう、あなたは三年前、海で行方不明になった。高齢だから生きている可能性は低い、そんなことは分かっています。
それでも待つことを自分に課して、三年。
ずっと、白黒写真に無理に色つけをしたような世界で生きていました。
そんな世界に色を持ってきてくれたその子になら、話していいかなと思ったの。
それから、私は幸太さんのことをかいつまんで話しました。
取り繕う暇も、順序立てる余裕もなかったから、きっと聞くのは大変だったと思うわ。
だけどあの子は、最初から最後まで聞いてくれました。それが、救いだったのは覚えています。
たばこが好きだけど私の前では吸わないでいてくれたこと、サーフィン仲間とよく海に行っていたこと、――帰ってこなくなってから、ずっと孤独なこと。
すべて聞いた後、あの子は凪いだ口調でこう語りました。
「僕は、他人のことを完全に理解するのは無理だと思っています」
私は、何を言いたいんだろうと思ってじっと聞いていた。
「例えば、その傘」
きょとんとして見上げると、さっきと同じ透明な碧。
「あなたがそれに何を映すかは、僕には分かりません。同じように、今見ている赤だって、僕と他の人では違う色に見えているかもしれません」
だから、人は本来、孤独なんです。
顔を上げるその子につられて傘の外を見ると、はっとするほど美しい夕日が、屋上を照らしていました。
「でも」
凜と張った声。
「その孤独が一部分だけでも共鳴するとき、人は、幸せを感じるんじゃないかなと思います」
諭したり、慰めようとする声じゃなかった。でも、その言葉で分かったの。
私はきっと、もう立ち上がることができるだけの回復は出来ていた。
ただ、きっかけが掴めないふりをして自己満足の嘆きを続けていただけだった、って。
そして、その子は一枚の紙を差し出してきたの。実はその紙が今手元にあるんだけど、何が描いてあると思います?
一面の碧。
ただ、何かで混ぜたような不思議な跡があって、それによってより空の微妙な濃度の違いが引き立っていました。
それを渡された後少しお話をして、次の瞬間にはあの子は消えていた。
残ったのは、変わりゆく空とがらんとした屋上、そして私。
ね、不思議でしょう?いきなり消えたのもそうだけど、私は、あんな若い子が何もかも見透かしたようなことを言うのが不思議だったの。
あの子の声は、深かった。
きっと辛いことがたくさんたくさんあって、それを全部飲み込もうとしたのね。そういう、声だった。
それで、ちょっと心配になってしまったの。何かの拍子で潰れてしまうかもしれない、そういう危うさをはらんでいた。
誰か、あなた自身のことを話せる人はいる?と聞いたら、ちょっと迷ってから「はい」と答えてくれたわ。
少し安心した。どんな形であれ、身の上を話せる相手がいれば、きっと支え合えると思うの。
そうそう、あの子に聞いたんだけど、役目を終えたら空に溶けるんですって、この紙。きっとこれは、空そのものなのね。
漂流郵便局、というところがあるそうです。手紙の宛先がいつの誰であっても、預かってくれるんですって。
だから、この手紙はそこに預けます。
いつか会ったとき、たくさん答え合わせをしましょうね。
コトリ、とペンを置く。予想通り分厚くなってしまった便せんを封筒に入れ、ふと碧を見た。
「ねえ、覚えてますか?」
実は、と夏子は続ける。
「この紙、私たちの結婚式の空に、そっくりなんですよ」
漂流郵便局留
清水 幸太様
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