第一章・彩雲

 はっ、はっ、はっ。


 息切れの音が宙に溶ける。喉が擦れる。肩と腹にベルトが食い込む。

 回りそうな視界を、足に力を入れてなんとか静止させた。



 はっ、はっ、はっ。


 開けた視界。

 ぽつんとベンチが置いてあるそこに、健斗はどかり、と腰掛けた。


「くっそ…」


 イライラする。力任せに太ももをたたくと、じくじくした鈍い痛みでいくらか苛立ちが希釈されていく気がした。


 揺れる息を整えながら、強引に思考を回す。


 いったい、どうしてこうなった。





 文武両道の優等生。

 それが、学校での評価だった。


 初めてすることは大抵なんでもこなせたし、新しいことを知ることは楽しかった。

 俺の周りには、だいたい常に人が集まっていたように思う。そして俺は愚かにも、それがいいことだと思い込んでいたのだ。



 健斗はため息をついて、毛先の明るい髪の毛をがしがしと掻いた。



 優等生として両親に、先生に、教授に褒められるたび、いつしかうれしさより息苦しさが勝るようになっていった。


 なんということはない。優等生というのは、どこまでいっても上の都合のいいイエスマンでしかなかったのだ。


 それに耐えきれなくなって、髪の色を抜いた。

 でも、それっきりだ。結局「チツジョ」から外れるのが怖くなって、中途半端。色の抜けた髪先には、今もなんの色も入っていない。 


 髪色のせいで、就職は苦戦した。やっと内定をもらったのは、職員数も規模も小さな工場。どうせたいしたことない、そう思いながら出社した仕事場は、思いのほかあたたかかった。


 好きなことを突き詰めたわけでもなく、得意なことを生かしたわけでもなかったけど。

 仕事を仕事としてきちんとこなす、という簡単そうで難しいことに、全員が真摯に向き合っていた。良い職場だった、と自信を持って言える。


 良い職場だった。

 過去形なのには、理由がある。

 経営が不安定なのは知っていた。それでも、あの仲間といればなんとかなるなんて、甘っちょろいことを考えていた。

 だから、これはきっと罰だった。







「みんな、申し訳ない」

――この会社は、倒産する。





 そこからの人生は、真っ黒だ。


 どうにもならない失望をどこに向けたら良いかわからないまま、なんとなくバイトをこなす日々。


 気付いたらバイトはリストラされていて、大して無い貯金だけで生活することを余儀なくされた。新しいバイトを探そう、とは思えなかった。

 もうこれ以上居場所をつぶされることを、本能的に避けていたのかもしれない。


 寝て、かろうじて何か食べて、また寝る。その繰り返し。

 そんな腐った生活に切り込んできたのは、インターホンの呼び出し音だった。






…ポン

ピンポーン


「んぁ…?」


 寝ぼけた頭に入り込んできた人工音に、思わず眉を寄せる。

 今日宅配便の通知来てたっけか、と健斗は思考を巡らせた。


 はいはい、とドアの鍵を開けると、手をかける前にドアノブがみるみる遠ざかる。


 え、という声は、発される前に喉元で消えた。


「ここに住んでるってホントだったのねー、うわ部屋きったない、少しは掃除しときなさいよ」


 最初の一息で説教をかましてきたこの来訪者に、俺はしばらく口をきけずにいた。

 そうこうする間にずかずかと部屋に入っていく後ろ姿に、あわてて声をかける。


「ね、姉ちゃん…?」

「リアクションが遅い。久しぶり、健斗」


 来訪者――俺の姉は、したり顔で笑った。




 どこからか取り出した手袋とゴミ袋を駆使しキッチンを片付けるシルエットを、俺は体育座りのままぼんやりと眺める。

 「邪魔だから端っこに寄りなさい」の言葉に、言われるまま従ったのが数十分前。

 俺一応家主なんだけど、と口に出そうものなら十倍になって帰ってくること必至なので、賢明な弟は口を閉じた。

 しかし、さっきから頭の中に渦巻くクエスチョンマークは消えない。

 俺は、疑問を投げた。


「姉ちゃん」


 ん?と返事が返ってきたので、このタイミングは正解だったらしい。


「なんで来たの?そもそも、俺姉ちゃんに住所教えた記憶ないんだけど」

「なんかあんた、ダメになってそうだったから。住所は知ってた。情報源、聞く?」


 簡潔で、それでいて肝心なところはよく分からない返答を寄越された。なんかこの感じ久しぶりだな、とぼんやり考える。

 …情報源は聞かないことにした。世の中には知らない方が良いこともあるものだ、たぶん。






「あんた、あと一ヶ月で荷物まとめて、この部屋解約しときなさい」

 

 その口から、多分過去最高に衝撃的な言葉が飛び出した。


「え、は…?」


 なんで、とこぼれた声はかすれてしまったが、目の前の身内には正しく伝わったらしい。

 あんたねぇ、とあきれた声が落ちてくる。


「こんな生活で、あんたがあと一年も生きていけるわけないでしょ?コンロなんて埃被ってたし、布団も絶対干してない。たんすにはカビが生えかけだし、そもそもそんな貯金はないでしょ」

 

 正論で叩いてくる痛さは相変わらずだが、列挙された生活の破綻ぶりは事実なので頷くしかない。


「そんな状態のあんたを拾ってあげるって言ってんの、猶予が一ヶ月あるだけましと思いなさい。なんなら明日でも私は一向に構わないのよ?」


 途中で挟もうとした口は潰され、半開きの唇だけが間抜けに残る。


 「返事は?」の声に、俺ははい、と答えるほかなかった。






 なんか、この半年分の刺激が一気に来た感じだな。

 リュックを背負いながら俺は心の中で呟く。


 ピンポーン


 一ヶ月前俺を混乱におとしいれた電子音が、空っぽの部屋に鳴り響く。

 面倒になって開いてるよー、と声を大きめに言うのと、ドアが開くのはほぼ同時だった。

 全部済ませたわね?の声に、素直に頷く。


「よし、じゃあ鍵返してきなさい。駐車場に私の車が止めてあるから、終わったら乗ってね」


 言うだけ言って去っていく後ろ姿を見送って、俺はゆっくりと部屋を見渡す。


 最後のほうはとても人間的でない生活だったにせよ、このワンルームは俺の最後の砦のような存在だったのは間違いない。

 ふと感謝の念が頭をもたげ、自分に驚く。余裕が出てきた、ってことか。


 この点に関しては、あの暴君・キミカに感謝しなければいけないかもしれなかった。

 ……なんだか悔しいので、当分言ってやる気はないけれど。





 助手席に座り、ぼーっと窓の外を眺める。

 さっきから景色の様相が一ミリたりとも変わらない。まとまってある一軒家、たまに遠くにある学校らしきもの、川、やけに近い山、田んぼ。

 スピードが緩まってきて、キッという音とともに反動で頭が前に傾く。

 着いたわよ、の声に、俺はその家を見上げた。

 

 二階建ての一軒家。どうやらここが、俺の引っ越し先らしい。




 

 ここでの生活は、前よりずっと人間らしかった。

 そして、同時に退屈だった。なんせ、コンビニへ行くのに車を出さなければいけないようなところだ。


 そんなことを食事中にぐちったら、珍しくリアクションが返ってくる。


「ふぁんひゃ…」

「飲み込んでからしゃべって」

 

 齧歯類のごとく食べ物を頬につめこんだまましゃべろうとするのを、いったん静止させる。

 不満げに眉を寄せてもぐもぐと咀嚼し、口の中の容積が減ったところで公佳が話し出す。


「あんた大学で山登ってるって言ってたじゃない、どうせならそこらへんの山登ってみたら?」

「え、登って良いやつなの?」

「それはわかんない」


 極めて無責任な提案。俺は、こんな適当な言葉に乗ってみようかと思った自分に頭痛がした。


「あのさ、姉ちゃん…」


 話し始めようとした矢先、

 バッ!と効果音がつきそうな勢いで姉が振り返る。おもわずすくんだ健斗の身には見向きもせず、公佳は勢いよく立ち上がった。


「やっばい、時間!健斗、送って!」


 またこのパターンか。俺は息をつく。この姉は、しょっちゅう時間ギリギリになっては俺に送らせるのが常だった。


「はいはい」

「返事は一回!」

「うるさい、文句言うなら自分で行け!」


 じゃらん。

 鍵の擦れる音が、騒がしい玄関に響いた。







 スウッ、バン。


 いい加減慣れてきた、運転席ドアの開閉音が響く。車の向こうから丸い何かが近づいてきて、俺は少し身構えた。


「こんにちは」

「……、こんにちは」


 正体は、このあたりをよく通っているおばあさんだった。公佳は夏子さん、と呼んでいるけれど、俺はまだ距離感が掴めないでいる。

 


 部屋に入ると、実家から送られてきてまだ仕舞い切れていない物たちが目についた。

 しょうがない、片付けるか。

 部屋の真ん中の開きっぱなしの段ボールはさておいて、俺はしれっと未開封の最後の一個に手をつける。




 ふわりと舞い上がる土の匂いに、俺は目を見開いた。





箱の中身は、山岳装備一式だった。

 あの後装備を広げているところを姉に見つかり、じゃあ行ってきなさいと外に放り出され、今に至るわけだ。


 うーんと伸びをして、瞼を閉じていても分かる強い日差しに辟易する。

 暑くなってきたし、そろそろ移動しようか。

 そんなことを考えて腕を下ろすと、さっきまでは無かった白い影が隣に座っていることに気付いた。



 その白い影の正体は、目を向けてみるとすぐに知れた。なんということはない、人間だ。


 汗ばむほどの陽気だというのに、その人はポンチョのフードをしっかりと被り、長袖のシャツと長ズボンを身につけていた。


「こんにちは」

「……こんにちは」


 既視感のあるやりとりを交わすと、その人は問うてきた。


「あなたは、ここに住んでいる人なんですか?」

「あー、ついこの間そうなったんですけど、まだあんまり分かってないです、ここらへんのこと」

 

 この会話を始まりに、俺はここに来るまでのいきさつを話した。ほぼ一方的に俺が話すだけだったけれど、その人はただ静かに俺の話を聞いてくれた。

 

 いきさつだけ話そうと思ったのに、会社の倒産の話までうっかり話してしまうほどの聞き上手とは、さすがに予想していなかったけど。





「…って感じですかね。すみません、俺ばっかり話しちゃって」


 その人は大丈夫、と言うかのように首を振ると、もう一つ問いを手渡してきた。


「空は、お好きですか?」


 好きでもないし嫌いでもない、本音はそうだ。ただあんなに話を聞いてくれた人の質問に否を返すのがはばかられて、俺は口を閉じた。


 

 するとその人は、なめらかな動きで左手に持っていた何かを差し出してきた。


「これって、傘?」


 日傘というわけでもなく、コンビニで売っているようなごく普通のビニール傘だった。

 てっきり荷物持ちを期待されたのかと思ってそれを持っていると、その人は加えて言う。


「差してみてください」


 俺はきょとん、とした。この傘を差すことに、意味があるんだろうか。

 意図が全くわからないまま、傘を開く。



 そしてそれを頭上に掲げたとたん――俺は間抜けな声をあげた。




「え、え、えっ…」



 背景と同化していたその傘は、一瞬にして空へと変化した。色だけでなく、透明で高くて複雑な、空そのものに。


 持ち手があるのを忘れ、思わず手を伸ばして、脳裏によみがえる記憶にはっとした。


 この、空は。





 呆然として傘を眺め続ける俺の耳に、とつとつと語られる言葉が入ってくる。



「僕たちは未来につけたアタリを現実と錯覚しまっているんじゃないか、そう思うんです」



 思わず、ポンチョに隠された顔を見つめる。

 

 どういう意味だろう。

 さらにその人は言った。


「学歴がないと、いい人生は歩めない。失敗したら、もう楽しみは訪れない。居場所を失うと、もう代わりは見つからない」


 最後の言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。



「アタリをつけるのは大事だけど、それはただの思い込みに過ぎないと自覚することも、同じぐらい大事だと思います」


 そう言って小さく息をついたその人は、俺に微笑みとともに何かを渡してくれた。

 

 白い紙らしきそれを裏返し、俺は息をのんだ。

 そこにあったのは、夕日と、それを受けて染まる美しい雲だった。

 さっきの傘の空に、よく似ている。



 

 どうしてこれを、と問おうとしたときには、もうあの人の姿はどこにも無かった。







 ベッドに背中からダイブして、あの空をポケットから取り出す。

 あのとき渡されたままの姿にも、少し違うようにも見えるそれをじっと見つめた。


 どうして分かったんだろう。


 あの傘の空を見て、浮かび上がってきた記憶がある。



『この山からの景色を、おまえに見せたいんだ!サークル活動外だけど……』


『足下、気をつけろよ』


『あちゃー、雲出ちゃってるな、ごめん』

『…です』

『え?』

『謝る必要なんて、無いです。…この景色、たぶん一生忘れません』



「先輩…」


 結局、忘れてしまっていた。この大事な記憶さえ。

 もう一度、目のピントを空に合わせる。

 それはまぎれもなくあの空なのに、よく見るとくるりと混ぜた模様がある。

 その跡はけっして空を損なうことはなく、むしろ思い出の中の空と、なぜかぴったりだった。


 


 ぼんやりと考えていると、少年の声が蘇った。

――思い込みに気付くことも大切。




 俺は自分でも気付かないうちに、自分を封じ込めていたのかも知れない。

 その考えに行き着いて、俺はすとんと納得した。


 そうか、そうだったのか。


 思えばあの日から、俺は居場所を求めていながら居場所を拒絶していた。

 あの部屋だってバイト先だって、きっと居場所になり得たのに。





 俺は、ここに居場所を見出していいのかな。


 呟きは誰にも拾われなかったけれど、ずっと自分を否定してくるようだった重苦しさは、この数分でずいぶん軽くなっていた。






 リュックを背負って、靴紐を結ぶ。車の方に歩いて行くと、ちょうど見慣れた頭が近づいてくるところだった。


「こんにちは、夏子さん」

「あらこんにちは、健斗くん」

 今日も山登り?気をつけてね。そんなあたたかい声に返事をして、俺は車へ乗り込んだ。



 

 格段に息切れが減った体で、もう何度目かの山道を一歩一歩踏みしめた。

 

 目的地へ到着し、俺はベンチへ腰掛ける。


 まぶしい青空に、目を細めた。

 ああ、空はこんなに高かっただろうか。


 きっと、ここに来るまでの俺の上にも、この美しい空はあった。

 それを感じ取れるようになったということ。

 それは、うまく言えないけれど、なんだかとても素敵なことだと思った。


 ポケットから空を取り出し、掲げる。


 正直惜しいけれど、きっとこれ無しでも、この先は乗り越えられる。


 だから、



「もう大丈夫。……ありがとう」





 途端に手の中の感覚が無くなる。腕を下げても、その空は浮かんだままだった。


 青空に夕焼けが浮かぶ。

 その景色に、健斗の唇が弧を描く。



 空の青に染まった髪先が、ふわりと揺れた。






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