場面.17「ボトルズメイル」

カルテカを追って水盆に飛び込み、水らしくない水の中を沈んでいく時間はほんの瞬間で、足先から頭の先まで、体が全て水から出たとこで視界に飛び込んで来た光景に、アリスは思わず悲鳴に近い奇声を上げてしまった。


眼前には入り組んだ書棚が広がる図書館らしき部屋があったが、どうやらその高い天井からこのエリアに入ったらしく、床はずっと下にあり、そのまま落下すると思ったアリスは驚いて足をばたつかせたが、そんな事をしなくても自分の体がゆっくりと下降している事に気付き冷静になったとこで、「ふぉー!」という奇声が、アリスの耳に届いた。


それは先に水から出ていたカルテカの声だったが、見るといかにも待ち切れないように足をむやみに伸ばして、やっと着地したところで、今度は忙しなく動き回りながら辺りを見回し「ビブリアン!」と確かに言った。


ようやく着地しかけていたアリスが「え!?」と、つられるように声を上げると、アリスと同時に着地しかけていたアロノンが「ここは、ボトルズメイルですね」とアリスに言った。


それを聞いたと同時に着地したアリスは、少しふらつきながら、今度はアロノンに「え!?」と訊くと「このエリアの名称です。そしてビブリアンがいるエリアでもあります」と言われ、アリスも辺りを見回したが、頭が本だと言われているそれらしい何かの姿を、全く見つけることが出来なかった。


ここへ来てまさか肝心のビブリアンが居ないなんて事なのかと不安になったアリスに「ここはとてつもなく広いエリアです。ビブリアンも多数いてエリアの中をあちこち移動しています。だから探しに行かなくても、直ぐに会えると思いますよ」とアロノンが言った。


そうは言われても、じっとしていられない気持ちのアリスは改めて辺りを見回し、つい今し方、かなり高い場所から見下ろした本棚を、今度は下から見上げてその高さに圧倒され、更には棚に収められている無数の蔵書に息を呑んだ。


そこで試しに近くの背表紙に指を掛けて引き出そうとしたアリスは更に驚いた。


その本はびくともせず、それどころかその隣もそのまた隣も、どうやら本のように見えているその全てが、いつか何処かで見た気がするレプリカの本棚なのだとアリスは思った。


でもどこで見たのだろうと奇妙な既視感に包まれながら、それを払うように改めて目を凝らすと、レプリカらしい本の背表紙には書名すら無く、暗色の半透明なガラスで出来ているようにも見え、そんなものが無数の本棚に、更に大量に収まっているらしい事に圧倒されて、言葉を失ってしまった。


そんなアリスの様子を見たアロノンが言った。


「このエリアは、アフターダーク以前、ザ・ダークの災厄によって飛散した様々な未整理情報が保管されている場所です。収集された情報は多種多様で、互いに断片的であり、事実か虚構かの判別もつかないものの集積です。」


「それがどうしてボトルズメイル?」とアリスが訊くと「古の時代にガラスのボトルに収められて、大海を漂流して漂着した手紙や手記などがあった事から、漂着した情報という意味で、この名称がつけられました」とアロノンが答えた。


するとこの膨大な本のようなものは、その一つ一つが情報を記録している媒体なのだと理解したアリスだったが、それならその情報を読み書きするには、いったいどうすれば良いのかと思ったところで、離れた場所で「来た!」と言うカルテカの声が聞こえ目をやると、こちらに手を振っているカルテカと、その横に立っている古めかしいレドロンのような人の形をしたキャラクターが見え、その頭は確かに開いた本そのものだと、アリスは思った。


その横でニコニコしているカルテカを見るに、怖がることは無いのだと思いつつも、そのあまりにも奇妙な姿に圧倒されていたアリスに「あれがビブリアンです」とアロノンが冷静に言った。


アリスはゆっくりと近づきながらそれを観察すると、本はまさしく頭のように動くが、目鼻などは無く、開いているように見えるページは未記入の紙のようだと分かった。


少し距離はあるが、会話をするには不自然でもないところまで近づくと、ビブリアンは一度アリスの方に頭を向けたが、無言のままでいるアリスに興味はないらしく、すぐに視線を外すように、どこか他の場所にその頭を向けてしまった。


慌てて「アリスです」と挨拶したが、ビブリアンは無言のままで、どうすればいいのか当惑したアリスに「ビブリアンには質問」とカルテカが、ビブリアンの腕をつつきながら言った。


カルテカからそんな事をされても無反応なビブリアンを見て、アリスは少し安心したものの、改めて質問と言われると、何をどう言えばいいのかと考え込んでしまった。


するとアロノンから「何かを探しているのでは?」と促され、アリスはそれに微笑みを返しながら、自分と同じくらいの背丈があるビブリアンに向き直り「私の探し物は何ですか?」と訊いた。


するとその外観の印象とはまるで違う、少し早口だが理性的な声で「それは違います。探す為には、探すものが必要です」と返され、アリスは思わず恥ずかしくなりながら、頭を抱えてしまった。


それを見たカルテカにくすくすと笑われて、アリスが睨むと「いや多分、アリスを笑ってるんじゃなくて、ビブリアンの話し方が楽しいんだ」とアロノンに言われ、そういえばカルテカはビブリアンが大好きだというのを思い出した。


確かに第一声からして、微妙にズレた会話でありながら、それでいて的を射ていると言えなくもない、その独特な言い回しは面白いかも知れないと、アリスは気を取り直して、カルテカに睨んだ事を短く謝ろうとすると「もっといろいろ!」と逆に催促された事には呆れてしまった。


それなら自分で、何やらいろいろ訊けばいいのにと内心思いながら、さて自分はどうしようかと考え始めたところで「探し物は落とし物?」とカルテカから更に追撃を受けながら「落とし物だとしても、私が落としたものじゃないかな」だって私がここへ来たのは初めてだし、そもそも仮想世界での落とし物って何?と、今度はアリスがくすくすと笑ってしまった。


それを見て痺れを切らしたのか「だったらアリスを探したら?」とカルテカがビブリアンを指差した。


唖然としてしまったアリスにアロノンが「ボトルズメイルの情報を扱えるのはビブリアンだけなんだ。ここの情報を検索したり収集したりする。場合によっては編集して更新したりもする。つまりビブリアンは未整理情報の管理者なんだ。カルテカはここの情報を当たってみたらどうかって言ってる、つもりだと思う」と言った。


それを聞いたアリスは本棚を見上げながら、それがこの部屋だけでなく他にも大量にあり、その中にはアリスという名前や呼称もまた大量にあるだろうと想像して、それで何かが分かるとは到底思えないと予想がついた。


それでも仮に探している答えが未整理情報の中にあるのだとしたら、ビブリアンをなんとかしないと、どうしようもない。そこで先ずは「アリスを探して」と素直にビブリアンに言うと「それは違います。探す為には、探す場所が必要です」と返されて、苛立ちよりも、あれ?と間が抜けてしまったアリスとビブリアンの寸劇に、カルテカが目を見開いて大喜びしていた。


「お前、どんだけビブリアンが好きなのさ」と呆れているアロノンを横目に見ながら、アリスは思い出し「ボトルズメイルからアリスを探して」と改めてビブリアンに言った。


するとビブリアンは無言のまま一番近い本棚へと歩いていき、一冊の本の背表紙に右手の指を立ててそれに触れた。見るとビブリアンの指は三本で、それを垂直に束ねるとその指先が揃う作りになっていた。それにビブリアンにとって無言は了解なのだと、そんな事を思っていると、揃えた三本指が触れている背表紙が仄かに発光し、それが周りの本一面へと広がっていく光景を目にしながら、仮想空間でこんな仕掛けをわざわざ作る必要は無いはずで、これもまたフリアートの演出なのだろうかとアリスはそれを眺めながら想像した。


そんなビブリアンの横で、それよりも低い位置にある背表紙に指先を当てているカルテカが居たが、人の指先を三本揃えようとすると指を奇妙に屈曲させなければならず、その形をなんとかして編み出そうとしながら背表紙に触れるものの、どうやらなんの成果も得られないらしく「むー」と言ってそれを諦め、今度は背表紙に顔を近づけて覗き込むような仕草を見せた。その内にペロリと舐めてみたりするかも知れないと、アリスが微妙なシワを眉間に寄せてハラハラしていると、ビブリアンが背表紙から指を離しアリスに言った。


「それは違います。多段連想配列を最大限度使用しても、有意に収斂する意味系統は見つかりません」とそれを聞いたアリスは、要するに情報が多すぎるという話しだと理解しながら、それなら何か範囲を限定するキーワードはないかと思索したが、何も思い浮かばなかった。


それでふと、なぜビブリアンは移動しているんだろうという疑問が浮かんだ。もしかしたら他にも沢山あるという部屋のそれぞれで、格納されている未整理情報が違うという事なのだろうかと想像し、そうだとするとこの先、いちいち部屋を移動しながら似たような事を繰り返さなければならない事になると思い、アリスは気が遠くなってしまった。


カルテカはまだ諦めていないらしく、今度は背表紙に鼻を寄せて匂いを嗅いでいるようで、それを見たアリスは吹き出してしまったが、本人は至って真面目らしく、やがて背表紙から顔を離して腕組みをしながら直立し「むー」とそれを睨み続けていた。


その旺盛な探究心には見習うところがあるとアリスは思った。それでカルテカが外の人物と繋がっているキャラクターではないかという考えを思い出し「もしかしてあなたって?」と言うと、「もしかしてあなたって?」と全く同じ文言を返されて、それが同類だという意味なのか、単なる訊き返しなのかと迷ったところで、ビブリアンがおもむろに歩き出しアリスは焦って「あの、行かないで」と言うと、ビブリアンは無言でアリスに向き直った。


とにかく何か訊かなければと「どうして移動するのです?」と、それには無言で返事をされて、それは言えない事なのかと思ったが、癖の強いビブリアンの事、別の解釈があるのではと勘ぐり、なるほど答えは移動するから移動するという事で、結果無言なのかとアリスは考えて、別の言い方を試してみた。


「移動すると、どうなるのですか?」「それは違います。移動と結果の関係は非線形です」と、どうやら否定形から始まるのが定型らしいその話し方と、会話自体がパズルを解くように進むというあたりに、カルテカはぞっこんなのだと思い、確かに面白いとアリスも共感しはじめていた。


ビブリアンとの会話が楽しくなってきたアリスは「つまり未知だから移動するという事は、解明する為に移動するという事ですか?」「それは違います。未知の為の移動は、別の未知の為の移動です」とそれを聞いたカルテカが小躍りし、話せば話すほどややこしくなっていくその会話に、アリスは目眩を覚えながら「未知へは一人で移動するのですか?」「それは違います。一人で始めても、複数で始めても、それらはやがて交錯し格納され、再利用されます。」


格納という単語から経験情報という熟語を連想したアリスは、そこから名前のない実感探しの人を思い出し、ビブリアン達がメタバリアムの世界を旅して回っているような印象を持った。


そこで「移動は旅ではないという事ですね?」と、わざと否定形で訊くとそれが当たりで、「それは違います。私達の移動は旅と同義です」と答えが返ってきた。


それで益々楽しくなったアリスは「旅に出るのはこの部屋からですか?」と訊くと「それは違います」と言いながらビブリアンは歩き出し、三人がそれについて行くと、いくつもの部屋を抜け、別のビブリアンを見かけたりしながら、やがてひときは広い部屋に行き着いて、ビブリアンは立ち止まった。


その場所に本棚はなくビブリアンの姿が複数見えるが、何より目につくのは部屋の奥に発光している壁があり、丁度一体のビブリアンがその壁の向こうへと消えていくのをアリスは目撃した。


するとカルテカがその壁へと突進し、「行っちゃダメ!」とアリスは叫んだが、その必要が無かった事が直ぐに分かった。


壁に触れた途端に、その勢いの分だけ弾き返され、床に尻もちを付きながら「ぷにょ!」と悔しそうに叫んだカルテカが可笑しいやら、可哀想やら、それともそれで安心したアリスは、傍らで立ち止まったままのビブリアンに「あの先に未知は無いのですね?」と訊くと「それは違います。あの先には未知があり、私達はここでそれぞれの物語を読み出し格納してから、未知へと移動し、それぞれの経験によって変更された物語を持ち帰ります。」


「するとあなた達は、それぞれが変更された物語を覚えている個体なのですね?」

「それは違います。持ち帰られた物語は、ここのどこかで格納され、個体の情報は白紙になります。」


「格納されている情報は、全ての部屋で同じなのですね?」

「それは違います。未整理情報は格納された後、評価され散乱指数を元に分類されて、それぞれの部屋に転送され格納されます。」


それはつまり格納されている物語を持ち出して、壁の向こう側にあるビブリアン達の世界で、それぞれの判断や行動によって別の解釈が生まれ物語が変化するという、壮大な物語生成をしているのが、ボトルズメイルとビブリアン達で、それは未整理な情報を束ねる事が出来そうな、一貫性のある傾向を見つけるといった事が、その目的なのかも知れないと、アリスは想像した。


そこで「ひー!」というカルテカの声に目を上げると、壁の向こうから現れたビブリアンの姿が一体あったが、それは大事そうに本を両手で胸に抱えながら戻ってきた様子で、この場合その本は、別のビブリアンの頭部なのだとアリスにも分かった。


たいして距離が近い分けでもなかったが、それでも後退りしながらアリスは「どうしてあんな事を?」と早口で傍らのビブリアンに質問した。


すると「それは違います。あのビブリアンに何があったかは不明です。しかし本は経験済みの情報と、経験によって変更された解釈の両方が格納されており、対してボディーには本来の物語と解釈とが格納されています。つまりあのビブリアンは、他のビブリアンに起きた何某かのアクシデントによって未帰還になるハズの情報を持ち帰る、という物語が格納されている状態です。」


説明は整然とした印象だし、何より頭部でもある本から血の類が出ているようでもなく、それでもビブリアン達の経験世界というのは、ただの気楽な行楽という分けでもないのだとアリスは思った。


それはメタバリアムという仮想世界で自分が見てきた物事と、程度の差はあるが一致するとアリスは考えた。内面と外面の両方が一致する場合もあれば、一致しない、つまり嘘をついていたり気付いていないキャラクターもいる。


それは多層性の表現であり、時計ウサギが言っていたポリフォシスなのだと。


精神と身体は互いに多層的な関係性があり、それこそが最も根源的な人の多層性獲得の機会で、それらが互いに呼応する為に経験が必要なのだと。そしてその経験情報を個体を超えて共有する方法を、ここでは物語として扱っているんだと、アリスは想像した。


そんな事に思いを巡らせながら傍らのビブリアンを見ると、そのボディーには無数のキズがあり、そこかしこに居る別のビブリアンに視線を移せば、そのキズはどれ一つとして同じではない事に気がついた。


はじめはただの実体表現、つまりは装飾なのだと思っていたアリスの気持ちは、ビブリアンに対する敬意と畏怖へと深まっていった。


今は白紙状態だという傍らのビブリアンもまた、旅先で他のビブリアンを助けたかも知れなければ、或いは争って相手の経験情報、つまり頭部を奪うような物語を、経験してきたのかも知れない。


そこでふと、ボトルズメイルにアクセスするビブリアンの三本指を思い出したアリスは「他のビブリアンの情報は本棚に格納出来ないのでは?」と訊くと、「それは違います」と言いながらビブリアンは姿勢を落として片膝をつき、人でいうところの首あたりを指で触れた。


すると本が音もなく外れ、本とボディーとの間に垂直のポールがあるのが見えた。本の綴じ込み部分がそのポールを収納する形で、ボディーに固定されているのだと分かった。


「本とボディーとは入れ替え可能です。ただし全てのボディーの格納情報は個別です。」


それはつまりビブリアン達には個性があるという事で、メタバリアムのシミュレーションに必要な差異を、顔や髪型、肌色や人種といった特徴を使わずに、それらを表現したものがビブリアン達なのだとアリスは理解した。


そしてそんな仕掛けが今も稼働している。なのにその情報は外からはアクセス出来ず、それを知るにはインタラクトしなければダメというのは、マザーシップから聞いた話だ。


するともしもここで自分が何かを見つけたとして、それが物語なのだとしたら、それは自分が経験した物語の中に格納されている別の物語という形になる。


アリスはそれで、ザ・ダーク以前からあった古典的な物語、千夜一夜というのを思い出した。一読した事はなく、ただ概要を知っているだけだし、そもそも複数のバージョンがあったらしいのだが、再録されたのはそのうちの一つだけらしい。


それは物語全編に共通する枠物語があり、その枠の中の人物が個別の多数の話を語るという形式らしく、すると自分は枠物語側の人物で、その自分が別の物語も知っているという見方をするなら、私という物語は、物語を運ぶ物語、それとも物語を持ち出す物語と解釈する事も出来る。


そこでアリスは閃いて「アリスの物語を教えて」と言うと、ビブリアンは外して見せた本を再装着して歩き出し、またぞろ三人してそれについて行くと、かなりの数の部屋を移動してから、やっと一つの本棚の前で立ち止まり、三本指で手近にある背表紙に触れた。


だがそれで返ってきた答えは「それは違います。多段連想配列を最大限度使用しても、有意に収斂する意味系統は見つかりません」と、以前と同じものだったが諦めず「アリスの不思議の国の物語を教えて」と、知っている書名を引き合いに、範囲の絞り込みを試みた。


すると「それは違います。不思議の国のアリスという物語は、未整理情報ではありません。確定情報については経験情報の評価で参照されますが、直接参照では別の情報格納媒体を利用してください」と言われ困惑しつつも、アリスは更に質問を変えて「不思議の国のアリスという手書きの本について教えて」とダメ出しを続けた。


どんどん詳細方向に絞り込めば、その内小さな違いが出てきて、それが何かの糸口になりはしないかと思ったからだ。そしてその狙いは当たりで「それは違います。不思議の国のアリスという物語は印刷物であったと確定しています」と聞かされ「それなら、手書きの本のアリスの物語は無いという事ですか?」と質問を続けた。


するとビブリアンが答えた。「それは違います。未整理情報から有意に収斂する情報群が見つかりました。不思議の国のアリスという印刷物より以前に、[アリスの地下世界の冒険]という手書きの本が一冊だけあります。ザ・ダークの情報散逸によって両者は混同され、不思議の国のアリスの別バージョンが、手書きで残されたものとして確定されました。そこで、不思議の国のアリスの正規版には、手書きの本は存在しないと確定されています。」


混乱したアリスは一呼吸置いて話を整理してみた。


ビブリアンの情報からすると、自分が展示で見たあの手稿本の内容は、手書きの挿絵もある事から、アリスの地下世界の冒険のそれだが、それでいて表紙部分だけ左側に別れて投影されていたのは、もしかしたら手書きの表紙が見つからず、結果として、その書名は不思議の国のアリスだとして確定されたと。


すると、別バージョンだと認識されているくらいだから、両方は多分似た内容で、印刷物である不思議の国のアリスの内容は、結果として実は展示されていない。つまりアリスの地下世界の冒険が、不思議の国のアリスとして展示されている、という事。


なるほど手稿本の内容が別バージョンだと間違われて、だからそれが手書きの本だという以上に珍しい為、希少本と付記されていたのだと、アリスは推理した。


アフターダークの復興期は思っていたよりもずっと混乱した時代で、それも途中から新都市の建設に大きく舵を切り、メタバリアムを閉鎖した事で、いろいろな詳細情報が未確定のまま、あるいは間違ったまま確定されて、それが新都市では事実になっている。


そう思うと、自分の現実世界に霞がかかっている気がしてきたアリスだったが、それでこんな些細な事が新たに分かったところで、何の影響もないのではないかと想像した。


それにしても、この仮想世界で最初に見た分かれ道。その一方が地下世界行きだった事を思うと、あの時そのまま右の地下世界へ行けば、それで話は済んだのかも知れないと考えたが、左の機械世界を巡ってきたアリスは、それは違うなと直ぐに考えを改めた。


もしも地下世界へ行ったなら、これまでの経験からして、自分は自分の行動で地下世界の物語を変更して、それを自分の物語に書き換えてしまう事になっただろう。


それは他人の話を都合よく自分の話にすり替える、モノフォシスのやり方だ。


するとボディーに元の物語を保持するビブリアンはポリフォシス的な仕組みなのだとアリスは思った。物語生成とは単なる上書きではなく、履歴という時間的な連続性が要る。


それを重視しないモノフォシスの意識世界は、とても狭い時空の箱みたいだとアリスは想像しながら、つまり単層思考者とは、時間感覚についても単層的で、他者の時間を許容出来ない。世界の歴史は全て自分たちの歴史、ただその一つだけでないとダメなのだ。


だからいつまでも一つの小さな箱の中身を巡って争い続ける。


そうか、ジャバラが言っていた仮想生命世界、ネオ・メタバリアムの社会はつまり、ポリフォシスな仮想体たちの世界でなければ、そもそも地獄化してしまう。


そこで、モノフォシス化する事を防ぐような機構が、本能レベルで共有されながら生成される仮想体。その為に必要な条件がそろっている仮想生命螺旋。ダメなら消去するようなやり方を忌避して、生成されれば自由に活動していける、文字通りの楽園。


物語生成とは、その条件を探す試み。だとすると、ネオ・メタバリアムという機械生命体は、まだ生み出されていない。試行錯誤の最中なのだとアリスは思った。


探してほしいと言われたものが、アリスの物語の起点、アリスの地下世界の冒険なのかどうかは、依然として不明なままだ。何しろミッション・コンプリートみたいな声が、聞こえてきたわけでもない。


それでもアリスには確信があった。


自分の名前との関連。

一連の出来事が手稿本から始まっていると思える事。

それにあの地下世界行きのプレート。


間違いない。だから後はここを出て、正しい履歴を持ち出す事。

それが最後の目的だとアリスは思った。


今までにないほどの高揚感に勢いづいて「ここを出るにはどうすれば?」と、ビブリアンに訊いたアリスに対して「それは違います。ここを出るにはビブリアンでなければなりません」と返されて、なるほどそれは、あの専用の通路の事だと理解しつつも、そんな世界を旅してみる勇気は今の自分には無いし、そもそもそれは目的じゃない。


もしもビブリアンの世界を旅するのだとしたら、そこでは厳しい試練も経験する事になるだろう。目的が無く、そして勇気が有るなら、そんな世界にも飛び込めるかも知れないと、高揚感に充てられて思ったアリスだったが、それよりはビブリアンとの会話の作法を、すっかり忘れて話した事が恥ずかしく、少し笑った。


そこで別の言い方を考えてみると、ここの意味がエリアではなく、メタバリアムまたは仮想世界であるとして話をしなければならないと気がついて「メタバリアムからは出られないのですか?」とビブリアン式で再び訊いた。


すると「それは違います。不明な場所から出られるか否かは不明です」と、いかにもビブリアンらしいその回答に、アリスは笑ってしまい、アロノンもそれに続いていたが、その横でカルテカだけは満面の笑みを湛えながら「うんうん」と大喜びしていた。


振り出しに戻ったような状況で、もしもここで一人だったらとアリスは想像したが、でも違う。三人してこのボトルズメイルまで来れたのだ。アリスはそれが嬉しく、少し微妙な表情をしながら「うんうん」とカルテカの真似をして見せた。


すると「あーっ!」とカルテカが発した、とてつもない大声にアリスは飛び上がり、「ちょっと真似しただけでしょ!」と気を悪くしかけたところに、「あれいる!」と再び叫んだカルテカが猛烈な勢いで駆け出し、思わず顔を見合わせたアロノンに「なに?」と言うと、今度はアロノンが「あ!」と短く言って、カルテカの追跡にアリスを誘った。


出口の壁でも見つけたのかと期待しながら走ったアリスだったが、直ぐ先の角を曲がるカルテカを見て、どうも様子が違うと思った。いくらなんでも、見通せない場所にある壁が見えたりはしないだろう。それとも壁が移動しているのか、移動している何かが出口なのか。


やっとの事でカルテカと同じ角を曲がったところで、アリスは「え?」と言いながら、その答えを知った。

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