場面.16「パブテリア」
壁のように見えた絵を越えて入ったエリアは、アリスが期待したものではなかったが、その予想は当たっていたと言えるものだった。
そこは心地よい装飾と柔らかな光が差し込む広いホールのような空間だったが、椅子やテーブルは無く、見るからにカフェテリアではないと分かる場所でありながら、全体としては何処となく、あのカフェテリアに似た雰囲気があり、つまりは似てはいるが別の空間だと、アリスは理解した。
そういう事なら、ここにはあの二人も居ないのだと思いながら、それでもあたりを見回すと、屋内向けの植物、段差を流れる小さな流水、清潔そうな水を湛えた水盆などがあり、植物園か屋内公園か、そんな呼称を思い浮かべながら、そのどれに集中するでもなく視線を泳がせていると、誰かが植物の影から起き上がり、その人物と目があった。
簡素な制服風の上下に身を包んだその男が、こちらを見ながら礼儀正しく会釈した事で緊張を解き「アリスです」と挨拶すると、相手は「管理人です」とそれに応えた。
つまり名前は無いのだと察したアリスは、その人物は生成されているキャラクターなのだと理解した。
人物とは一定の距離を置きながら「ここはどんな場所ですか?」とアリスが訊くと「ここは屋内公園です」と答え、それには思わず嬉しくなってアリスは笑顔になった。自分の観察が正しかったと分かったからだ。
それで気を良くしたアリスは「今は誰もいないみたいですが?」と続けると「はい。確かにそうです。しかしそれは悪いことではありません。少なくとも私にとっては」と、その意味深な言い方に「もしかしてわたし、お仕事のお邪魔です?」と首を傾げると、管理人はアリスの人となりを探るような視線を少し見せた後に「いえ。お見受けするに、あなた様には何ら問題はないようで、こちらも安心です」と、更に首を傾げたくなるような言い方でアリスに答えた。
何やら望んでもいない面談の結果を聞かされたようで、一気に白けてしまったアリスだったが、それでも悪く言われたわけではないと思い直して「問題とは?」と話を続けた。
「ここは公園ですから実に様々な方々がいらっしゃいます。ただしどのような方々がいらっしゃるかは分かりません。そこで私はそのような方々がこの場所に相応しいかどうかを評価します。」
こうした場所の仕事といえば、植物とか備品の手入れや清掃と、外ではレドロンがしているような事だと思っていたアリスは驚いて「つまり来る人の評価がお仕事?」と訊くと「はい、評価して分類管理するのです」と真顔で答えた相手を見ながら、なるほどここはシミュレーション・エリアなのだから、確かに清掃なんて必要ないのだろうと、試しに手近な植物を摘んで捨てるような事をして確かめてみたい衝動に駆られたが、咄嗟に堪えた。
そしてそれを自制した事が正解だったと分かるような話を相手は続けた。
「好き勝手に、そこいらの水を飲んだり、葉を千切って試してみたりする方々がいましてね。それはもう散らかし放題です。そのような方々には、概念未習の評価をもって、ご退出いただいております。」
「それは確かに良くないですね。でもそれが概念と何の関係が?」
「ありますとも。ここは公園です。つまり公共空間です。ですが公共という概念を理解しない方々にとっては、ここは原野と変わらず、周りにあるものを自分の都合で利用する事が当然と考えて行動します。」
「なるほど、なんて言うか、自然に近いとか、そんな意味です?」
「いえ。野蛮という意味では違います。そうした方々でも仲間内ではルールがありそれを守りますが、自分たちを囲む環境については、身内に対して問題になる行動以外は、野生のそれに実に近いものがあります。」
そんな話を聞きながら、ここがシミュレーション・エリアである事を勘案して話を整理しようと思ったアリスは、その考えをそのまま相手に訊いてみようとしたが止めにした。これまでの経験からこの管理人とやらは、多分自分がシミュレーションの一部だとは知らない、例えるなら犬人と同じタイプではないかと思ったからだ。
そうだとすると、ここを訪れるのはシミュレーターが生成した評価用のパターンで、管理人は評価のロジックを経験的に蓄積する学習情報端末といった事だろうか。いや、犬人のエリアと同じなら、ここへ来るのは外から来た人物で、それなら管理人は、生体のある人物の評価をしている事になる。
なるほどそれはつまり、メタバリアムでキャラクター化された外から来た人物について、例えば倫理観といった項目が保持できるかといった事を、観測するシステムなのかも知れない。そしてここでは倫理や道徳を、公共性という概念の有無として評価しているという話かも知れない。
しかしそうだとして、公共の未習がそれほど重要なのだろうかと思ったアリスがそれを訊くと「はい、重要です。公共性を理解しない場合、先ずは二つの分類があります。一つはそもそも、その前提となる概念の形成に必要な知性を獲得していない。一つは概念は獲得しているが、公共を学習していないとうものです。ここで後者については更に二つの分類があります。一つは公共性という概念を必要としない環境で成長した。一つは公共性を理解しているが意図的に無視している。というものです。」
「でもそれだと、必要としなかったからという理由と、無視しているというのは、結果としては同じ行動になるから、分ける意味は無いのでは?」とアリスが言うと「それは違います。その理由が環境依存なら学習の余地がありますが、知りながら無視するのは、公共性という概念を逆手に利用しようとする傾向が高くなります。」
「公共性を逆手に利用するとはどういう事です?」
「公共性を共用と捉えるまでは良いですが、共用とは誰もが好きに出来るものなのだから、つまりは自分の好きに出来るものだと解釈した場合、その行動は結局、公共性を理解していない場合と同じになる可能性が高くなります。
また外部環境であるものには他者も含まれますから、他者を利己的に利用する事を当然と考えます。これは外部環境にあるものを貪欲に利用しなければ生存できない環境で成長した場合も同じ思考に至ります。
つまり、取り放題、散らかし放題、壊し放題であり、それが他者に向けられた場合、最悪には凄惨な結果に至ります。しかもそのような傾向を示す方々に限って、その利己的傾向を指摘すると、そのどこが悪いのかと意に介せず、逆にこちらが、おかしな事を言っていると非難します。」
「それってモノフォシス」とアリスが反射的に言うと「それは?」と管理人は言った。
アリスにしてみれば、管理人が言っている公共未習者とは、単層思考で他責主義のモノフォシスでもあると思え、それならここでの評価とは、対象がモノフォシスで有るか否かを検出するといった目的もあるのかと想像したのだった。
しかし管理人の反応からモノフォシスを知らないのだと判断したアリスは、そこから説明するのは避けたいと思い「いいえ、確かにそんな人もいるなって、名前を思い出したのでつい」と言って、それについては話を逸らした。
そこで会話は途切れ、アリスはそもそも概念とは何だろうと、その考えに集中した。
つい今しがた管理人が話した内容を使いながら、出来るだけ具体的に考えを進めようと思ったアリスは、他人をキーワードにして概念との関係を考察してみた。
先ず、公共性という概念を持たない未習者は、他人を環境にある道具や家畜と同等に見る。
一方で概念を持つ者は、他人に公共性という属性を付加している。
と考えると、他人という物理現実に、公共性という仮想を被せている、つまりは拡張現実化している。
すると仮想化によって外部環境にある道具存在から他人を切り離す事が出来る。
つまり公共性を帯びた存在としての他人へのアプローチは、仮想化した拡張現実を介して行われるのだから、それは全体として複合現実システムであると、アリスは推論しつつ、内心ぞっとしていた。
この考えが正しいなら、概念仮想化の能力が機能しない生成キャラクター達が活動する仮想世界では、そこでどんな事が起きてしまうか、それがどんな世界になってしまうか、そんな事を想像したからだった。
自分の考えが仮説のツギハギでしかない事は自覚していたが、それでもこの事で、ジャバラが言っていた圧縮融合で一体化した一つの生命螺旋から、生体を必要としない仮想生命体としてのキャラクター達が生成されている場合、それがもしも公共という概念を持たない者たちの世界なら、それは楽園などではなく寧ろ地獄だろうと想像すると、このエリアはそうした事態を回避する設定を模索するシミュレーターなのかも知れないと想像した。
そんな事に考えを巡らせていたアリスは不意に、それならとんでもなく乱暴な連中が、今直ぐにでも乱入してくるような事態が起こるかも知れないと急に不安になり、直ぐにここから移動しようとあたりを見回して、透けてる壁がありそうな、それらしい場所を目で探った。
すると管理人が不意に目を凝らし、アリスを最初に見た時と同じ表情を見せた。
まずいと身を固くしたアリスの後ろから「あー」という聞き覚えのある声が聞こえたかと思うと、誰かがアリスの横を素早く移動し、水盆に手を突っ込んで、その水面に波紋を広げた。
カルテカ!と呼びかけようとしたアリスだったが、実際には「あ!」と発話し、それはこの状況でそんな事をして管理人からダメ評価を受けたら、管理人曰く退出になるというのだから、再会したその途端にカルテカはと、アリスがすっかり狼狽していると「水きれい、水いいね」と懐かしい声で、カルテカは管理人に笑顔を向けた。
管理人は更に目を細めてカルテカを凝視し、それを見たアリスがこれはダメだと思ったところで「お見受けするに、あなた様には何ら問題はないようで安心です」と管理人の言葉を聞いて肩の力を抜いたところで「そちらの方も同様に安心です」と言った管理人の視線を追って振り向くと、そこにはアロノンが立っていた。
「おお、アリスだね」とアロノンが笑顔を見せて、アリスは懐かしく、そして嬉しくなった。するとカルテカがアリスに駆け寄り「泳いだりしないよ」とにっと笑った。
なんだか管理人の役割を知っているようなその口ぶりに、ここを知ってるの?と言いかけたアリスに「アリス疲れた?」と、自分の様相について突然言われて当惑しつつも、そういえばメタバリアムに来てからというもの、鏡の前に立つような事が一度もなかった事を思い出し、ふとそこにある水盆に目をやり移動しようとすると「老けてないよ」とカルテカが続けた。
鏡どころか、時間の経過についてもすっかり無自覚になっている自分に気付かされ、これで元の世界に出たら老婆になっていたなんて話は嫌だなと本気になって「私、病気みたいなの?」と声を落としてカルテカに言ってから、こういう事はアロノンに訊くべきだったと思い直した。
しかし時すでに遅く「病気じゃないよ」とカルテカに返答され、それでアロノンを見ると、やはり懐かしい肩を竦める仕草をしながらアリスに微笑んだが、その目がはっと見開かれ「行こう」と言ってアリスの手を掴み走り出し、アリスは転びそうになりながら「うそでしょ!」と思わず叫んだ。
アロノンが向かうその先で、水盆に飛び込んだカルテカがみるまに沈んでいくのを目撃し、確かに泳いでないけど、もっとずっと悪いじゃないと言いかけながら、それは言葉にならず、アロノンもそれに続いて飛び込もうとしている事を知って、その水面がどうやら透けてる壁なのだと、なんとか理解しつつも、前のめりのまま飛び込んで、頭から沈んでいくなんて事にはなりたくないと、体制を整えて片足を水に入れたところで、アロノンが軽くジャンプして一気に飛び込み、それと同時にアリスを掴む力が更に強くなったのを感じたアリスは、これで三人とも最低評価ねと、管理人を瞬間見たが、さようならの挨拶には間に合わなかった。
水に入って分かった事は、それは確かに水の感覚ではなく、これまで通ってきたエリア移動の感覚と同じものだった。それでも本能的に息を止めながら、アリスはこの再会が、泣きたくなるほど嬉しいと胸を一杯にしていた。
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