場面.8「ナラティクル」

アリスの視界に真っ先に飛び込んできたのは、こちらを見ながら怯えた様子で後退りしていく女性の姿だった。


続いて、辺り一面に浮遊する淡く光る泡のような何かが目に止まり「もしかしてホタル?」とアリスが言うと「ホタルは知らないけど、これは多分ナラティクルだと思う」とアロノンが答えた。実はホタルを見たことがなかったアリスは「私も知らないけど」と言うと、「前は直ぐに分かったけど、今はね」とアロノンが言った。


なるほど、アロノンというかエスカントは、今はライブラリーから切断されているのか、とアリスは思いながら、アロノンが言ったナラティクルについて訊こうとしたが、それよりは先ず、そこにいる彼女に集中しようと意識を切り替えた。


先に入ったカルテカの方が、自分たちよりもずっと彼女の近くにいたので、何か言うかと思っていると、カルテカは両腕を広げながら体をくるっと回して「ばーらばら」と言い放った。


怯えた様子の人物を前にして、それはない、と思わず言いかけたところで、アリスはこの場所の全景を把握し、確かにその通りだと同意した。地面には細い道のようなものがくねくねと伸びていたが、それは直ぐそこで途切れている。更には壁も、床に散乱している本らしきものも、とにかくここにある全てのものが、確かにバラバラだとしか言いようがないほどの荒れようだった。


そんな光景の只中で、一人で怯えている彼女の仕草はどこか古風な印象だった。それはフリルの付いたどこか子供っぽい服装からくるものかとも思いながら、アリスはゆっくりと、努めて笑顔を作りながら、話しかけるにしても大きな声を出さずに済みそうな距離まで、近づいていった。


するとアリスとほぼ似たような距離まで来ていたアロノンが「こんにちは。こちらはアリス。そこにいるのはカルテカ。自分はアロノンです」と先に挨拶を済ませてくれた。


すると彼女が表情を和らげて「ドロシーです」と言った瞬間に、アリスは飛び上がりそうになりながら、なんとか「アリスです」と発話したが、その声の上ずりを隠すことは出来なかった。


そんなアリスに対して「驚かしてしまったみたいで、ごめんなさい」と、むしろ自分よりも冷静なその声音を聞いたアリスは、見た目よりもずっと大人な彼女を見つめながら、恥かしくなってしまっていた。そこで咄嗟に自分も「ごめんなさい」と言いそうになり、慌てて声を押し殺した。


カフェテリアの入場と精算に使った名前と同じ人物に、いきなり遭遇した事で、後ろめたさが先に立ったアリスだったが、この状況でそんな事を言っても混乱させるだけだと、なんとか冷静さを保った。しかし思えば、たまたま同じ名前なだけかも知れないと、自分の緊張をなんとか解いて「あの、どうしてここに?」とドロシーに訊いた。


すると彼女の表情はみるみる曇り、両目は涙ぐみ、しな垂れていきながら「それが」と言って、その場にへたり込んでしまった。アリスは慌てて「いやあの、責めてるとかじゃないですから」と言いかけたが時既に遅く、結局やらかしてしまったらしい自分を含めて、どうすれば良いのかと意気消沈したが、ドロシーは直ぐに、それも息せき切って、俯きながら話し始めた。


「どうしてだか道が分からなくなってしまって。だってそんな筈はなくて、ちゃんとみんなと出会って、冒険して成長して、西の魔女とも話して知恵を得て、私はわたしの物語をしっかり進めて、もう家に帰るところだったのに。また初めの頃に飲み込まれた竜巻に飛ばされて、そしたらここに。」


なんだか話の内容がおかしいとアリスは思いながら「帰り道が分からないのは辛いわね」と一息入れて「何か手伝える?」とドロシーに近づきながら言った。


すると彼女はその顔を上げて「ありがとう」と言いはしたが、改めて辺りを見回しながら「でも、どうにか出来るとは思えないわ。私の物語はバラバラになってしまって」と、そこらに散乱している本らしきものに目をやり、続けて足元を見ながら「この虹の帰り道もこんなで、そこで途切れてしまっている」と言い終わると、またしても泣き出してしまった。


アリスは全てに戸惑いながら、目の前のナラティクルの一つが邪魔だと思えて、それを払おうと左腕で触れた。するとアリスの脳裏に、文字とも映像ともつかない何かが現れ、それはドロシーが銀の靴の踵をコンコンと叩き合わせ、それが合図であるかのように、彼女が軽々と虹を渡っていくという、物語の一つの場面のような光景を見た気がした。


あれ、と思っているとアロノンがアリスの耳元で囁いた。「ナラティクルは物語の断片なんだ。誰かの物語がバラバラになって、それに触れた人の物語に取り込まれる」「え?それだと今わたし、彼女の物語の一部を盗っちゃったの?」「いや、元の人の分が無くなるわけじゃないらしい。でも詳しくは分からない。何しろ僕たちはナラティクルに触れても、何も感じないんだ。知っているのはこれくらい。いつどうして知ったのかも分からないよ」「だとすると、そもそもどうしてバラバラになるのかも知らない?」「そうだね。」


アロノンから聞かされたナラティクルについての話は興味深いものだったが、それを聞いたところで何が分かったという訳でもなく、しかしそれでも、いやそうなると、やはりカフェのチケットが、この事に無関係だとは思えなくなってきたアリスだった。


最悪の場合、自分がチケットを使った時。それともドロシーで精算した時。それが彼女の物語がバラバラになった時だったのかも知れない。でもそうだとして、なぜそんな意地の悪い事をと思い、アリスには怒りがこみ上げて来た。その怒りには、自分も何事かに利用されたのかも知れない、という思いも含まれていたが、そこでふとマザーシップとの経緯を思い返した。カフェテリアとチケットについて教えてくれたのはマザーシップなのだ。


しかしよくよく思えば、マザーシップはチケットが一回きりになったのは知っていたけど、それが二人の名前付きになった事は、知らないんだと思う。だって百年前だし。それにカルテカが集めてるチケットは名前なしでしょ。だから名前付きのチケットは、メタバリアムが閉鎖されてから来たビギナー用だけ。だとすると閉鎖されてからも、誰かが、それとも何かが、ここを改変できているという事。憶測だけどでも、マザーシップに悪意なんかないと、アリスは自分の信じる気持ちに集中した。


そんな数秒の思索の後にアリスはアロノンに「でもそれって物語を見たり読んだりする事と何が違うのかな?」と話しかけた。するとアロノンは再びアリスに近寄って「もしかしたらだけど、見たり読んだりするのとは違って、誰かの物語の一部が、他の誰かの行動の一部になって、つまり物語がシャッフルされて、別の物語になって、それで他の誰かの物語が書き変わるというか」とそこまで話してアロノンは言葉に詰まった。


情報にアクセス出来ないらしいアロノンには、それが精一杯なのだと思ったアリスは「なるほど。シャッフルか」と相槌を打ちながら、説明としては穴だらけだけど、いい線いっているかも知れない、という気がしていた。


モノフォシスの融合。チケットの二名制。ナラティクル、物語の要素分解と新生成。それらに共通する個と全体に関わる何か。それが廃棄されたはずのこの場所、メタバリアムで始められているのか、それとも遠い昔のシミュレーションが単に壊れ続けているというだけなのか。


そんな事に思いを巡らせながらも、それならやがて自分の物語も分解され、辺りにそのナラティクルが漂い出すかも知れないとまでは考えが届いていないアリスだったが、それは自分の事よりも、いよいよ真剣にドロシーをどうにかしてあげられないかと、考えを変えたからでもあった。


ドロシーは泣き疲れた様子で、あれから一言も話をしないままだった。そんな彼女のせめて直ぐ横に座って、余計な事は言わずに居ようとしたところに「どーん!」と言いながら、ドロシーの正面で屈んだカルテカが「これあげる!」と、例のチケットを一枚、ドロシーの顔の前でひらひらと見せびらかした。


アリスは冷や汗が出るような思いで、まさか私のときみたいに、それ直ぐに引っ込めたりしないよね、と気が気ではなく、二人の表情を交互に見ながらドギマギしていると「それなんですか?」とドロシーが口を開いた。


するとアロノンが「カフェテリアに行けるチケットです。そこで好きなだけお茶が飲めます。とても気分が落ち着くところですよ」と言うと、今度はカルテカが「そうそう、天井が開いてて、空が覗けて、探してる虹が見えちゃったりするかもしてて」とそれを聞いたアリスは、それが壊れてるって泣いてるワケじゃん、と焦ったが「頂いていいの?」と素直に言ったドロシーの言葉に、なんだか自分だけ一喜一憂して、疲れがどっときてしまった。


ドロシーはチケットに手を伸ばしたが一度それを止めて「代わりの何かが必要ですか?」とカルテカに言うと「安心安全、足跡チケット!」と言いながら、それをドロシーの右の掌に押し込んだ。しっかりと受取ながら「足跡って?」と訊いたドロシーに、カルテカは「あ」とだけ言って、口止めのサインをして見せた。


やっぱり全然秘密になってないじゃない、とアリスは思いながら、立ち上がろうとするドロシーに手を貸そうと思ったが、自分はまだ座ったままで、代わりにアロノンがドロシーを手伝った。それからアリスも引き上げて、四人して立ち並んだところで「これ、どう使えばいいのですか?」と誰ともなしにドロシーが訊くと「チケットに触れながら、カフェテリアに行きたいと思って下さい。それでほんの数歩進むだけで行けますよ」とアロノンが答えた。


少し間をおいてから、気持ちを決めたドロシーは三人から離れて「ありがとう」と言いながら手を振った。そしてくるりと背中を向けて歩き出したところで、彼女の姿はその場所から綺麗に消えてしまった。


アリスは心でドロシーに別れを告げて、さて、どうして私にはチケットくれないの、とカルテカをからかうつもりで辺りを見た所で、またしてもその当人が、床の大きな本に足を乗せたところで、そのままスーッと吸い込まれて消えていくのを目撃した。


だが今度は前とは違って、言われるまでもなく直ぐにその場所へと駆けて行き、追いついたアロノンと同時に、見た目は開いた本のページの、透けてる壁に足を乗せた。


あとほんの少しで体の全部が向こう側という瞬間に、そこに浮かんでいたナラティクルが一つ、アリスの左の目に入って消え、それでまた一つ、アリスはドロシーの物語を見た。どうという事のない場面だったが、そんなものでも、ドロシーと一緒に旅をした事があるような、そんな気持ちになったアリスだった。

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