場面.9「イカロスの翼」

見た目は本の透けてる壁、というか床を抜けると、そこでアリスはすとんと落ちて着地した。大した高さではなかったが、それでもフラついて、転びそうになったアリスを見ていたカルテカが「椅子があったらね」とアロノンに向きを変えて言った。


「あーそういえば」とアロノンはアリスを見ながら「いつだったかカフェテリアでね。カルテカが空見よう、とか言いながらテーブルに乗って仰向けになったんだ。」


それを聞いたアリスが呆れ顔でカルテカを見ると「それでストン」とカルテカが言った。するとアロノンが「そうそう。そしたら案内係が来てね。テーブルに寝転んでるカルテカをさっと持ち上げて、元の椅子にストンと座らせた。」と言いながら肩を竦めた。


「叱られたでしょうね」とアリスが言うと「いや何も」とアロノン。「あー」とカルテカ。アリスはそんな二人から視線を外して上を見ると、そこに空は無く、明かりはあるが高い天井があるだけだった。そういえば空らしい空が見れたのは、カフェテリアだけだったかもと回想した。


それから辺りを見回して、高い壁で囲まれた迷路みたいな場所だと思ったアリスは「来たところが上になるけど、これだとどうやって戻ればいいの?」と、どちらともなく訊いてみた。


するとアロノンが「大体は戻れない。それともそのまま透けてる壁でも、元の場所へは戻れない」という答えを聞いて、透けてる壁は見えない壁に、そうじゃなくても、どの道片道の壁なのねと理解した。なるほどカルテカがどんどん行こうとするのは、引き返せないと分かってるからだなと思った。


実際カルテカは今も二人の前を行きながら、ときどき壁をつついては「ぷにょ」とか言って、迷路みたいな狭い道を、曲がっては進みしていたが、それが不意に立ち止まると、そこには開けた空間と、ひときわ目を引く機械仕掛けの翼があった。


それに目を奪われて気付くのが遅れたが、その周りでは人物が二人、それぞれ工具を手にしながら、何やら作業をしていたが、こちらには全く気付いていない様子だった。


こういう時は、不意を打つような事はしないほうがいいと、アリスが思案しかけたところで「これなーに!」とカルテカの声が、迷路の壁に反響して響き渡った。


その反響に、金属が地面に落ちたような硬く短い音が加わり、見ると二人のうちの一人が工具を取り落として、こちらを見るその視線と、アリスは目が合ってしまった。これはまずいと後退しかけたところで「これを造っているところだよ」と、落とした工具を拾いながら、その人物が言った。それは老人だった。


それに続いてもう一人が「翼だよ。これで飛ぶんだ」と翼のような機械を指して言ったのは青年だった。それを聞いたカルテカは青年の方に駆け寄りながら「私も飛ぶ!」と言いながら機械に触れようとしたが「だめだよ。これは僕専用だ」と、青年はカルテカを遮った。


そんなカルテカを見ながら老人が言った。「小柄な君は軽そうだから、それはとても良い事だ。しかしその華奢な体つきでは、この翼を背負いきれない。それはとても悪い事だ」と。


それに「だめなの、これだめ?」と言い返したカルテカに青年が言った。「だめじゃないよ。全然だめなんかじゃない。でも君にはだめなんだ」と。


すると老人が「飛べるようには出来上がった。だが重すぎるんだ。背負って飛ぶ前に潰されてしまう。だから改良しているんだよ」と言ったが、カルテカなら食い下がるだろうと見ていると「うー」と言って、意外にあっさり諦めたカルテカが、少し可哀想かなと思ったアリスだったが、ダメなものはだめ。


取り敢えず挨拶をして、相手の名前を訊いてみようかと考えたが、アリスは何となく二人の名前が分かる気がしていた。そこで青年に「飛んでどうするのですか?」と訊くと、「飛ぶのは空です。そして空には太陽があります。だから太陽に向かって飛んでいくのです」と青年の答えを聞いたアリスは、この話を知っていると思った。


ザ・ダークよりずっと昔からあった神話に、この人たちの話があったと、うろ覚えながら記憶していた。だから老人はダイダロス。青年はイカロス。そこでアリスは想像した。いろいろな物語のキャラクターがあちこちで彷徨っている世界。それが今のメタバリアムではないかと。


そんな思索の世界でうろうろしていたアリスの耳に「太陽ってなーに!」というカルテカの声が聞こえてきた。見ると流石に意外だったのか、しばらく思案していた青年だったが、やおら顔を上げると「太陽は多分、七色の虹の塊。とても美しい。だから飛んで、どこまでも近づいて、この目で見てみたいだろ?」と、そこまでは元気だったが、急に暗転して「でも、肝心の空がね」と肩を落とした。


その間、作業を続けていた老人が手を止めて、こちらを見ながら工具で天井を指し示し「ご覧の通り、ここには空が無い。明かりはあるが、空も太陽もない。だから改良が済んだら、次は空を探さなければいけない。それはとても難しい事だ」と、その表情に苦渋は無く、むしろ強い意思があり、老人には全てをやり遂げる決意があるのが読み取れた。しかし青年の表情はというと、不安げで懐疑的でさえあるように見えた。


そんな二人を前にしながら「虹ね」とつぶやいたアリスに「虹といえば」とアロノンが言うと、天井を見上げたままのカルテカがポケットからチケットを取り出して「これあげる」と差し出した。


カルテカはどうか知らないが、アリスとアロノンはつい今しがた別れたばかりの、ドロシーの話を思い出していた。そこでアリスが「これで二人で飛べますか?」と訊くと、老人が「無理ではないが、かなり危ない。しかし二人ならこの重さを支えられるかも知れない」と言った。


それなら私がと、カルテカが言い出すかとアリスは思ったが、カルテカは青年を見て「これでカフェに行く、カフェには空がある」と言い、それを聞いた青年は瞳に輝きを取り戻し、老人はどうすれば行けるのかと訊いた。それを説明したアロノンの言葉を聞き終えた老人は、当然ドロシーの事は知らないハズで「なるほど、それで空が解決するにしても、そこで飛ぶまでは背負うのだから、やはりもう少し軽くしなければ、潰されてしまう」と言いながら、また作業に戻った。


それは確かにそうで、ドロシーと会えたとしても、その問題の解決にはならないとアリスも思った。するとどこからともなく辺りにナラティクルが漂い出し、その一つに触れたアリスには、青年が高く飛び、だが翼が壊れて墜落する様子が見えた。そうだそんな結末だったとアリスは思いながら、それはここでは変わらないのだろうかと、一人で暗い気持ちに落ち込んだ。


でもそれなら、青年の行き先に虹は無かったハズ。だからもうこの人の物語は変わり始めているんだと、アリスは思い直して、いくなら是非ドロシーも連れて行ってねと言いかけて止めにした。どこから話せばいいかと迷ったし、なによりそれはドロシーとこの人が決める事。物語が変わり始めているらしいと思いながら、それが良いことか悪いことか、今のアリスには決められなかった。


チケットを受け取ってお辞儀をした青年に「それ頂戴」と言いながら、何かを指さしているカルテカの視線を追うと、そこに何か小さな部品のようなものがあるのが見えた。すると老人が「それは翼の形を決めるための試作だがね。しかしもう必要ない。形はもう決まっているからね」と、機械の翼をちらりと見てから、その部品を拾い上げカルテカに手渡した。


それは小さな翼の形をしたブローチのように見えた。カルテカはそれを自分の服のあちこちに付けようと悪戦苦闘していたが、それを見た老人が「かしなさい」と言って受け取り、何やら仕掛けを施して、ものの数分でそれをカルテカのニット帽にくっつけた。


流石名工というものねとアリスが思いながら見ていると「軽くて好き」とカルテカは言って、ニット帽の額の辺りに付けられた翼のブローチを擦りながらニコリと笑い、向こうの迷路の続きへと歩き出した。


なんだか小さな兵隊さんみたいね、とアリスは思いながら「カルテカって重いものが嫌いなの?」とアロノンに訊くと「どうだろう。でも確かに宝物はチケットだし、軽いものが好きなのかな」と言った。


アリスは二人にお辞儀をし、ふと、これでカルテカにも変化があった。するとあの子はアロノンが言う通り、エスカントじゃない、何かの物語を持っているのかもと想像した。


アリスは機械の翼を振り返り、逆光になったその姿から、融合機械や時計ウサギを連想してしまい、またあれに出くわすかも知れないと不安になりながら、先を行っていた二人が迷路の高い壁の一部で、透けてる壁を見つけて消えていったのを見て、急いでそこまで走っていった。


イカロスとダイダロスが使う工具の響きを、その背中で聞きながら。

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