場面.2「奇妙な案内人」

固く閉じていた両目をそっと開きながら、アリスは小声で「ここは?」と言ったが返事はなく、元いた廊下と似たような広さの、しかし何かの機械装置が壁面にむき出しになっているような場所にいる事に気が付いた。


次第に体の感覚が戻ってきている。そうは感じながらも、音も匂いも無い世界で、視界だけは鮮明な事を救いと思いながら、周囲に視線を送ったアリスは冷静に、ここは来たことが無い場所だと、改めて認識した。


そこで再び「ここは何?」と発話したが、やはり返事はない。ガイアードと繋がってない場所か、それともわざと応えないのか。


コンソリアンが言っていた「探して」と「ありがとう」の繋がりを考えると、自分が何か分からない事に同意してしまっている気がして、アリスは不安でいっぱいな気持ちになった。


仮想のアトラクションみたいなものに、間違ってエントリーしてしまったのか。でもそれにしては、今まで体験したことが無いような現実感が、今は逆に不気味すぎて足がすくみ、アリスはしばらくその場所でじっとしていたが、いつまで経っても何もこらない事にしびれを切らして、とにかく何かを探してみようと気持ちを切り替えた。


しゃがみ込んでいた床に右手をついて立ち上がり、近くの壁に手を移してバランスを取ろうとしたが、考えなしに触るのは怖いと咄嗟にその手を止めた事で少しふらついたが、それでもなんとか立ち上がったアリスは、廊下の一方、自分が歩いてきた方向を見た。


するとそこは元の場所とはまるで違うものになっていた。


どこまでも続く真っ直ぐな廊下があり、そのずっと遠くの方に小さな光源が見えているが、それが出口なのか、行き止まりなのか、全然分からない。来た道は塞がれているとアリスは思った。


そこでもう一方、チェーンで塞がれていた廊下を見ると、壁は機械仕様に変わっているものの、そこに積み上げられた本の山は無く、チェーンも無かった。


自分が目にしている鮮明だが実感のない世界で、アリスは自分の存在を確かめるように、自分で自分の手の甲に触れてみた。するとそこには、一方が押し、一方が押されているという、自己完結するあの現実感が確かにあった。


そこでアリスはあれこれ想像するよりも、自分の実感に集中しようと決心し、自分の脚の感覚を確かめながら、T字の壁までゆっくりと歩いていき、そこに2つの小さなプレートがあるのを見つけた。


右のプレートには[地下世界]。

左のプレートには[機械世界]。


プレートの前で左右を見ると、どちらも似たような廊下で、すぐ先が階段になっていた。ただし右の地下世界は下り、左の機械世界は上り。


アリスは先ず右の地下世界について考えたが、そこから連想されるものは気味の悪そうなものばかりで、とてもその方向に進む気にはなれなかった。


一方の機械世界はというと、例えそれがコンソリアンみたいな端末だらけだったとしても、そのほうがずっと馴染みがあると思えた。


アリスは決めて、左の機械世界行きらしい上り階段を勢いをつけて駆け上がった。


そこは階下と似たような直線の廊下だったが、右側には部屋があるらしく間口が等間隔に続いていた。


もしもそのどれかから、何かが不意に飛び出して来て、それで自分がひどい目にあったとしても、それはゲームオーバーみたいなもので、それならそれでこの世界から出ることになるのだと高をくくりながら、最初の入口に差し掛かり中に目をやったところで、アリスは飛び退いて反対の壁に背中を打ち付けて固まってしまった。


そこには自分と同じくらいの背丈がある、人の形をしたものが立っていた。だがそれは人ではなく、真っ先にアリスの目に止まったのは、ウサギのような耳と二つの大きな瞳だった。


アリスは壁に張り付いたまま、その正体を確かめようと凝視するうちに冷静さを取り戻し、改めて観察すると、黒を基調とした豪奢なドレス、前時代的な印象の帽子、ウサギのような顔と耳、奇妙な時計や機械的な装飾、と視線を移して、最後に大きな瞳と目が合った所で「率直に言わせていただきますが、随分と不躾なことです」と、突然発話したそれに驚いて目を丸くした。


その声を聞くまでは、アトラクション向けに仕立てられた人形くらいのものだろうと想像していたアリスだったが、それがこちらの視線を認識しているらしい事を悟り、ただ眺めるだけではなく、こちらも何か応答するべきなのだろうと考えを変えたアリスは、それが挨拶もせずにじろじろと見た自分に対する批判だとは気付いたが、なにしろ不意に喋りかけられた事で、すっかり返答のタイミングを逃して黙ったままになってしまった。


そんなアリスを見つめながら暫くして「お見受けするに、ここへ来たばかりのお方という事で、お間違いないでしょうか?」と相手が言った。


アリスは廊下の右側を指差し「今そこの階段から」と言いかけた。だがそれよりも早く、またしても相手が先に言葉を継いだ。「それにしてもです。初対面である者どうしの礼節というものを、貴女は全く持ち合わせていらっしゃらないようです。」


アリスは表情を固くして、その古めかしくわざとらしい言い方に苛立ちながら、何か言い返してやろうと思ったが、またしても自分の思考が、その口を塞いでしまった。


というのも、少なくとも生物とは思えない姿のそれは、街のあちこちでいろいろな役割の為に稼働しているレドロンのようにも見えたが、もしもそうならここは仮想世界ではなく現実なのだろうか。それともやはりここは仮想世界のアトラクションで、レドロンみたいなキャラクターが生成されているというだけだろうか。


アリスは混乱しながら、何か確実なものを見つけようと改めてその姿を観察して、そういえばそれが、アリスの物語に登場するキャラクター達、ウサギ、帽子屋、女王、などをごっちゃにして作られているのではないかと思い、それならそれはやはり、アトラクションの一部でしかなく、ここは自分が知らない高度な仮想世界なのだと考えたほうが理屈に合うと推察した。


それならそれで楽しむことにしようと、アリスは「はじめまして。それに御免なさい。何かのハイブリッドさん」と相手に言った。それが人で無いなら、そんな言い方も気にする事はないと、アリスは強気になって返答をまった。


すると相手は思案するような仕草を見せて間をおいてから、アリスに再び視線を戻して「なるほど。つまり貴女は私を、ウサギ、帽子屋、女王の複合体だと考えた分けですね。違いますか?」


それを聞いたアリスは、相手がコンソリアンやレドロンと同じように人と同等の会話が出来る事を知って、それほどの性能を仮想世界で実現できるものがあるとすれば、それはメタバリアムくらいしかないだろうと想像した。しかしそれは百年以上前に閉鎖されたシステムであり、まさか自分は今、そんなメタバリアムの中に入り込んでしまっているのだろうかと考えて驚愕した。


それでふと思い出した事は、元の廊下の先、そのチェーンの向こうにあった[メタバリアム資料室:準備中]の立て看板だった。


メタバリアムは解体され閉鎖された後、今では一部の上級研究者しか扱う権限が無く、システムというよりは、ただの歴史的遺構だというのが一般的な認識だ。


それがまだ稼働可能で、どういう理由でか自分がそこにインタラクトしているというのが今の状況なのだろうかと、アリスは考えを巡らせたが、発話してもコンソリアンは応答せず、このまま相手の会話に付き合うしかないのだと諦めて「ご明察よ。時計ウサギさん」と言うと、相手は「いいでしょう、アリス様。それではご案内いたします。私に付いて来てください」と言った。


時計ウサギが教えていない自分の名前を言った事には、もう驚かないとアリスは思った。IDを読み出せるのだ。そしてそうなら、ここのシステムは現実と大差ない、つまりは危ない事もないとアリスは考えて「どこへ連れていってくださるの?」と言うと「すぐそこの部屋で御座います」と相手が続けた。


アリスが頷くと時計ウサギは歩き出し、アリスの横を「失礼いたします」と会釈して通り過ぎて、廊下を右へと進んでいった。


アリスがその後をついて行くと、廊下にある何も無い部屋の間口をいくつか通り過ぎたところで、時計ウサギは立ち止まり、そこでアリスに向き直り、左腕を軽く上げて案内のポーズをとった。


今度はアリスが、立ち止まっている時計ウサギの横を「失礼します」と会釈しながら通り過ぎ部屋に入ると、そこは今までとは違う広い部屋で、中央には何に使うのか見当もつかない、自分の背よりも高い機械装置があり、中心部が微かに発光しているのが目に止まった。


「あれは何?」と立ち止まりながら、出口を演出する機械装置なのだろうと思いついて「あれが出口?」とアリスが言い直すと「あれは融合機械です」と時計ウサギが返答した。


アリスは苛立ち「つまり出口でしょ?」と語気を強めると「お言葉ですがアリス様。あれは出口ではなく、そのような例えを使うなら、むしろ入口です。それからアリス様。わたくしは時計ウサギではなく、モノフォシスです」と相手は抑揚なく言いながら、その装置に近づくようアリスを促した。


そうね。外への出口はここからしたら、外への入口という話だよねと、アリスは都合よく解釈する事にして、ゆっくりと中央の機械装置へと近づいていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る