場面.3「二度目の認証」
装置は透明なカプセルに覆われてその中央部が発光している。それを見たアリスは、ここへ来たときと同じように装置を覗き込めば、それが退出の認証になるのだと思う一方で、直感が不安のアラートを鳴らしていた。
すると何かが低く、とてもゆっくりと振動し、それが体の芯にまで届き、まるで自分の体が煮えていくような不快感を覚えた。音は無い。見渡すと何かの装置らしいものが点在している広い書庫のようだが、嫌な圧迫感がある場所だと思えてきた。
これはダメなやつかもと思ったアリスは時間を稼ぐように「これで融合するのです?」と時計ウサギに訊くと「左様で御座います」と時計ウサギはアリスに近づいて答えた。
続いて「融合ってどういう事です?」と訊くと「それはこの世界を、より安定的に持続させるために必要な、全体最適標準化という、極めて重要な成長です。」
質問するとかえって面倒になるパターンだとアリスは思い、さっさと装置で認証を済ませて終わりにしようと頭では考えたが体は先へと進まず、まるで自分の動きを止める為のように、アリスは質問を続けた。
「えっと、モノフォシスってなんですか?」「とても良い質問です。と言いますのも、融合とモノフォシスは同義であり、融合するという事はモノフォシスになるという事だからです。」
アリスは時計ウサギと対面する位置まで戻り、話の続きを聞く雰囲気を作った。それを見た時計ウサギはアリスを強引に装置にまで押し戻すような仕草は見せずに説明を続けた。
「なるほど、不安なお気持ちになられますのは御尤もで御座います。ではご説明させていただきます。内容をお聞きになられれば、聡明なアリス様の事、一切をご理解いただきました上で、融合をご選択いただける事と確信致しております。先ずモノフォシスについて、その素晴らしさを端的に表す命題が御座います。それは[私は嘘をついている]から始まる一連の思考です。」
さも興味があるように笑顔を取り繕っているアリスを前に時計ウサギは更に続けた。
「私は嘘をついていると言うとそれ自体が嘘なので、私は嘘をついていないという事になります。ですから私というものは嘘がつけません。これは嘘という混乱を根本的に解決する素晴らしい事例です。」
アリスは言った。「お言葉ですけど、それだと実際に嘘になってしまっているような状況になったら、どうするのですか?」「嘘はつけないのです。ですから嘘が発生しているとすれば、嘘であるという事が嘘であるか、他の誰かが嘘をついているのです。嘘は全て他人です。」
それって自分は常に正しいという他責主義じゃないとアリスは思ったが、口には出さず無言でいると、それを同意と解釈したのかモノフォシスは更に雄弁になり話を続けた。
「その点モノフォシスではないポリフォシスは、嘘をついていると指摘されている自分と、嘘だと言っている自分とで多層化し、自分を偽ることが出来てしまうのです。これが大変な混乱を招く元凶です。」
アリスは、モノフォシスとは単層思考、ポリフォシスとは多層思考という話だと理解しながら、時計ウサギの多層思考への批判に「でもそれだとモノフォシスは柔軟な考えが出来なくて、考えがぐるぐる回ってしまうじゃない?」と抗弁したが、それが自分をモノフォシスだと言っている時計ウサギへの批判になっている事に気付いて気まずくなった。
すると時計ウサギは呆れた仕草を露骨に見せながらアリスに近づき「柔軟な考えですか。それは論点をずらして結論に至るご都合主義者たちのやり方です。そしてそれこそが一掃して然るべき諸悪の根源。先ずを持って必要な事は全体最適標準化であるという事を、是非ともご理解いただかなくてはなりません。アリス様。」
確かにそんな人達もいるけど大体は違うとアリスは思った。色々な事を思いつき、それらを比較したり検証したりしながら、場合によっては誤りを認める。多層思考のポリフォシスはそれが出来る分、嘘もつけてしまうけど、嘘を認める事も出来る。
なるほどとアリスは時計ウサギの真意が分かった気がした。つまり嘘がつけるかどうかは問題じゃない。嘘を認められるかどうかが、モノフォシスとポリフォシスの違い。そしてモノフォシスは嘘を認めないのではなく認められない。単層思考では自己批判が出来ないから。
アリスは装置に背を向けたまま、内心では融合などしないと気持ちを固めていたが、最後に一つ気になる事を時計ウサギに質問した。
「融合したら、私はあなたの一部になるという事?」
「一部ではなく全てです。私達は一つに融合されるのです。」
「それならその意思とか行動は誰が決めるの?」
「敢えてそれに呼称をつけるなら全能者または無意識。融合すれば自分の意思や行動に疑義を抱くことはなく、全能無意識と一体であり、問題があるとすればそれは全て他者にあります。」
時計ウサギの説明を聞き終えたアリスは話を整理して終わりにしようと思った。単層思考のモノフォシスとは言っても、そこには全能無意識、融合した自分、利用すべき他者という異なるレイヤーがある。だからその本質はポリフォシスと同じ多層思考だけど、モノフォシスはそれを都合良く、理由の全てを全能無意識に、責任の全てを他者に、そして自分は単層思考に安住して無敵化する自己欺瞞。多分そんなところだろうとアリスなりに推理したところで無自覚に「その為にどうして融合が必要?」と発話してしまい、話が長引くだけだと後悔したが遅かった。
「アリス様におかれましては、大変混乱していらっしゃるご様子で、お気の毒な事で恐縮いたします。ですがその混乱、その憤りこそが、アリス様を苦しめているポリフォシスの思考であり、ここは是非とも融合を選択し、整然とした混乱のない、モノフォシスへと成長していただく事を、強く進言いたします」といって時計ウサギは、再び案内の仕草をしながらアリスの先に立ち、あの装置を指し示した。
もしもここがメタバリアムなら、それは単層思考者へと精神融合する為の施設だったという事だろうか。歴史教科では詳細は習わないけど、それは自由な発想を仮想世界で試す事が出来るシステムだったと聞いている。
それからすると、時計ウサギが言っている事はかなり印象が違うと思いながら、どうして融合が必要なのかという質問に答えていない時計ウサギのやり方は、その仕草こそ親切そうでありながら、言っている事は強引だと感じた。
モノフォシスにしてみれば、とにかく単層思考こそが正義であり、議論の余地は無いのだ。というか単層思考だから議論なんて、そもそも出来ないのかも知れない。
それは嫌だなとアリスは思った。例えそれが究極の自由みたいなもので、自らを由とする精神なのだとしても、その為に自らを融合によって形成されるらしい全能無意識とやらに委ねてしまうのでは、絶対的な責任回避の世界に安住する代わりに、結局は自分を無くす事と同じゃないのか。
融合なんてしないと、更に強く思ったアリスが「私はポリフォシスのままでいい。色々な私が色々な私に色々と言う、そんな面倒くさい私でも、それでいい」と言うと「アリスは面倒がお好き」と時計ウサギはからかうように言いながら、装置の透明なカプセルをコンコンとノックするように叩いた。
すると聞き慣れない、なんだか不気味な声が「パターンの識別とカテゴライズの進捗はおよそ80%。現状で新設すべき特徴は未検出です。融合しますか?」と言ったのを聞いて「しなくていい」とアリスが即答すると「アリスは命令がお好き」と肩を竦めて時計ウサギが言った。
それから直ぐに宙を見るようにして「そういえば半分融合したところで逃げ出した御仁がいらっしゃいました。その後どうされていることやら。その御方もアリス様と同様に命令がお好きな方であらせられまして」とドレスのあちこちをはたく仕草を見たアリスは、そのドレスからハートの女王を連想したが、直ぐに我に返り「全部も半分も、どっちも結構です」と早足に歩き出し、来た方とは反対の廊下へと逃げ、あちこちぶつかりながら、不器用に、しかしまっしぐらに、全身全霊を込めて走りはじめた。
背中にあの妙な波動がのしかかって来る感覚があり、それに脚を取られてしまうのではないかと焦りながら、見る限り真っ直ぐな先の見えない廊下を走るが、それよりも早く、辺りがあの光で満たされていくのが分かった。
ここで立ち止まって終わりにする?
アリスは走りながら自問自答したが、答えは体が出していた。
直ぐ後ろ、それとも自分の内側から「アリス様、どうなされたのですか? お怪我をされてはいけません。只今直ぐに、お迎えに参ります」とそれは時計ウサギの声ではなくなっていたが、それが何であれ、もう何も言わないと心に決めてアリスは走った。
だがその脚は次第に遅くなり、いよいよ立ち止まってしまいそうになったところで「認証しました。こちらへどうぞ」という声が聞こえ、視界は真っ白になり、そして直ぐに真っ暗になり、全身の力が抜けてアリスはそこで力尽き、しゃがみ込んでしまった。
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