場面.5「走れアリス」

装置は透明なカプセルに覆われてその中央部が発光している。それを見たアリスは、ここへ来たときと同じように、装置を覗き込めば、それがエンディングの認証になるのだと思う一方で、直感が不安のアラートを鳴らし立ち止まった。


すると何かが低く、とてもゆっくりと振動し、それが体の芯にまで届き、まるで自分の体が煮えていくような不快感を覚えた。音は無い。見渡すと部屋には何かの装置らしいものが点在し、広い書庫のようだが圧迫感のある、嫌な感じのする場所だと思えてきた。


これはダメなやつかも、と思いながら時間を稼ぐようにアリスは振り向き、時計ウサギに言った。「シングルってなんですか? これで融合するのです?」


時計ウサギは案内の仕草を止めて、入口からアリスに近づきながら言った。「2つ目のご質問の答えは、左様で御座います。」


一問一答が原則なのね、とアリスは考え、1つ目の質問への回答を待つつもりだったが、口は次の質問を始めてしまっていた。「融合ってどういう事です?」


「それはこの世界を、より安定的に持続させるために必要な、全体最適標準化という、極めて重要な成長です。」


質問すると、かえって面倒になるパターンだとアリスは思い、いっその事、さっさと装置で認証を済ませて終わりにしようと頭では考えたが、体は先へと進まなかった。


まるで自分の動きを止める事が目的であるかのように、またしても言葉がアリスの口を開いた。「えっと、シングルってなんですか?」


無表情だが、しっかりとアリスを捉えていると分かるその目を数回まばたきさせて、シングルが言った。「シングルとは、シングリアンの略称で御座います。」


「詳しく教えて頂けますか?」「とても良い質問かと思われます。と言いますのも、融合とシングリアンになる事は、同義だからです。」


なんだか面倒が一つ無くなった気がして妙にほっとしたアリスは、シングルに対面する位置まで戻り、話の続きを聞く雰囲気を作った。


シングルはその意味が分かるのか、アリスを強引に装置にまで押し戻すような仕草は見せずに、喋り始めた。


「なるほど、不安なお気持ちになられますのは御尤もで御座います。ではご説明させていただきます。内容をお聞きになられれば、聡明なアリス様の事、一切をご理解いたきました上で、融合をご選択いただける事と確信致しております。


先ずシングリアンについて、その素晴らしさを端的に表す命題が御座います。それは「私は嘘をついている」から始まる一連の思考実験です。」


アリスはまたしても、これはダメなやつだと思いながら、この状況をどうしようかと考え始めつつ、さも興味があるように笑顔を取り繕った。


シングリアンは続けた。「私は嘘をついている。と言うと、私は嘘をついているので、私は嘘をついていないという事になりますから、結果として、私というものは嘘がつけないのです。これは嘘という混乱を根本的に解決する素晴らしさを、端的に表す事例です。」


アリスは言った。「お言葉ですけど、それだと実際に嘘になってしまっているような状況になったら、どうするのですか?」


「嘘はつけないのです。ですから嘘が発生しているとすれば、嘘であるという事が嘘であるか、他の誰かが嘘をついているのです。私あるいは自分は嘘をつけないのですから、嘘は全て他人です。」


それって自分は常に正しく嘘つきは全て他人だという他責主義じゃない!とアリスは妙な汗をかき始めて抗弁しようと思ったが、もしかしたらこれは、倫理教科の採点プログラムかなにかなのかと訝しみ声に出さなかった。無言のアリスを見て、それを同意と解釈したのか、シングリアンは更に雄弁になりこう続けた。


「その点マルチニアンは、嘘をついていると指摘されている私と、嘘だと言っている私とで謂わば多層化し、自分を偽ることが出来てしまうのです。これは大変な混乱を招く元凶です。」


アリスは倫理教科の学習を思い出しながら抗弁してみた。なぜならこれに同意すると結果は減点だと思ったからだ。「でもそれだと柔軟な考えが出来なくて、考えがぐるぐる回ってしまうじゃない?」


「柔軟な考えですか?」とシングリアンは、おやおやといった仕草を露骨に見せて、アリスに詰め寄るように近づいて言った。「それは水平思考というものです。論点をずらし、都合の良い結論を出して悦に入る、誠に自墜落な者共のやり方であり、それこそが、一掃して然るべき、諸悪の根源。絶対的に必要な事は、先ずを持って、全体最適標準化であるという事を、是非ともご理解いただかなくてはなりません。アリス様。」


それを言うなら、確かにそんな人達もいるけど、大体は垂直思考が出来て、突飛な考えを思いつきながら、それらを比較したり検証したりして、道筋が見えるように考える事ができる、とアリスは高飛車に反論しそうになったが、気持ちを抑えて冷静に言い返した。


「でもマルチニアンだかは、縦糸と横糸で出来る上がる面で考えられるけど、あなたはそれを1点にしなければダメだと言っているみたいだけど。」と言ってから、今度は自分が話をややこしくしている気がして、気落ちしながら、一方で自分はシングルじゃないし、シングルになんてなりたくないと強く思った。


すると時計ウサギは言った。「アリス様におかれましては、大変混乱していらっしゃるご様子で、お気の毒な事で恐縮いたします。ですがその混乱、その憤りこそが、アリス様を苦しめているマルチニアンの思考であり、ここは是非とも融合を選択し、整然とした混乱のない、シングリアンへと成長したいただきたく事を、強く進言いたします。」といって時計ウサギは、再び案内の仕草をしながらアリスの先に立ち、あの装置を指し示した。


アリスは立ち止まったまま言った。「最後にもう1つお尋ねするわ。融合したら、私はあなたの一部になるの?」


「一部という言い方は全く持って不適切で御座います。私達はここで全てになるのです。1つに融合され、嘘がないが故に間違いはなく、間違いがあるとすれば、間違いが間違いであるか、他の全てが間違いであり、例えて申し上げるなら、神や教理といったものと一体であり、ですからシングルの言動は全て正しく、そこに自分という蒙昧は存在し得ないのです。それは雑音のない、整然として美しい静寂の世界なのですよ。」


長々とした時計ウサギの確信に満ちたセリフを聞き終わるが早いか、アリスは無自覚に拳を握り締めながら、早口にまくしたてた。「私はマルチニアンのままでいい。色々な私が色々な私に色々と言う、そんな面倒くさい私でも、それでいい。私は今この瞬間から、面倒くさいのが好きになったわ」と。


時計ウサギが言った蒙昧という言葉が、まるで自分に向けられていて、自分が愚かで混乱していて、それを嘘で誤魔化して生きていくような人間だと見下されたようで腹がたったからだった。


そんなアリスに「アリスは面倒がお好き」と時計ウサギはからかうように言いながら、装置の透明なカプセルをコンコンと、ノックするように叩いた。すると聞き慣れない、なんだか沢山の声が不気味に同期して発話しているような声が聞こえてきた。


「パターンの識別とカテゴライズの進捗はおよそ50%と推測。現状で新設すべき特徴は未検出です。融合しますか?」


アリスは即答した「しなくていい!」


「アリスは命令がお好き」と言いながら時計ウサギは、動きを止めてこう続けた。


「そういえば思い出しました。半分融合したところで逃げ出した御仁がいらっしゃいました。その後どうされていることやら。その御方もアリス様と同様に命令がお好きな方であらせられまして。そんな命令好きなお方が、この場にお二人もいらしたら、私も流石に難儀したかと、そんな事で思い出した次第で御座います。」と言いながら、時計ウサギがドレスのあちこちをはたく仕草を見て、それってもしかしてハートの女王の事かと連想した。


そんなアリスの思考は冷静を保っていたが、鼓動は早鐘を打っていた。半分ってどういう事?と口に出そうとしたが、出てきた言葉は全く別のそれだった。


「全部も半分も、どっちも嫌!」と言うが早いかアリスは部屋の入口へと駆け出し、来た方とは反対の廊下へと逃げ、あちこちぶつかりながら、不器用に、しかしまっしぐらに、全身全霊を込めて走り出した。


背中にあの妙な波動がのしかかって来る感覚があり、それに脚を取られてしまうのではないかと焦りながら、見る限り真っ直ぐな先の見えない廊下を走るが、それよりも早く、辺りがあの光で満たされていくのが分かった。


ここで立ち止まって終わりにする?アリスは走りながら自問自答したが、答えは、納得できない、だった。


直ぐ後ろ、それとも自分の内側から「アリス様、どうなされたのですか? お怪我をされてはいけません。只今直ぐに、お迎えに参ります。」とその声は、時計ウサギの声ではなかった。アリスはそれがシングリアンの声なのだと思い、もう何も言わないと心に決めて走ったが、その足取りは実際のところ早足程度にまで、弱ってしまっていた。


すると「認証しました。こちらへどうぞ。」という声とともに、視界は真っ白になり、そして直ぐに真っ暗になり、がくりと力が抜けて、走っているという実感を失っている自分に気がついた。


アリスは、どうすればいいか分からなくなっている他の誰かに声掛けするような気持ちで「やっぱこれダメなやつだ」と独りで言った。

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