SF小説 【機械の中のアリス】
古之誰香
場面.1「ようこそアリス」
明るい曇り空の午後。人通りの少ない旧市街で一人、二十一歳になったばかりのアリスは次の予定までの時間を持て余していた。
それは大量印刷を可能にした輪転機という、旧時代の数少ない遺物を使った実体験カリキュラムだが、そもそもそんなものに興味がないアリスにしてみれば、早い時間から教室に陣取る気にはまるでなれず、とにかくどこかで暇を潰そうと思っていた。
実機がある教室は馴染のない地区にあり、知り合いとの合流もままならず、仕方無しに辺りの情報を当たってみると、近くに何かの資料館がある事を知った。
それもまた、たいして興味をそそられるものでもなかったが、屋外をただぶらぶらするよりはマシかと思い、アリスはそれを探して適当に歩き回ると、それは意外にも直ぐに見つかった。
古びた外観の建物がその区画には似つかわしくない大きさで、メイン通りを曲がったところに建っていた。
建物の規模とは不釣り合いな狭い入口を見つけてその前に立つと、そこには[書籍文化資料館:入館出来ます]という点描プレートがあり、希少化した本にまつわる様々な展示があるらしい事が分かった。
幾人かの出入りはあるが行列になっているわけでもないのを見て、アリスは入館してみる事にした。
狭い間口を抜けて入ると短い廊下があり、その左右には天井まである本棚と詰め込まれた本があるが、よく見るとレプリカらしく[いにしえの本棚]という点描プレートを見つけたアリスは、なるほど本棚というものの雰囲気を実物大で展示してるのかと少し感心した。
明暗のある照明と、廊下の前後から差し込む明かりが作り出している雰囲気が心地よく、適度な雑音と空気の流れに触れながら、もっと早く来ればよかったかな、と自分でも意外に思ったアリスだった。
廊下を抜けてゆっくりと歩きながら幾つかの展示室を通り過ぎたところで、ガラステーブルの展示台が並ぶ広い部屋に出たアリスはテーブルを巡り、一つの展示台の前で足を止めた。
そのガラスケースの中には、手作りの手帳のような本が、左に表紙、右に見開きで内容が展示されていた。点描プレートを見ると[不思議の国のアリス / 初稿直筆本の複製]とある。あーこれか、とアリスは思った。自分と同じ名前の本。なんだかあまり読む気になれず、それでもなんとなく知っていた本。
ガラスの隅あたりに手をかざすとUIが浮かび上がり、皮下に埋め込まれたインプラントから、コンソリアンの中性的な声が聞こえてきた。「こんにちは、アリス。ガイダンスを聞きますか?」
「短く簡単に」と発話しながら、ガラスの上で右から左に手を振ると、その下にある本のページがめくられていくアニメーションが表示され、次々と別のページが現れる。手帳のような本の無地の面に高精細な画像が投影され、あたかもそれが印刷物のように見える仕掛けだった。
文字は手書きの古い書体で、幾つかのページには同じく手書きの挿絵があり、それは作中のキャラクターや物語の場面、どことなく古めかしい機械的な世界といった、良く言えば説明的でない、悪く言えばチグハグな印象で、どんな物語なのかと興味をもったアリスは、ガラスケースの隅に表示されているUIから [短縮版を聞く] という項目を選び、近くの一人がけの椅子に移動して腰掛け、コンソリアンの声に耳を傾けた。
それをどれくらい聞いただろうか。短縮版のせいか内容が支離滅裂で、ちっとも頭に入ってこないと思ったアリスは、眠気と怠さを振り払うように「停止」と言って立ち上がった。
ガイダンスが説明していた、ナンセンス小説の古典的名作、のナンセンスとは現実味が無いという意味で、それなら確かにそうかもと思いながら、他に何か面白い仕掛けの展示でも探してみようと、アリスはその部屋を後にした。
先には次々と続く狭い部屋があり、それぞれテーマを絞った展示があったが、アリスはそのどれにも惹かれず、やがて殺風景で迷路のような廊下を独りで彷徨っている気持ちになった。
ここはそもそも資料館として建てられたものじゃなく、かなり古い建物を改装したのだろうと、まとまりの無い順路で迷子になりかけている気がしてきたアリスが引き返そうとした廊下の先は、本が雑然と積まれたT字路で、その手前に[メタバリアム資料室:準備中]の立て看板があり、立入禁止のチェーンが渡されていた。
メタバリアムとは百年以上前に閉鎖された仮想システムである事は知られているが、その実態は一部の上級研究員くらいしか知らないだろう。もしもその資料室が閲覧出来るなら、少しは見て回りたいと興味を持ったアリスだったが、立入禁止を無視して進みたいと思うほどには強い気持ちではなかった。
そこで来た道を戻ろうと体を右回りに捻ったところで、レンズ付きのコンソリアンらしき端末が、壁に埋め込まれているのが目に止まった。
セキュリティーかなと思いながらも、装置の古めかしさが珍しく少し近づいて「何これ?」と小声で言うと、装置はやはりコンソリアン端末であるらしく、いつもの中性的な声で「こんにちは、アリス」と発話してきた。
立入禁止の警告を受けると思い「ごめんなさい。でも私、この先へは行きません」と言うと「いいえ、あなたなら、この先へ行くことが出来ます」と返答され思わず目を丸くしたが、何かの間違いだと思い直して立ち去ろうとした。
するとコンソリアンは通話をインプラントに切り替えて「行かないで下さい。アリス」と語りかけて来たが、アリスは無視して、静かな廊下を来た方向へと歩き始めたが、その間も「状況認知は良好です。心理傾向、動態連動ともに問題ありません。あなたに探して欲しいものがあります。行かないで下さい」と言葉で追われ、アリスは苛々しながら「何かきっと間違えてます。私はここのスタッフじゃありません」と、それは多分この先の資料室から指定の本を探すような話だと考えながら早口で言った。
するとコンソリアンから「再認証します。もっと近づいて下さい」と言われ、それで誤認が解決するのだろうと、アリスは端末に近づき、左目でレンズを覗き込んだ。
普通は虹彩を見せる為にここまで近づく必要はないし、いかにもレンズといった部品も無い。古すぎて壊れかけているのだと思いながら端末の応答を待つと、レンズ部分が数回激しく発光し、アリスは咄嗟に両目を強く閉じた。
「フラッシュ?」と言いかけたのと同時に、全身が怠くなり体から力が抜けて、そのままとんでもない勢いで落下していく感覚に包まれ、どうすればいいのか分からなくなってしまったアリスの耳に、それが発話なのかインプラントの通話なのか判然としない妙な距離感を伴いながら、コンソリアンの中性的な声が聞こえてきた。
「ありがとう。そして、ようこそアリス」と。
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