第2話 失格の後
輪廻転生したらフジツボやタニシになってるかもしれない。
輪廻転生を信じる宗教においては人間に生まれたら、人間を維持するか輪廻の輪から外れて神や仏になるか、世界の抑止力として同じく輪の外に召し上がられるしかないのだ。
前回、人類史上存在し得ないが無意識の集合体が求める「完璧な人間」以外は全て人間失格だと提示した。失格したらどうなるのかが、今回のテーマである。
日本に根付く普遍的仏教観によれば、仏の仲間入り(極楽浄土への成仏≒解脱)をしない場合、死後三途の川の向こう側にいくと閻魔大王達による審判を受けて、天道から地獄道までの6つの道に割り振られ、それぞれの道で来世を待つ。
キリスト教観によれば一般的に死後はキリスト再臨と最後の審判によるものであり、基本的に生は一度きり、最後の審判の救いは自分そのものの復活であり、何者にも輪廻はしないものである。
どちらにしても裁くのは神や仏の類であって、人間でもなければ自分でもないのである。
全ては神が決める事、我々は生前、数え切れぬほどの善行を積んで審判の日に備えろ。だが不安に怯えることはない。昆布真理教を信じれば審判を経ずとも天国でグルタミン酸を浴びるほど享受できる。なんて言った日には新手の宗教の出来上がりだ。それはいけない。
しかし宗教を信じようと信じまいと「死後の世界」を夢想しない人はいない。無意識に「天国」「地獄」という言葉を使う。キリスト教にまつわる作品を世に送り出した太宰治は入水の際にどう思ったのであろうか。それは本人にしかわからない。
太宰治なら失格だろうとなんだろうと、閻魔だかえんどう豆だか知らないがそんなやつアッと言わせて天国に行き死後の世界をエンジョイしてやるぜという「太い」奴かもしれない。
失格だろうと合格だろうと一つだけ変わらない条件がある。死という現実は誰にも等しく訪れる。やってくる時期は千差万別、生まれて5秒、ギネスに認定される大往生、どちらも同じ死である。これは良い人だから長生きするわけでもなければ、失格だから短命というわけではない。自ら命を断つ場合を除いたら、基本的に死神がやってくるのを待つ受け身だ。
長々と語ってきたが、まとめる気があるのか、私もよくわかってない。だが、これだけは言える。どんな生き方をしても死ぬ、絶対。
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