行先
糸屋いと
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教師という仕事を選んだことに意味など無かった。代替案さえ見つかってしまえばいつでも捨てられるモノに過ぎなかった。
ただ、無為の内に過ぎた4年間の大学生活において、夢や目標と言ったものは見つからず、やりたい事というのも何もなかっただけだ。私にとって、大学生としての時間は社会人になるまでの猶予期間に過ぎなかった。
卒業を迎える頃には、親に言われるがままに取らされていた教職課程だけが手元に残っていた。それでも、教師以外の選択を取ることが出来なかったわけではないが、それをする活力や気力というのが私にはなかった。日々の中で、私はただ残された猶予が確実に目減りしていくことにだけ憂鬱を覚えていた。
本当は何者にもなりたくなどは無かった。自分は何者にも成れるのだと、そんな風に無垢な幻想を抱けるのは子供の特権であって、大人になるにつれて夢は見れなくなるものなのだろう。親の期待や周囲の視線だったり、錆びれた現実や世間体だったり。そういうモノを見ていると、夢などを見ている暇はなくなっていく。
しかし、それは私に限った事では無かった。大学に通う人間というのは一部の例外を除いて、皆同じ顔をしていた。それぞれのやり方で猶予期間を過ごし、一様に現実に頭を抱えていた。誰一人として同じ道を歩んでいるわけではないが、誰もが同じ方向に向かって歩んでいる。それは、実に不気味な行進のようだった。
しかし、それは歪ではなかったのだ。足並みをそろえて、みなが同じ場所を目指す様は不気味であっても確かに列をなした行進だった。私には、誰もがその行進に安心を覚えているように見えた。例え、その長蛇の列が深い谷底に向かっているとしてもだ。
教師という仕事は存外悪いモノでも無かった。最低限の世間体が守られ、労働の対価としてはふさわしい程度の給与も入る。熱心に仕事に打ち込んで、生徒のためにはサービス精神を厭わず奉仕する。そんなモットーを掲げて仕事をするのであれば割に合わない職業だが、生憎と私はそのようなタイプではなかった。
生徒との関わり合いは授業と部活動の最低限にとどめ、過干渉にならないように、常に生徒と先生という一線を引いていた。傍から見れば不愛想に生徒たちと接した。
私とは真逆のタイプの教師と比べられて、つまらない先生だ。と陰口を言われていることも知っていたが、全く気にならなかった。むしろ、その評価は適切であると正面から受け止めることが出来た。
私は生徒たちを大きく褒めるようなこともしなければ、強く叱るようなこともしなかった。故に、好かれることも無ければ嫌われることも無かった。生徒たちにとって、私は数いる内の先生の一人に過ぎなかっただろう。
代わりにという訳ではないが、私は授業には手を抜かなかった。授業ごとにパターンの違うレジュメを用意し、授業の前夜にはベッドの中で授業のシミュレーションを行った。
一分の遅刻もなく、定刻のチャイムと同時に号令をかけさせ、一秒の超過もなく定刻のチャイムと同時に教室を出るようにしていた。私の腕時計は、短針と長針のみならず秒針に至るまで、学校のチャイムに合わせてセットされていた。ある意味では、私は最も学校という時間軸に縛られていたとも言える。
教師になって5年目の事である。私は初めて、3年生のクラス担任を受け持つことになった。高校3年にもなると、大抵の生徒は大人に近しい落ち着きを持ち始める。
中学生の持つ気性の荒々しさや、雄々しさというのが鳴りを潜め、内に秘められた若々しさと精悍さは、彼らの目に表れていた。彼らがエネルギーを内に秘める術を身に着けていったのかもしれないし、教育という過程が彼らから膨大なエネルギーを奪い取ったのかもしれない。そのいずれであるのかは、私にはどうとでも良い事であった。
また、彼らの変化は精神と肉体の成熟過程における第二次成長期が緩やかに終わりを迎え始めていたからかもしれないし、あるいは受験や進路選択という、彼らの置かれた状況がそうさせているのかもしれなかった。しかし、それもどちらでも構わない事であった。彼らが私に関心を持つことが無いように、私も彼らに深く感心を持つことは無かった。
私としては今までより幾分も楽に仕事が出来た。それだけが紛れもない事実であり、重要な事だった。授業中に私語をするような生徒は減り、非行や危険な遊びに手を出すような生徒も少なくなった。仮にそのような生徒がいても、「受験に影響するかもしれないぞ」と一言告げるだけで、彼らはたちまちおとなしくなった。放課後には大抵の生徒が塾へと通うので、時間外のサービス対応に追われるようなことも無かった。
存外、私は教師という仕事に向いているのかもしれないと思い始めたのも、ちょうどこの時期であった。
その年の夏、同い年の同僚の一人が退職した。彼は私とは正反対のまさしく絵にかいたような熱血教師であった。生徒からは大層好かれ、生徒の為ならば自分の時間と労力を惜しみなくつかい、放課後だろうと休日だろうと、何かあればどこへでも飛んで行き、一時間も二時間も説教をしては、彼らと心から分かり合おうとする、そんな男だった。
私は彼のような教師になりたいと憧れるようなことは無かったが、その仕事ぶりには密かに敬意を抱いていた。自分には出来ないことをこなす人間を貶める程、私は残念な人間ではなかった。あるいは、そこまで彼に興味を抱くことが出来ていなかったのかもしれない。
私と彼とは特別に仲が良いわけではなかった。しかし、私は彼の頬が次第にこけていって、目の下のクマが濃くなっていくのに気が付いていた。職員室という閉鎖的な空間で、それに気づいていたのは私だけでは無かったのかもしれない。きっと、あの場にいた誰もが、彼の悲鳴にも似た異変に気が付いていたはずだった。
「お前はよく頑張っているよ。いつも、お前の仕事ぶりには元気をもらっている。お前には敬意を表するよ。影ながら、応援している」
もしも、そんな言葉を一度でもかけることができていたら、何か変わっていたのだろうか。彼が退職届を提出したという話を聞いてから何度かそんなことを思ってはみたが、全ては後の祭りだった。結局、私は何の言葉もかけることもできないまま、彼は静かに学校を去っていった。
後から聞いた話では、彼はこの5年間で体重が10キロ近く減っていたとのことだった。しばらくは、職員室は彼の話題で持ち切りだったが、75日も経たない内に、誰もが彼の事など忘れてしまったかのように、口に出さなくなった。
それはなにも教職員の間だけでなく生徒たちも同様であった。一時は所々であがっていた彼の退職を惜しむ声も、いつの間にかいつもの喧騒に打って変わっていた。
彼が心血を注いだ時間も、温度も。もう、どこにも残ってはいないのだろうか。
季節の移り変わりを待たずして、彼の存在がこの学校から失われていくことに、私はなぜだか抱えきれないほどの哀しさを覚えた。
彼の抜けた穴は同じ担当教科の先生たち数人による持ち回りで埋められた。しばらくの間それが続き、その数人の先生たちから愚痴が零れ始めてもなお、新しい人員が補充される兆しはなかった。私は、自分にしわ寄せが来ない分にはまるっきり他人事だった。
学校に限らずどこも人材不足なのだろう。そう考えては誰を責めることもせず、自分の仕事に専念した。
それからまた少しばかりの期間が空いて、ようやく新しい教員が入ってきた。主張の強い香水が鼻につき、年齢と反比例しているような厚化粧が不自然に見える、30手前の女性教員だった。
話によると、教員免許を取得してはいるが実務経験は一切なく、産後の社会復帰の場として学校という場所を選んだとのことだった。即戦力になりそうにもない。むしろ、混乱を引き起こすのではないかと、私は懸念した。
案の定、彼女は一週間と経たない内に理想と現実の間に存在する果てしないギャップに打ちのめされたようだった。余裕が失われたのか、次第に主張の強い香水の香りはしなくなり、艶がかっていた髪には枝毛が目立つようになった。目に見えて余裕を失っていく様が歪を作り、それが周囲にも伝播していった。しかし、何も大袈裟な。地獄で働いているわけじゃあるまいし、と私は内心で思っていた。
彼女のフォローと教育に時間をかける分、他の教員たちは余計にあわただしく駆け回るようになった。誰からも余裕がなくなっていき、彼女と担当教科を共にする先生たちのグループには殺伐とした雰囲気が流れるようになった。
罵詈雑言が飛び交うようなことは無かったが、職員室内に沁みついた陰鬱な空気が晴れることも無かった。
高い理想を持つから、ただの現実に落胆してしまうのだ。現実はいつも低い所にあるわけではない、いつでもちょうど真ん中に位置している。自分の理想の位置をそこに合わせれば、その差異に打ちひしがれることは無くなるのにと、私は彼女を眺めながら思った。
長くは持たないだろうな。と私は対岸の火事でも眺めるような気分だった。
夏が終わり、少しばかりの肌寒さと落葉が秋の訪れを微かに報せる頃だった。私の受け持つクラスに転校生が来た。彼女は高嵜美晴といった。
3年生の秋と言えば、受験や進路選択を目と鼻の先に控え、クラスの雰囲気も緊張感に包まれ、まるで何者かの意思が働いているかのように固くなる時期である。3年生の生徒にとっては人生を左右しかねない時期であり、それは高嵜にとっても例外ではなかった。
しかし、私は彼女の進路うんぬん以上に彼女がクラスに馴染めるかが不安であった。また、珍しい時期の転校生にクラスが浮足立ってしまわないかが不安だった。
それは何も、彼女自身やクラスを心配しているのではなく、彼女がクラスに馴染めないことで私の仕事が増えるのではないか。クラスが浮足立つことで、余計な仕事が増えるのではないか。彼女へのケアが、新しい仕事として降りかかるのではないかという類の不安だった。私は彼女の転校を通して、常に私自身を見ていた。
高嵜が正式に転校してくる前に、一度、来賓客を招く応接室で彼女と面談する機会があった。学校の案内や紹介、彼女が学習している授業範囲の確認なども含めての事だった。
応接室には艶がかった檜のテーブルを挟んで、上質な革張りのソファーが対称の位置に置かれていた。それ以外の余計な装飾もなく、殺風景にも思えた。
高嵜は非常に優秀な学生であった。話や資料によると、転校してくる前は進学校の特進クラスに在籍していたらしく、当校の二歩三歩先の学習範囲を完璧に理解していた。
私は胸のつかえが一つとれたような心地だった。少なくとも、勉学面において彼女を心配するようなことは何一つなかった。しかし、その優秀さが仇となり、彼女がクラスに馴染むことを阻害するのではないかという懸念もあった。
彼女の優秀さには安堵しながら、私は先生らしく一つ尋ねた。
「何か、この学校でやっていく上で心配なことや不安な事はあるかな?」
彼女はしばらく考えるような仕草を見せた。顎に手を置いて黙り込む姿は、まるで絵画の様だった。私は、瞬きも忘れてその姿に見入っていた。
やがて、彼女は肉食動物のような鋭い視線を私に向けたかと思うと、重々しく口を開いた。
「先生には、分からないです」
その“先生”という響きには明らかに嫌悪、あるいは敵対心が混じっているように思えた。彼女の言葉は私に向けられていたというよりも、先生という虚像に対して向けられているという感じがした。それはちょうど、私が彼女に対してではなく、生徒に対して言葉を投げかけたのと似ていた。
彼女は依然として強い目を私に向けていた。そのまま、私の事を射殺すつもりなのではないかと思ってしまう程に、鋭い目つきだった。その目をじっと見つめ返してみても、彼女が何を考えているのかはまるで分からなかった。そこに何らかの意思があることは分かるのに、その意思が想像もつかなかった。それは、動物の目を見ているのに近い感覚だった。
長い間その目に見つめられていると、私の浅はかな思考が全て気取られているのではないかというような気がしてきて、思わず目を逸らした。
「…そうか。私には分からないか」
そう答えながら、私は逸らした目線を再び戻すことが出来なかった。私の教師としての在り方だけでなく、生き方そのものを咎められているような感覚があった。
背筋を登るような寒気が合って、全身の毛が逆立つようだった。私の身体は小さく震えていた。それを誤魔化すように、拳を強く握り込んだ。
いくつも年下の女の子に対して、私は目を合わせるのが怖いと思った。畏怖したのだ。
「先生は、私が怖いですか?」
平静を乱した私に向かって、きわめて冷静な声で高嵜は尋ねてきた。その声は確かに正面の彼女が発した音であるはずなのに、首の後ろの辺りから突き上げるように鼓膜に響いた。
「私には、君がどんな人間で、何のためにそんなことを聞いてくるのかがまるで分からない。…誰だって、自分が理解できないモノと正面から対峙するのは怖いさ」
私は自分でも驚くほどに素直に返答した。体裁よく飾り付けた言葉では、彼女の目を誤魔化し切れないと直感していた。
「その気になれば、私の事なんてどうとでも出来るでしょう。先生は大人で、私は子供で。先生は先生で、私は生徒なんだから。それでも、私の事が恐ろしいですか?」
「仮に君の言う通りだとしても。それが出来るというのと、するというのでは天と地ほどの開きがある」
「そう、その通りですね。でも、先生はそれが出来るというのが、私にとっては紛れもない事実であることには変わりありません」
高嵜は強く断定するように言った。私は小さく頷いて見せた後で、口を開いた。
「ただ、やはり私には君が何を言いたいのかが、何をしたいのかがまるで分からない」
「先生。それはある意味では正しいのかもしれません。私はきっと何も言いたくはないし、何もしたくないのだから」
「なら、私はもう何も聞かないし、言わない方がいいのだろうね」
「えぇ。きっと、それがいいでしょう」
彼女は鋭い目つきをふわりと緩ませて、笑顔を浮かべた。しかし、それは分類すれば笑顔に振り分けられる表情というだけであって、私には到底笑っているようには見えなかった。むしろ、彼女の内側で蠢く何かが、歪な形となって張り付いているようにも思えた。
「それでは、先生。さようなら。今後とも、よろしくお願いいたします」
そんな言葉を残して、高嵜は応接室を後にした。彼女が後ろ手でドアを締め切ったのを確認してから、更に一呼吸分だけ間を空けて、私は大きく息を吐いた。革張りのソファーには、まだ彼女の重みが形として残っていた。
彼女の表情や言葉、仕草の一つに至るまでが私の中に強く痕を残していた。
秋の暮れ、あるいは冬が半分ばかり顔を見せているような肌寒い日の事であった。一週間前からその日にかけて、私のクラスでは進路面談が行われていた。
進路面談と言っても、今更、志望校を大きく変えるような生徒はおらず、それは形式的な確認作業のようなものだった。志望校と個人の学力を照らし合わせて、私は一言か二言だけ、激励の言葉を投げかける。どこのクラスも同じようにやっている、慣習的なイベントだった。
学生というのは十人十色で、身の丈に合わない志望校を志す者もいれば、当人の学力からは幾分か格落ちして見える志望校を目指す者もいた。
それぞれの選択に、それぞれの思惑や内情がある。そして、それを知る必要は無かった。私に出来るのはその選択の是非を決める事では無く、その選択の後押しをして、サポートをすることだけだった。
ふと、教室の時計を見上げた。一つ前の面談が早く終わったこともあり、次の面談まで少しの時間があった。ただ、次で最後かと思うとほんの少し達成感があった。最後の生徒は高嵜だった。
彼女の進路調査票を取り出しながら、私は深く椅子に腰かけたままで窓の外を眺めた。薄い雲の隙間から、落陽の淡い光が零れ落ちている。橙色に染まる校舎と黒い影と交互に視線を移ろわせた。締め切った窓の向こうから、硝子を割る勢いで運動部の掛け声が聞こえる。
私は、なぜか夏に退職した彼の言葉を思い出していた。
「彼らはまだ子供だから、選択を誤ることもある。その時に、その責任を取ってあげるのが、大人であり、先生である私たちの仕事ではないのか」
それは確か、万引きで処分を受けそうになった生徒を擁護し、庇った時の台詞だった。
彼の大きな声が職員室中に響き渡って、室内にいた先生は一斉にそちらを振り向いていた。
彼は、学年主任や教頭に対しても一切物怖じせず、いつも屹然とした態度をとっていた。
私は、その時の光景を昨日の出来事のように鮮明に思い出すことが出来た。
「しかし、子供から責任を取り上げ続けていては、いつまでも彼らは大人にはなれないよ」
私は沈む太陽に向かって小さく呟いた。独り言を零すような柄ではなかったが、目の奥に浮かぶ彼の背中に向かって、無性にそう言ってやりたかった。取り上げた責任はどこへ行くのか。それに自分が潰されてしまっては、元も子もないではないか。
私のような放任主義の教育は、生徒の自主性を重んじると言えば聞こえはいい。
だがしかし、それは教師としての無責任と、職務放棄と何が違うのか。その線引きはどこで引けばよいのか。それが私には分からなかった。高嵜の事を考えていると、無性にそんなことばかりが頭を過った。そして、彼もそんな事を考えていたのかもしれないと思うと、とてもやりきれない気がした。
予定の時刻から5分程遅れて、教室のドアが開く音がした。高嵜はゆっくりとした足取りで敷居を跨いで、一言、遅刻を謝罪すると、私の対面の座席に腰を下ろした。
高嵜は私の杞憂に反して、上手くクラスに馴染んでいた。休み時間にクラスメイトと談笑している姿を見かけることもあったし、数人グループで連れ添って廊下を歩く姿を見かけることもあった。その度に、私はひそやかな安堵を浮かべていた。
「どうだろう。学校にはもう慣れただろうか?」
私は彼女の視線から逃げるように資料に目を落としながら、そう尋ねた。
「そうですね。学校にはもう慣れました」
「そうか、それは良かったよ」
「はい。それは良かったですね」
「何か、問題はないか?」
「何も、問題はありません」
高嵜は私の言葉に対して、オウム返しにも聞こえる返事を繰り返した。初めて会話した時よりも、幾分か受け答えの口調が柔らかくなったかのようにも思えた。ただ、与えられた言葉に対して、決められたレスポンスを繰り返すプログラムのようで、不気味だった。
「…それで。本題の進路の事なんだが」
そう言いながら、私は恐る恐る一枚の紙を机上に置いた。高嵜の進路調査票には、名前以外に一切の書き込みが無かった。高嵜は一瞬、机上に視線を落とした。しかし、その空白を目の前にしても、高嵜が動じる様子はなかった。それどころか、すぐに視線を上げて、真っすぐと私を見つめてきた。
「書き忘れでは無いよな?」
「はい。書き忘れではありません」
そう答えられては、私には返す言葉が浮かばなかった。高嵜が何を思って白紙で提出したのか。その意図が私には計りかねた。
「とにかく、この紙は一度返すからな。一週間以内にもう一度提出してくれ」
私は押し出すようにして、机上の紙を彼女の前に差し出した。高嵜はその紙を黙って数秒見つめたかと思うと、二つ折りにして学生鞄の中にしまい込んだ。
「また白紙で提出しても、同じことの繰り返しになるからな。それは、高嵜も面倒だろう」
「はい。それは面倒ですね」
高嵜は学生鞄を肩にかけながら、ゆっくりと席を立ちあがった。用件は終わり、これ以上の会話は不要と判断したのだろう。それには私も同意だった。
高嵜は、まだ何か用件がありますか。と尋ねるように私の目を見た。私には、もう一度彼女を椅子に座らせて、長々と何かを諭すような気はまるでなかった。例え、彼女の横柄にも思える態度に事情があるとしても、私がそれに踏み込んでよい理由にはならない。そしてそれが、高嵜を良い方向に導くとも限らないのだ。であれば、私にできるのは観察という名の現状維持に努める事だけだった。
「高嵜がちゃんと書いてきてくれるのなら、次の面談は無しでもいい」
教室を出ていく彼女の背中に対して、私はそう言った。高嵜は何も答えなかった。
どうしてか、彼女の背中が夏に退職した彼の背中と重なって見えた。少しばかり丸まって、何かに押しつぶされてしまいそうな小さな背中だ。
私は頭を大きく左右に振った。そんなのは思い過ごしだと強く考えを振り払った。
翌日、高嵜から二度目の進路調査票が提出された。授業の終わりに、提出を忘れていたプリントを渡すように自然に手渡された。
そこには空白の代わりに県内でも有数の難関大の名前が書かれていた。難関大ではあったが、それは高嵜の学力からすれば堅実で妥当ともいえる選択だった。第二、第三希望にも県内あるいは隣県の大学名が書かれていた。第一希望には劣るモノの、それらの大学も難関の部類に入る大学だった。進路調査票に優劣をつけるようなモノではないが、あえて言えば、高嵜の進路調査票は優秀な部類に分類された。
私は彼女がまともな回答を記載してくれたことに安心した。内心では、また白紙で提出されるのではないかと不安だった。
同時に、私にはますます彼女の事が分からなくなった。
一度目の白紙提出には、私は教師に対する敵対心や当てつけのような意図が含まれているのではないかと考えていた。それを思春期や若気の至りという言葉で片づけてしまうのは簡単だが、実のところは、そうではないのではないかというような気もしていた。
もしかすると、私は彼女が再び白紙で提出すると予測して、それを願っていたのではないか。どこか期待すらしていたのではないか。そんな風にすら考えた。
第一希望欄に難関大の名前を見つけた時、安心と共に拍子抜けするような感覚があった。私は、自身の感覚をゆっくりと思い出そうとした。
そう簡単に引き下がってしまえるならば、なぜ最初からそうしなかったのか。なぜ、一度目は白紙で提出したのか。
注意を受けたから行動を改めた。と考えるのが最も自然ではあるが、私には高嵜がそれをしないだろうという確信があった。彼女のことなどまともに知り得てはいないのに、どうしてか彼女の全てを知っているかのように、そう思った。
「先生、それで構いませんか?」
そう尋ねてくる高嵜の声で、私は長い思考から現実に引き戻された。不躾な私の思考が咎められたかのようにも思えた。
「…あぁ、大丈夫。問題ないよ」
私が慌て気味にそう答えると、高嵜は悠然と一礼して踵を返した。顔を上げた一瞬、彼女の表情はやけに哀しく見えた。それは本当に一瞬の事で、見間違いであるのか精査するような暇も無かった。私は、ただぼんやりと彼女の背中を見送った。
進路調査票に目を落とすと、そこには私の望んだ回答があった。これで余計な手間を取られることも無く、クラス全員の進路面談を終えたと学年主任に報告ができる。
私は肩の力を抜いて、鼻から大きく息を漏らした。
すべての事は上手く運ばれている。私が面倒を被るようなことは何もない。まさしく、私が願った通りに事は進んでいる。順風満帆ではないか。何も問題はないはずだ。
全ては私の思うままであるはずなのに、どうしてか違和感が拭えなかった。
私の手にあるのは、高嵜の手によって書かれた調査票に間違いはない。高嵜が私に手渡した調査票で間違いはない。
では、それは高嵜の意思で書かれたモノだっただろうか。高嵜の手によって書かれたが、高嵜の意思のままに書かれたモノだっただろうか。
白紙で提出するな。という私の一言が、高嵜の意思に反する力を加えてしまったのではないか。一線を引いて過干渉を避けると言いながら、私は彼女の意思決定に大きく干渉してしまったのではないか。
ほとんど妄想に等しい考えだった。そんな考えがシャボン玉のようにゆっくりと膨らんだ。大小を問わず、幾つもの泡が私の脳内を埋めつくしていった。高嵜が優秀な生徒だというのは、私の中の彼女の話ではないか。高嵜が優秀な生徒としての振る舞いを見せることで、私は得をする。では、彼女はどうだったろうか。私は、いつの間にか彼女にそれを強いていたのではないか。私だけではない、彼女を取り巻く環境や目線の全てがそうだったのではないか。打とすれば、白紙での提出は、彼女の悲鳴だったのではないか。
「お前は責任ではなく、彼女から選択を取り上げるのだな」
頭の中でそう声がした。それは私の声だった。その声を合図にしたかのように、頭の中を飽和していたシャボン玉が一気に弾けた。
私の考えすぎかもしれない。しかし、どれほど考えを巡らせても、終ぞ私はその声を否定することが出来なかった。
その日は休日だったが、いつもよりも一時間以上も早く目が覚めた。二度寝をしようにも、頭は既に冴えてしまっていて、沸々と湧き出してくるエネルギーが私をベッドから起き上がらせた。冷えたフローリングの上を歩いてキッチンへと向かう。冷蔵庫から安物の紙パックコーヒーを取り出す。小さなマグカップにそれをなみなみと注いで、零さないようにゆっくりと口をつけた。豊かな風味はなく、苦みだけが口の中に広がった。
食パンでも口に入れて不味いコーヒーの味を誤魔化そうと考え、、トースターの取っ手に手をかけた所で食パンを切らしていることに気が付いた。マグカップには依然として、なみなみとコーヒーが注がれている。冷蔵庫を開いてみても、朝食の代わりになるようなモノは何もなかった。
私はもう一口コーヒーを飲んで、まだ半分以上残っているそれをシンクへと流した。
朝食を摂らなくても死にはしないし、忙しい朝はトーストを焼く暇すら惜しんで、コーヒー一杯で済ますこともある。しかし、その日は空腹という程ではないが、とにかく腹に何かを入れたかった。幸い、部活動も休みで特に予定も無かった。
その衝動に突き動かされるように踵を返して、洗面台に向かった。洗面台で一度口をゆすいだ。リビングに戻ってクローゼットを開き、部屋着の上からコートを羽織って、最低限の荷物だけをポケットに入れて、私は部屋を出た。
散歩を兼ねて、最寄りから離れたコンビニまで適当に歩くことにした。道中の遊歩道には枯れ木が目立ち、朝日を遮るものは建物を除いて何もなかった。吸い込んだ空気の冷たさが鼻腔を麻痺させるようで、足元から立ち上ってくるような冷気に身が震えた。
それでも、しばらく歩いていると身体は少しずつ温かくなってくる。身体が温まってくると、おのずと足取りも軽やかになった。犬を散歩させる老人や、スポーツウエアに身を包んだ中年の夫婦、慌ただしく言葉を交わし合いながら自転車で駆けてゆく学生たち。
そんな人たちとすれ違い、追い越し、追い越されながら、私は自分のペースを崩すことなく歩いた。
気が付いた時には、私は30分近くも歩いていた。大通りを避けて住宅街や小道を抜けながら歩いたこともあってか、車の音も少なく長閑な道中だった。
散歩が軽い運動になったこともあって、先ほどよりも空腹感が増していた。私は大通りに出てから家へと引き返すことにした。
大通りを歩き始めてから5分としない内に、やけに駐車場の広いコンビニを見つけた。広い駐車場が用意されている割には、車はまばらにしかとまっていなかった。私はその店舗で朝食を買うことにした。
私はそこで偶然にも運命的な出会いをした。私が自動ドアを通り抜けると、入店を報せる音が鳴った。店内には私以外に数える程しか客はいなかった。
おにぎりが陳列された棚の前で中腰になり、商品補充に勤しんでいた店員が、入店の音に気づいてこちらを振り返った。
「いらっしゃいませー」
店員は笑顔を浮かべながら両目で確かに私の姿を捉えて、朗らかな声で言った。それは何千回と繰り返されてきた動作なのだろうか、随分と慣れている様子だが好印象だった。
私はその男の顔に見覚えがあった。コンビニのロゴと同じ色の制服に身を包み、おにぎりを一つ一つ丁寧に陳列していたのは、夏に退職した同僚である彼だった。
私が彼に気づいた瞬間に、彼も私に気づいたようだった。
私はどのような態度をとるべきか迷った。元同僚として、何か特別な言葉をかけるべきか。あるいはただのコンビニ店員として、会釈を返す程度に留めるべきか。
その二択は、干渉すべきか、不干渉であるべきかという問いに似ているように思えた。
「やぁ、懐かしいな。久しぶり」
私が言葉に詰まっていると、彼の方から口を開いた。彼は懐かしい旧友と出会ったかのように、自然な挨拶をした。
「あぁ、久しいね」
反射的に私からも自然な返事が出た。彼とは本当に旧友で、数年ぶりにこうして顔を合わせているような気がした。不思議な感覚だった。
「今日は部活動も休みかい?」
「あぁ、そうだよ。君は?」
「僕は夜勤明けで、あと30分もしたら退勤だよ」
彼はちらりと腕時計に目をやった。その時計にも見覚えがあった。彼が教師だった時からつけていたモノだ。
「じゃあ、この後は暇かい。もし何も予定がないのなら、朝食に誘っていいかな?」
私がそう告げると、彼は一瞬驚いたような顔を見せた。しかし、おそらく彼よりも私の方が驚いていた。私は、あまりにも自然に誘いの言葉を口にしていた。
私の心臓は高鳴っていた。どうしてそんな言葉が口をついて出てしまったのかという戸惑いと、彼がどう答えるのかという不安が入り混じっていた。
「もちろん。もう少し待ってもらうことになるけど、それでも構わないなら」
彼がそう答えると、鼓動はゆっくりと落ち着きを取り戻し始めた。
「あぁ、構わないよ。私は外で待ってる」
そう言って私は何も買わずにコンビニを後にした。
灰皿に群がる喫煙者たちから距離をとって、入り口から少し離れた所で彼を待った。私は何かのキャンペーンの暖簾がかかったコンビニの入口を注視して待っていたが、彼は裏口の方から回ってきた。背中には紺色のリュックを背負い、シルバーの自転車を押していた。
「すまない、私は歩いてきてしまった」
私は彼の自転車を眺めながら言った。彼は、何も問題はないという風に首を振ってみせた。
「構わないよ。なんなら、二人乗りでもしていくかい?」
今度は私が大きく首を振った。私の反応を見て、彼は学生のように朗らかに笑った。
「いや、悪かった。冗談だよ。万が一、生徒に見られたりでもしたら大変だ」
「そうだね。君は二人乗りを注意していた側だった」
「あぁ。そうだったね。なんだか、もう懐かしいな」
他愛のない会話を交わしながら、私たちは大通りを連れ添って歩いた。朝の早い時間帯という事もあって、多くの店は開店時間を迎えていなかった。
結局、私たちはチェーンの喫茶店に入ることにした。私はコーヒーとモーニングのセットを頼み、彼は私と同じセットに追加でミニサラダとスープをつけた。
先にコーヒーが二杯運ばれてきて、愛想の良い店員が会釈をして去っていった。私は立ち上る湯気を眺めながら、彼に聞きたい幾つかの事を頭の中で整理していた。
どのように切り出すべきだろうかと、一言目に悩んでいると彼の方から口を開いた。
「今はフリーターみたいな事をしながら、新しい仕事を探してるんだ。あのコンビニも、アルバイト先の一つでね。他にも、家庭教師なんかをやったりもしてる」
私は何と返答するべきか分からず、曖昧な相槌を打った。
「まだ先生だった頃は、遊ぶ暇もないくらい忙しなく働いてたもんだから。幸いなんとか生活できるくらいの貯金があって助かったよ」
「確かに、君は働きすぎだった。私の知っている範囲ですらそうだった」
私はコーヒーに口をつけた。コーヒーは紙パックのモノよりも何倍も美味かった。口内で風味を楽しみ、嚥下すると熱い液体がゆっくりと喉を流れていくのが分かった。
私がコーヒーの風味を楽しんでいる間、彼は何度もコーヒーカップに息を吹きかけては、唇の先の方だけを液体に触れさせて、カップをソーサーに戻していた。
「極度の猫舌なんだ。そのせいで、淹れたてのコーヒーや、あついお茶がほとんど飲めない」
彼は恥ずかし気にそう言って、またカップに息を吹きかけた。
「そうか。知らなかった。同じ場所で働いていたというのに、私は君の事をまるで知らないんだな。よほど、閉鎖的に生きていたんだろう」
その自嘲に、彼は困った顔を浮かべるようなことも無く笑ってくれた。
「僕だって、君の事をそんなに知っているわけじゃない。もちろん、君だけじゃない。他の先生のことだって、そんなに多くは知らないさ」
「それでも、君はあの学校で僕よりもうまくやっていた。他の先生たちとも、生徒たちとも」
私がそう言うと、彼は少し難しい顔をした。眉を寄せて何かを考え込むようにして、何度も息を吹きかけたコーヒーに、ようやく口をつけた。
「思うに、それは君が見ていた僕でしかない。本当にうまくやれていたなら、辞める事なんてなかったさ」
「君が見ていた僕?」
私は彼の言葉を繰り返した。
「君には僕が良い先生に見えていたのかもしれないけれど。万人にとってそうだったとは限らないさ。少なくとも、僕にとってはそうじゃなかった瞬間があった」
彼の言っていることは部分的に理解できるような気がした。しかし、その本質は彼自身にしか理解できない事だとも思った。
「悪いことを聞いたかな」
「いや、気にしないでくれ。確かに僕は学校を辞めてしまったけれど、あそこで過ごしていた日々を悔やんでいるというようなことは無いんだ」
彼が答えた。
ならば、どうしてやめてしまったのか、とそんな問いを投げかけるような勇気は私にはなかった。しかし、それを悟ったかのように彼は答えた。
「今でも、先生という仕事を嫌いになんてなったりはしてないよ。ただほんの少しだけ、歩調が合わなくなっただけなんだ。心や思いが行こうとする場所に、身体が追い付かなくなってしまったんだろうなぁ。どうにか追いつこう、追いつこうと必死になるほどに、ドツボにハマってしまった。余所見もせずに走り続けてきたから、ついには息が切れたんだ。きっと、ただ頑張るという事だけが、うまくやるという事では無いんだろうな」
彼は少し寂しそうに言った。古い思い出を話しているような口調だった。
「そうか。君は今、人生の休暇中なんだな」
私がそう言うと、彼は声をあげて笑った。
「今は人生の休暇中か。いいな、その表現は」
彼があまりに無邪気に喜ぶので、私は自分の発言が少し照れくさくなった。そんな私を他所に、彼は言葉を続けた。
「僕はもう少しだけゆっくりするつもりだよ。息を整えて、身体を休めて、あったかいコーヒーでも飲んで。また走り出せそうになったら、走り出す。そうして、一体どこに行くかは分からないけれどね」
彼はコーヒーカップを掲げながら、清々しい顔をしていた。その顔には、いつか見たこけた頬も、目の下のクマもどこにもなかった。
行き先の無い人間が浮かべるような暗い表情ではなく、焦燥感も無かった。
「あぁ、それが良い。…もっと早く、こうして君と話をすればよかったな」
そう返して、私は幾つかの言葉を飲み込んだ。代わりに、腹の底に沈んでいた言葉を引っ張り上げだ。
「君はよく頑張っていた。いつも、君の仕事ぶりには元気をもらっていた。君には敬意を表するよ。君の行く先を、私も影ながら応援している」
私は当時の記憶を辿るように、ゆっくりと言葉にした。言葉は思っていたよりも簡単に、大きな川の流れのように出てくれた。塞き止められていただけで、川はずっと私の中で流れ続けていたのだと分かった。
「あの時言えればよかった。私は遅かった」
私はそう言葉を加えて、カップの中に広がる小さな水面に目を落とした。彼の顔を見るのが怖かった。黒い水面から目を移すことが出来なかった。
「それでも、こうして伝えてくれた。ずっと、覚えててくれていたんだろう。その言葉を抱えて、気にかけていてくれたんだろう。それだけで充分さ。ありがとう」
彼がそう答えた時、私は自分の感情を上手く捉えかねた。私の知る言葉で表現するには足りず、経験のない心地に包まれた。何か大切だった失くしものをようやく見つけた時のような、あえて言葉にすればそんな気分だった。
まるでずっとタイミングを見計らっていたかのように、私たちの会話が途切れると店員が軽食やスープを運んできた。店員の手によって、幾つかの皿が私たちの前に並べ終えられると彼が口を開いた。
「もし、それでも君が遅かったと後悔してしまうのであれば、次は気をつければいい。後悔は先には立たないが、きっと後には役に立つ。もし、それで失敗してしまっても、人生は案外どうにでもなるものだ。それは、僕が保障するよ」
そう言うと彼は静かに手を合わせ、軽食のサンドイッチに手を伸ばした。私は何か返事をするわけでもなく、彼に倣って手を合わせた。
週が明けて、私は多くの人に高嵜の話を尋ね始めた。彼女について、私が知らない幾つかの事を知るべきだと、あるいは知ろうとしても良いのだと思うようになった。
多くの人は私の質問に快く答えてくれた。口々に語られる高嵜の像には一貫性が無かった。彼女は真面目で優秀な生徒だ。温厚で大人しい性格だ。というような回答が返ってくることもあれば、寡黙で陰気な性格だ。愛想が悪く反抗的な一面が伺える。何を考えているのか分からない。特に印象はない、というような回答が返ってくることもあった。彼女がどんな人間であるのかという問いに対して、明確な答えをくれる者は一人も無かった。幾つかの客観性を用いて、それを積み木のように積み上げても、高嵜という人間を形成することなど出来はしないのだ。彼女、というよりは人間だれしも、客観性の集合体ではない。
私は初めて高嵜と話した日の事を思い出した。あの日の高嵜に抱いた恐怖は、まだ私の中に根付いていた。ただ、私が彼女の何を恐れていたのかというのは、どうにもうまく思い出せなかった。
彼女について幾つかの噂話も耳にしたが、それが真実であるのか作り話であるのかは分からなかった。他人の話す彼女の像は常に靄がかかっていて、上手く頭に浮かばなかった。
語られるのは、個々人が思い描く彼女の虚像に過ぎないのかもしれないと思った。
彼女を知ろうとするほどに、彼女について何も知らないという事だけが分かるようだった。彼女に対して好印象を語る者がいれば、悪印象を零す者もいる。すべての言葉を真に受けると、まるで高嵜という人間が何人もいるかのようだった。
ある生徒から、高嵜が放課後はよく図書室にいるという話を聞いた。私はその話を聞いた日の放課後に、図書室に足を運んだ。
室内を一周ぐるりと回ってみると、図書室には幾人かの生徒がいたが、そこに高嵜の姿は無かった。私はカウンターに向かい、司書の先生と話をすることにした。
話によると、高嵜は確かに、放課後によく顔を見せるという事だった。いつも一人で来て、隅っこの席に座って、長い間本を読んでいる。そして、閉館時間になると本を借りるようなことも無く、速やかに帰っていく。
「彼女はどんな生徒に見えましたか?」
私がそう尋ねると、司書は首をかしげた。
「それは、司書教諭の私なんかよりも、担任であるあなたの方がよくお分かりでしょう?」
そう言われては、返す言葉もなく、私はうなだれた。暗に、生徒との交流の少なさや対応の淡白さを指摘された気がした。
「司書教諭という仕事をやっていると、生徒からいろんな質問を受けることがあります。例えば、おすすめの本を教えてくれとか。でも、それはまだ答えやすいんです。私が一番難しいと思うのは、面白い本を教えてくれと聞かれた時です」
司書は突然にそう語り出した。私には何が何だか分からなかった。ただ、黙って話を聞くことしかできなかった。
「私にとって面白いものが、他の誰かにとっても面白いモノであるとは限りません。確かに、本の評価は客観的な意見の集合によって決定するとも言えます。なんらかの賞というのも、そう言うモノです。しかし、それが全てではないのです。全く同じ内容であるにも関わらず、読み手によって本は変化するものですから。少し、難しい話に聞こえるかもしれません。訳の分からない話に聞こえるかもしれません。つまりは、一冊の本が誰にとっても同じ一冊ではないという事です。だからこそ、本というモノは面白いのだと、私は思いますが。そして、本と人間とはよく似ているとも、私は思います」
私は多くの本を読むような人間ではなかった。学術的な専門が文学とは正反対にあった事もそうだが、活字に対しての苦手意識もあった。そのせいか、彼女の言っていることというのがぼんやりとしか読み取れず、正しく理解できているのか分からなかった。
「では、私はどうすればその本について知ることが出来るのでしょう?」
私の問いを聞くや否や、司書は呆れたように笑った。
「簡単なことです。その本が面白いのかどうか。あなたがそれを知るには、あなたがその本を読んでみるしかありません。誰かの評価に耳を傾けている内は、貴方はその本を読んですらいないのですから」
そう言うと司書は鞄の中から一冊の文庫本を取り出し、私に差し出した。私は反射的に本を受け取った。書店のブックカバーに包まれた本は、彼女の私物のようだった。
「私が、面白いと思う本のひとつです。あなたにお貸しします」
司書はそう言うと、カウンターの上に置かれたホワイトボードを指さした。そこには、本の返却期限が記載されていた。
「はい。期限内に必ずお返しします」
私はそう答えて図書室を後にした。
司書が貸してくれたのは手のひらサイズの文庫本だった。私はそれを読む前にブックカバーを丁寧に取り外して、装丁を確認した。表題にも作家の名前にも覚えは無かった。
本は幾つかの短編が収録された短編集のようで、そのうちの一つが表題と同じ作品の様だった。私は幾つかの作品を飛ばして、本の中途にある表題作から読み始めた。20ページ程度の短い物語で、読むのに30分と時間はかからなかった。
それから、生活の中に空き時間を見つけては、別の短編も読み進めた。すべての短編を読み終えると、私はもう一度表題作を読み直した。
今度は時間をかけて、言葉の一つ一つを確かめていくようにゆっくりと読み進めた。分からない単語や言い回しがあれば調べもした。そうして、二度目の表題作を読み終えるのには、一時間以上の時間がかかった。
私には文学的表現の巧拙は全くもって分からなかった。それどころか、二度読んでも作者の意図すら分からなかった。面白いか否かという判定を下すには、知識と読書経験が圧倒的に足りていなかった。そういった意味では、私はその本をあまり楽しめなかった。
しかし、本を通して見えてくることもあった。私は司書の言葉を思い出していた。
「つまりは、一冊の本が誰にとっても同じ一冊ではないという事です。だからこそ、本というモノは面白いのだと、私は思いますが。そして、本と人間とはよく似ているとも、私は思います」
箱を空けなければ箱の中身は分からないように、本を開かなければ本の内容は分からないように。高嵜を知りたければ、高嵜と話さなければならない。誰かにとっての高嵜ではなく、私が高嵜という本を開かなければならない。
私が高嵜を知るという事はそういう事なのだと。私は、それを初めて正しく理解することが出来たように思えた。
その日、数年ぶりにすっきりと目が覚めた。身体の硬直もなくすんなりとベッドから起き上がることが出来て、起き抜けに一杯の水を飲むと、水が喉を流れていくのが分かった。
まるで高校生のような活力が、ありありと体の中で巡っているのが分かった。その日、私はもう一度、高嵜と話をすることを決意して家を出た。
しかし、朝のホームルームに彼女の姿は無かった。早々にホームルームを終え、職員室に戻り確認してみたが、欠席の連絡も入っていなかった。保護者に確認の連絡を入れてみたが、連絡は取れなかった。しかし、それは特に不自然な事でもなかった。私の経験上では、病院での診断後、病状の説明と共に欠席の連絡を入れる生徒というのも多かった。
例えば、事故に遭っただとか。事件に巻き込まれただとか。そんなことは一切考えなかった。それが私の慢心であった。
昼休みの途中のことであった。職員室で昼食をとっていると、教頭が慌てた様子で職員室内に跳び込んできた。教頭は私の姿に気づくと、周囲の様子を気にしながら、私に向かって外に出るように合図した。
私は、ちょうどおにぎりの一口目を頬張ろうという所だった。仕方なくおにぎりを机の上に置いて、教頭の後に続いた。その間、おにぎりの海苔が乾いてしまう事だけが気がかりだった。
職員室から少し歩いて、人気のない応接室まで連れていかれると、そこには校長と学年主任が居た。その面子に気づき、ただならぬ雰囲気を察するや否や、私は机上に置いてきたおにぎりの事など忘れ去って襟を正した。
校長が一つ咳払いをして、重々しく口を開いた。高嵜が未成年喫煙の疑いで警察に補導されたという報告だった。校長の話を聞く間、教頭は落ち着かない様子で、学年主任は眉を顰め続けていた。校長も事の詳細を知り及んでいるわけではなかった。話は所々が抜けていて、不明瞭な箇所がいくつもあった。連絡を受けたのは事務員で、応接室にいる誰も正しい現状すら把握していなかった。
校長は、高嵜の担任である私に、警察署まで彼女を引き取りに行くようにと言った。
私は状況が飲み込めていなかったが、はいと答える他なかった。そう答えた瞬間に、心臓が高鳴った。それまでの話が急に形になって、私の上に降りかかってきたようだった。
緊張感に包まれ息を呑んだ。校長と学年主任、教頭にまとめて一度頭を下げると、踵を返して応接室を後にした。
警察署につき、受付で学校名と名前を名乗ると受付員が内線でどこかに連絡を入れた。エントランスで待っているように言われ、待っていると数分としない内に、一人の若い警官がやってきた。
「どうぞ。ご案内します」
警官は端的にそう言うと、私の前を歩き始めた。身体つきががっしりとしていて、腕は私よりも一回りは太く見えた。私は、その逞しい背中を追って歩いた。
警官に続いて階段を上ると、だだっ広い大部屋が見えてきた。職員室と似た作りの構造で、幾つもの机やらコピー機やらが所せましと並んでいる。そこでは職員たちが作業をしていた。
警官は大部屋の机の森をスルスルと抜けて歩いた。奥へ奥へと進んでいくと、大部屋の端の一角が衝立で区切られていたスペースが見えてきた。
そこは小さな応対スペースのようだった。四畳半にも満たないような狭いスペースに、簡易的な机とソファーが置かれていた。そこに高嵜と一人の警官が座っていた。高嵜の対面に座り込む警官は、私を案内してくれた警官よりも年を食っていた。若い警官と比べれば、その中年警官の姿には、どことない風格が漂っていた。
「学校の先生がお見えになりました」
若い警官がそう言うと、中年警官が私を見た。眼球がぎょろりと動いて上下した。頭の天辺からつま先までを、品定めをするような目つきだった。
「まぁ、とりあえず座ってくださいや」
中年警官は砕けた口調で高嵜の隣のスペースに座るように促した。私は唾を飲みながら、ゆっくりと座り込んだ。
「本当は、先生なんかじゃなくて、親御さんに来てもらうのが一番なんですがね。コイツが、学校の連絡先しか言わんもんですから」
中年警官は呆れたような顔つきで高嵜を見た。当の高嵜はそっぽと向いて、全く取り合ってはいない様子だった。
「いえ。この度は御迷惑をお掛けいたしまして、申し訳ございません」
私は両手を膝の上でそろえ、中年警官に頭を下げた。横目で確認すると、隣に座る高嵜は頭を下げてはいなかった。
「まぁ、今回はたまたまパトロール中の警官が見つけましたがね。学校の方でも、しっかりと教育をしてもらわないと困るわけですよ。校内でしっかりと監視して頂いて。そちらとしても、余計な仕事が増えるのは面倒でしょう?」
「はい。以後、このようなことが無いように対策に努めます」
私は上げかけた頭を再び下げた。横目で高嵜の姿を伺うと、今度は彼女と目が合った。高嵜は中年警官の姿ではなく、頭を下げる私の姿を見つめていた。
私が頭を上げると、中年警官が若い警官に指示を出した。若い警官は足早に部屋の奥の方に向かったかと思うと、煙草を持って戻ってきた。中年警官はそれを受け取ると、放るように机の上に置いた。
「こちらが押収品です」
机の上に置かれたのはたしかに煙草だった。常習的な喫煙習慣が無ければ、まず選ばないようなタールのきつい銘柄だった。その銘柄は高嵜というよりも目の前の中年警官のイメージに似合っていた。
私は机の上に置かれた煙草を拾い上げると、真っ先に違和感を覚えた。試しに左右に振ってみると、中身が入っている感触が無かった。
「そいつは空箱ですわ。もしかしたら、中身だけどっかに隠しとるかもしれませんがね」
そう言うと中年警官は眉根を寄せて高嵜を睨んだ。高嵜はなおも取り合っていなかった。
「警察は、高嵜が喫煙しているところを補導したわけではないんですか?」
私は疑問を口にした。中年警官は、高嵜に向けていたままの目を私に向けた。
「あぁ、聞いとらんのですか。学生服の生徒が、日中にも関わらず、街で挙動不審な動きをしてるもんやから、声をかけたんです。そしたら、その子の鞄の中からソレが出てきたって言う話ですわ」
中年警官は、私の手に握られた煙草を指した。
「その、声をかけた警官というのは?」
「そいつはこことは違うとこの、交番勤務の警官ですわ」
私は頭の中で話を整理した。警官は高嵜が直接喫煙しているところを目撃したわけではなく、高嵜も空箱を持っていただけに過ぎない。つまり、高嵜の喫煙を確定させる証拠はどこにもないのではなか。
しかし、それを口にするべきかは躊躇われた。警官の目にはもう、高嵜は立派な不良生徒に見えているのだろう。その認識を覆すことは容易ではない。自身の見方を改めることは出来ても、他人の見方を改めさせることは簡単ではない。
中年警官は、長々と説教の言葉やら近年の若者に対する懸念やら、不満やらを連ねていた。
私はその言葉を他所に、いま重要なことは何だろうかと私は考えた。
それは中年警官の見方を変える事では無い。私が正しく高嵜を見る事だと思った。
「今回の件につきましては、学校でも再度厳しく指導いたします。本人も疲れているようですので、本日はこのあたりでご容赦頂ければと思います」
中年警官の言葉に割り込むようにして、私はもう一度深く頭を下げた。
気持ちよく喋っているところに水を差されて調子が乱れたのか、中年警官は不機嫌そうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言ってこなかった。
私はソファーを立つと、高嵜にも立ち上がるように合図した。姿勢を正すと、中年警官に向かってもう一度深く頭を下げた。
「ほな、学校の方でしっかり指導してください」
中年警官は最期にそう言い残した。私は小さく会釈すると、案内された道を引き返すように歩いた。若い警官が受付まで見送りに来た。高嵜は私の一歩後ろをゆっくりと歩いてきていた。
駐車場まで、高嵜と一言も言葉を交わすことも無く歩いた。私が運転席に乗り込むと、高嵜は助手席へと乗り込んだ。私は後部座席に何か荷物を積んでいたかと振り返ってみたが、後部座席には何も荷物は無かった。
私は小さく咳き込んだ。高嵜がシートベルトを締めたのを確認してエンジンを始動させた。唸りをあげるようなエンジン音を聞きながら、私はサイドブレーキを下ろした。
「先生、このままどこか遠くへ連れて行ってくれませんか?」
シフトレバーをドライブに入れようと握ったところで高嵜が言った。突拍子もない発言に私は呆気にとられて、レバーを握ったままで答えた。
「どこか遠くって?」
「どこでも良いんです。とにかく、遠い場所へ」
とにかく遠い場所というのを、私は頭の中で思い描いてみた。それは酷く曖昧で、よく分からない風景だった。
海があって、山があって。あるいは川が流れていて、寂れた民家が合って。古ぼけた遊具が目につくような公園があって。あるいは田園が広がっていたりして、トラクターが走っていたりした。
しかし、そのどれも彼女の望む場所ではないと思った。高嵜の言う遠い場所とは、彼女のイメージですら実在する場所ではないのだと思った。
「行き先は無くていいのか?」
私は高嵜に尋ねた。
「はい。行き先は無いので」
高嵜はそう答えた。
私はシフトレバーをドライブに入れた。ブレーキペダルから足を離すと、ゆっくりと車が前進し始めた。
頭の中には正しい答えが転がっていた。このまま学校に戻るべきだと。それが私には正しく理解できていた。それが先生である私のとるべき選択だと。
私は、強くアクセルを踏み込んだ。車体が浮くような感覚に襲われて、身体だけがその場所に取り残されてしまったような浮遊感もあった。
「何があっても、今日の内には帰って来る。それだけは約束してくれ」
私が言うと、高嵜は驚いたような顔を見せた。高嵜のそんな表情を見るのは初めてだった。
「はい。約束します」
高嵜がそう答えた。私は、警察署を出てすぐの道路を右と左のどちらに曲がろうかという事を考えていた。車通りはさほど多くはなかった。右に曲がれば来た道を戻ることになる。
私は左折のためのウインカーを出した。
30分ほどあてもなく車は走った。道路標識に記された地名にはまだ見覚えがあった。
車内にはカーステレオのラジオの音声だけが響いていた。私も高嵜も、実に30分の間に渡って、一言も言葉を発さなかった。
私は車を走らせ続けた。交差点を直進するか、右に曲がるか、左に曲がるか、というような事をその瞬間の気分で決め続けた。
その間、高嵜はずっと車窓からの風景を眺めていた。その風景に対して何か感想を口にするでもなく、微動だにせず、まるで瞬間が切り取られた絵画の様だった。
どちらからも口を開くことは無く、一時間近くが経った。車は海岸沿いを走っていた。ラジオの音声に混じって、波の打つ音が聞こえてきた。
助手席側の車窓からは砂浜と水平線が見えた。高嵜の目線は水平線の方を向いていたが、彼女がそれを眺めているのかは定かではなかった。
「私の家、両親が離婚しているんです」
目線は車窓からの景色に固定したままで、高嵜が口を開いた。カーステレオの音声よりも小さい声だった。しかし、私はそれをはっきりと聞き取ることが出来たので、聞き直すようなことはしなかった。
ハンドルから左手を離し、カーステレオのボリュームを下げた。高嵜はこちらを振り返ることなく続けた。
「とは言っても、最近の話ではありません。まだ、私が物心つく前の話です。3歳だか、4歳だか。ですから、なぜ両親が離婚してしまったのかだとか。二人の間にどんな問題や行き違いが生じてしまったのかだとか。そう言ったことは何も知りません」
高嵜は言葉に詰まる様子もなく、一定のテンポで話した。それがあまりにも規則的で、準備されたモノに感じられた。この1時間、ずっと彼女は話すべきことを考えていたのではないかと思った。
「とにかく、私が知っているのは両親が離婚しているという事実と、母親に育てられたという事実だけです。つまり、親権は母親がとったのでしょう。少し調べたことがありますが、夫婦で親権を争うような場合は、基本的に母親の方が有利らしいです」
高嵜はまだ窓の外を眺めていた。海岸沿いを走る限り、似たような景色が続くだけだった。
「私は父の事をよく知りません。ただ、年に数回だけ父に会う機会があります。そういうのを面会交流というらしいです。ですが、私は父に会っているというような気はあまりしません。別に、親戚のおじさんに会っているという感覚とあまり変わりがないんです。だって、物心のつく前に両親は離婚していましたから。私はあの人を、父として記憶していないんです。あの人に対して、父としての記憶がないんです」
「それでも、その人が高嵜のお父さんであることに間違いはないだろう」
私はそう口を挟んだ。高嵜は少し間を空けて答えた。
「そうですね。戸籍上だとか、血縁上だとかで言えば、そうでしょう。でも、それは私からすれば、遠い場所にあるんです。戸籍も血縁も、私の記憶や思考には何の影響も及ぼさない。もしかすると、私が都合よく、そう思い込もうとしているだけなのかもしれない。父という存在を求める本能のようなものが、よく知りもしない相手を父だと認識しようとしているのかもしれない。ふと、そんな風に考えてしまうこともあります」
「それは、随分と難しい事を考えすぎだよ」
私はそう答えた。高嵜の言うことが、理解はできなかった。それは、彼女の内部にある問題で、外部からは分かりようがないことに思えた。
「そうかもしれません。しかし、そういう風に考えてしまうことがあるんです。そして、そんな事を考えるとき、私は自分の半分がすっぽりと抜け落ちているような気がするんです。分かりますか、そう言った感覚が。自分の半分が何処にあるのか分からないというような感覚です」
高嵜は少しばかり語尾に力を込めた。私に問うているのか、自分自身に問うているのか分からないような口調だった。
「すまないけれど、私には分からない」
私は素直に答えた。私の回答に、高嵜は短く息を吐いた。
「父親を父親として認識できない歯がゆさが、先生には分かりますか。そんなの、大層な事ではないと思われますか。高校生にもなって、受け入れきれない私が我儘なだけなんでしょうか。私が、神経質なだけでしょうか。ただ、単純に、理解も納得も必要なくて。あの人を父親だと認めればいいだけの事だと思いますか?」
高嵜の声は怒気を孕んでいた。その怒りが、私に向けられているのかは分からなかった。高嵜は癇癪を起した子供のように思えた。怒りは彼女自身に向かい、新たな怒りを生み出し、増幅させているようだった。
「分からない。私は高嵜ではないから」
私は分かってあげられるとは答えなかった。それはとても正直な回答だった。飾りつけも何もないありのままの回答だった。高嵜にとっては不誠実でも、私はこの上なく誠実だった。
「母が再婚することになったんです。その影響で私はこっちに越してきました。私は再婚の事を直前まで聞かされていませんでした。私がその話を聞く時には、二人はもう結婚の段取りを立てていましたから。引っ越しも、結婚も、ほとんど、事後報告に等しい形でした」
高嵜の声からは怒気が消え、瞬間的に冷たくなった。抑揚も無く淡々と言い進めていく口調は、繰り返しの音声を発し続けるカセットテープの様だった。
「高嵜は、反対しなかったのか?」
「出来るはずもありません。ここまで私を女手ひとつで育ててくれた母に、再婚するな、なんてことを言える訳もありませんよ。それこそ、我儘が過ぎるでしょう。私に、母の幸せを阻害する権利なんてないんですから」
権利、という言葉を高嵜は重々しく使った。その権利には、言葉以上の複雑さが含まれているように思えた。
「再婚相手と、上手くいってないのか?」
私は思ったことをそのまま口にした。それは無神経な発言かもしれなかったが、高嵜を知るためには、時に無神経になることも必要だと思えた。
「いえ、再婚相手はとてもいい人です。母とも上手くいっているようですし、私にも良くしてくれます。だからこそ、私はどう接するべきなのか、分からなくなるんです。このまま、受け入れてしまったら、私の半分がその人に埋められてしまうのではないかと、そんな事を考えてしまう。それが、恐ろしくて仕方ありません」
「その、高嵜の半分が埋められてしまうのは良くない事なのか?」
「分かりません。分かるのは、それが怖いという感覚だけです。今まで半分で生きてきたのに、急に別のものを与えられても。正しいのか間違いなのか。良いのか悪いのか。それが分かったら、こんなに悩んではいません」
そう答えると、高嵜はまた黙り込んでしまった。
高嵜はこどもなのだろう。こどもなのに、ある時点から大人であることを強いられてしまった。本人の等身大以上に、求められる虚像が大きくなって、その乖離に藻掻いているように思えた。
再び、口を開くような様子もないので、私が口を開くことにした。
「話は変わるが。どうして高嵜は否定しなかったんだ?」
私の問いに、高嵜がどのような表情をしたのかは分からなかった。高嵜から返答だけがあった。依然として彼女は窓の外を眺めたままだった。
「何の話ですか?」
「高嵜は煙草を吸っていないだろう」
私がそう言うと、高嵜は一瞬動揺したように見えた。
「どうして、そう思うんですか?」
「本当に高嵜が煙草を吸うなら、制服のままで煙草を持ち歩くなんて馬鹿なことはしないだろうし。それに、警察に見つかるようなミスはしない」
私は自身の考えを口にした。高嵜はようやく車窓から目線を外し、こちらに向き直った。
「そう考える、具体的な根拠は。何か証拠はありますか?」
「根拠も証拠もない。ただ、私から見える高嵜は、そういう人間ってだけだ」
「じゃあ、そんな馬鹿な事をして、私に一体何のメリットがあるんです?」
「それが分からないから、私も頭を悩ませている。高嵜が素直に教えてくれれば、助かるわけだけれど」
そう言うと私は苦笑してみせた。高嵜は一切表情を緩ませなかった。
「ない話をすることは出来ませんよ。本当に、ただ運悪く見つかっただけの話です。制服の事なんて、気にしてもいませんでした」
「そうか。じゃあ、そういうことにしておくよ」
私がそう言うと、車内には再び沈黙が戻った。小さくなったカーステレオの音は、まるで遠くで鳴り響いているように聞こえた。
車は海岸沿いを抜けようとしていた。茜色に空が染まり、緩やかに日が沈み始めていた。
私は、車のヘッドライトを点灯させた。
辺りが夜に包まれ始める。ヘッドライトの光だけを頼りに、舗装された道路を走り続ける。車は知らない町を走っていた。
「どのくらい遠くまで来たんでしょうね」
ふと、高嵜が口を開いた。それは数時間ぶりの会話だった。
「さぁ、私にもここが何処かよく分からない。どこまで行くのかも分からない。なにせ、行き先が無いのだから」
「いま、私が警察に電話すれば、先生は誘拐未遂で逮捕されるかもしれませんね」
高嵜が言った。それが本気なのか冗談なのかは計りかねた。
「その時は、あらぬことをされそうになったという話も付け加えるといい」
私は冗談で返した。
「はい。気が向いたら、そうします」
高嵜はそう答えて、また窓の外に目線を移した。私はハンドルを強く握り直して、口を開いた。
「高嵜は、どうして遠くへ行きたくなったんだ?」
「分かりません。どうしてか、そうすれば何かが変わると思ったのかもしれません」
「何かを、変えたかったのか」
「それもよく分かりません」
高嵜は続けざまに分からないと口にした。彼女に分からないことが、私に分かるはずも無かった。それは、考えても仕方のない類の事だった。
「父が煙草を吸うんです。私と会う、年に何回かの時にも。お店で食事をとってても、いつの間にかふらっとどこかに消えて。気が付いたら煙草の香りをさせながら戻って来るんです」
高嵜は脈絡なく話し始めた。私は一瞬、その話が数時間前の話と繋がっているという事に気が付かなかった。
私の相槌も待たずして、高嵜が続けた。
「それだけの事でも、私と一緒に居ることが、父のストレスになってるんじゃないかと思ったりして。不安になるんです。だって、私はそうなんです。そんなことがどうしようもなく、気になってしまうんです」
高嵜の声は徐々に萎んでいった。震えこそないが、声には不安が漂っていた。
「そんなこと、と卑下することは無い。つまりそれが、高嵜にとっての大切な事なんだろう」
私はとってつけたような返答をした。正しい返答を模索する暇はなかった。聞こえの良い答えを瞬間的に返すことしかできそうになかった。
「それだけじゃないんです。あれもこれも、私には気になって仕方ないんです。そういう性質なんです。両親が離婚していることも、父親を上手く認識できないことも、母の再婚も、再婚相手の事も、全部なんです。分かってるんですよ、片親の子供なんて世間にたくさんいるって。でも、私はそれが気になってしまって。誰かにとっては、他愛もないことかもしれないけれど、私は考えていると堪らなくなって、我慢できなくなるんです」
「それは他愛もない事では無いよ。無理に我慢することでもない」
「これは、そういう問題ではないんです。私はみんなみたいに、普通にできないんですよ。上手くできないんです。それが問題なんです。他人と違う所ばかりが目について、自分の半分はどこにもなくて。そんな情けない自分が恥ずかしくて、それを気にしてしまって。普通に生きている人たちが羨ましくて、憎たらしくて。それでも、私は普通にできないんです。私は、私がどうあればいいのかまるで分からない。それが辛いのに、分かっているのに。普通にできないんです。それって、どうしようもなくないですか。でも、そんなどうしようもない事ばかりを、どうしようもなく考えてしまって、あれもこれも私を息苦しくさせてきて。考えるのを辞めればいいのに、考えてしまって。自分で息苦しくさせて。それでも考えてしまって。時々、何もかも捨ててしまいたくなって。どこへ行けばいいのか分からなくなって。何をすればいいのか分からなくなるんです。行き先が無いのは、私自身だって。そういう時に思うんです、生きづらいって」
高嵜は息をするのも忘れた様子だった。言葉の端々には涙を滲ませていた。声は掠れ、淀み、震え、濁っていった。それでも、彼女は言葉を吐きだし続けた。
「煙草を吸ってみたら、父の考えが分かるんじゃないかって思ったんです。私の半分が埋まってくれるんじゃないかって思ったんです。でも、いざ口にくわえてみたら、怖くなって。それを吸って、何も分からなかったときのことが怖くなって。何も変わらなければ、このさき一生、私は半分のままかもしれない。そう思うと、途端に不安になって、中身は全部捨てて、箱だけをお守りみたいに抱えました」
高嵜の声は憔悴しきっていた。力のない声は痛々しかった。私は、彼女に伝えるべき言葉を持ち合わせていなかった。大人としても、教師としても。私は不完全なままだった。
「本当に遠くまで来てしまった。そろそろ、引き返そう」
私はそう言って車を路肩に停めた。サイドブレーキを引き、ハザードランプを点滅させ、カーナビを操作した。目的地は学校に設定した。機械音声がすぐに目的地までの所要時間を教えてくれた。
下校時刻は大きく過ぎるが、日が変わる時間には随分と余裕をもって帰れそうだった。私はサイドブレーキに手をかけて、思いとどまった。
高嵜は両手で顔を伏せて、俯いていた。指の隙間から、すすり泣く声だけが聞こえた。
かけるべき言葉は見つからないが、本心は腹の底にあった。それは引きだしてしまえば、彼女を傷つけかねないモノだと分かっていた。少なくとも、教師が傷心の生徒に対してかける言葉ではない。しかし、私はそれを引き上げた。
「高嵜の抱えるモノや問題を、私が解決してあげることも、一緒に抱えてあげることもできない。それは、高嵜が抱えなければいけない」
私の話に、高嵜は相槌も打たなかった。顔を伏せたままで、聞いているのかも分からなかった。しかし、私は話を続けた。
「高嵜の生きづらさを、私は真に理解してあげられない。というより、おそらく高嵜以外の誰も理解できない。私には、それを外側から知ることしかできない」
言葉が上手く伝わっている保証は無かった。いたずらに高嵜の傷を抉るだけの結果をもたらすかもしれなかった。それでも、私は伝えることから逃げない事を選んだ。
「だったら、私は一生、この生きづらさを抱えたままで生きていかなきゃならないんですか?」
高嵜が言った。潤んだ目で、私を責め立てるように睨んだ。
「そうだよ。高嵜が、そう思わなくても済むようになるまではね」
私はその目を真っすぐ見つめ返した。もう、恐ろしいとは思わなかった。
「そんな日が、いつ来るって約束出来るんですか」
「分からない。高嵜の事なんだから。それを決めるのも、高嵜だけだ」
言葉にしてみて、酷い言い分だと思った。すべてを高嵜に押し付ける。私は救いの言葉をかけているわけではない。いずれ彼女が直面しなければならなくなる現実を、無理矢理に押し付けているだけだ。
私以外なら、もっと上手くやるのかもしれない。けれども、私にはそれしかできなかった。取り繕わずに、思うがままを赤裸々に語る以外の手段を見つけられなかった。
「なんで、もっと優しい言葉をかけてくれないんですか」
高嵜が言った。弱弱しい声だった。
「私には、この選択しかできないからだよ。同情しても、高嵜が救われるわけじゃない。問題は解決しない。だから、私は同情しない」
高嵜はうなだれた。しかし、私にはそうすることしかできなかった。仮に私が高嵜の救いになれたとして、数か月もすれば彼女は卒業していく。その後も、ずっと彼女の救いであり続けることはできない。教師とは、限られた時間と空間でのみ生き続けることしかできない。私は言い訳のようにそんなことを考えた。
「でも、行き先が無くても車は走ったように、生きづらくても、高嵜は生きている。これからも生きていく。それだけで、充分な事だと思うよ。それに、こうして行き先が分からなくても、帰れる場所はあるんだ。高嵜だって、確かにここまで歩いてきたんだから」
私はサイドブレーキを下ろした。ハザードランプの点滅を止めて、サイドミラーで後続車が来ていない事を確認すると、ゆっくりと車を発進させた。
「高嵜が抱えてるモノを、一瞬で全部消してあげるような魔法の言葉は無い。それは全部、高嵜が自分の手で、一歩ずつ歩いて、どうにかしていかなきゃならない。もちろん、休み休みでいい。なんなら、途中で投げ出したっていい。それで、どうすればいいか分からなくなったら、帰れる場所へ帰ればいい。私は、高嵜の長い長い人生の、たった1年間に触れるだけの存在なんだ。だから、全部抱えてあげるなんて大それたことは言えない。大人だからこそ、そんな無責任で出来もしないことは言えない。けれど、私も高嵜にとって帰れる場所の一つで在れるように頑張ってみるよ。そのくらいの存在ではあれるように、どうにか頑張ってみるよ」
願望交じりの私の言葉が彼女にどう伝わるのか、想像が出来なかった。それでも、どうにか伝わって欲しいと私は願っていた。私は無力で、願うことしかできなかった。
「じゃあ、早く帰りましょう。今日は、帰るべき場所へ」
高嵜は短くそう答えた。
私は緩やかにアクセルを踏み込んだ。ヘッドライドが道路を照らしていた。帰路を走り出してから数十分と経たない内に、高嵜は静かな寝息を立て始めた。
会話相手を失って、私は一人で車を走らせ続けた。
季節が巡って、草花が春の訪れを感じさせていた。
高嵜の一件は校内でちょっとした問題になりかけたが、当人に喫煙の事実はなかったことから、警察側の誤解として処理した。学校側も、高嵜には優秀な進学実績を残して欲しかったのか、深く追求するようなことはしなかった。謹慎処分すらなく、担任による厳重注意という処分のみに落ち着いた。
それから何事も無かったかのように日々が過ぎていった。一日が以前にも増して早く感じられるようになった。無機質に日々が流れ続けた。受験が終わり、一喜一憂する生徒がいれば、落胆する生徒もいた。高嵜は志望校に合格したようだった。
彼女の抱えるモノがどうなったのかは、知る由も無かった。私から彼女に尋ねるようなことも無かった。私は既に伝えるべきことを伝えきっていた。
ふとすると、あの日の出来事が全て幻だったかのようにさえ思えた。私はそれでも構わないとも思った。
卒業式の日が来た。桜は満開とまでは言えなかったが、美しい花弁を咲かせていた。それぞれの行く先へ巣立っていく生徒たちを見送った。涙は出なかったが、やはり一抹の淋しさがあった。
式を終えると、高嵜が私の所へやって来た。一対一で話をするのは、あの日以来だった。
「卒業おめでとう」
私は改めて、彼女に賛辞の言葉を贈った。彼女は小さく一礼して答えた。顔を上げた彼女は随分不安そうな表情をしていた。あるいは、卒業を惜しんでいる表情かもしれなかった。
「行き先は決まったかい?」
私はそう尋ねてみた。
「いいえ。まだ、分かりません」
高嵜はそう答えた。その表情は心なしか、希望で満ちているように見えた。或いは、私の願望がそう見せたのかもしれない。
「そうか。じゃあ、どこへでも行けるね」
私は呟くようにそう言った。彼女は小さく頷いた。
「はい。帰り道は分かってますから」
今度は私が小さく頷いた。高嵜は私に向かって、深く頭を下げた。
「先生、お世話になりました」
「はい。それじゃあ、気をつけて。いってらっしゃい」
そう言って私は高嵜の背中を見送った。
学校という場所に留まる私は、彼女の行き先を見届けることはできない。
高嵜の背中が小さくなって、見えなくなると私は踵を返した。また、いつもの日々に戻るように、ゆっくりとした足取りで職員室まで歩いた。
行先 糸屋いと @itoyaito
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