閑話休題:お姉ちゃんの哲学ノート

 秋の雨が窓をたたく土曜の午後。永遠と花凛は、お姉ちゃんの部屋で哲学の勉強をしていました。二人とも、これまでに学んだ女性哲学者たちの話に夢中になっていましたが、同時にいくつかの疑問も抱えていました。


 永遠は数学の教科書を閉じながら、少し躊躇うように口を開きました。


「ねえ、お姉ちゃん。僕、少し混乱してるんだ。アスパシアもヒルデガルトも、すごく興味深いんだけど……」


 花凛も同意するように頷きます。


「うん、私もなんだか色々と整理できてない感じ」


 お姉ちゃんは二人の様子を見て、優しく微笑みました。


「そうね。ここらで少し休憩して、これまでの学びを整理してみましょうか。実は、私もみんなと一緒に学んでいて気づいたことがいくつかあるの」


 お姉ちゃんは立ち上がり、本棚から一冊の古びたノートを取り出しました。表紙には「哲学ノート」と丁寧な文字で書かれています。


「これは、私が大学生の時につけていたノートよ。時々読み返すと、新しい発見があるの」


 永遠と花凛は、興味深そうにお姉ちゃんの手元を見つめています。


「今日は、このノートを参考にしながら、哲学について大切なことをお話ししましょう」


 お姉ちゃんはノートを開き、懐かしそうに頁をめくります。


「まず、『哲学すること』の意味について考えてみましょう。永遠、花凛、あなたたちは『哲学する』というと、どんなイメージを持っている?」


 永遠は少し考え込んでから答えます。


「難しい本を読んで、深く考えること……かな?」


 花凛も続けます。


「私は、人生の意味とか、そういう大きな問題について考えることだと思ってた」


 お姉ちゃんは優しく頷きます。


「どちらも間違いじゃないわ。でも、哲学はもっと身近なものでもあるの。例えば……」

お姉ちゃんは窓の外の雨を見つめながら、静かに語り始めました。


「例えば、今朝、永遠が花凛のパンを半分あげたわよね?」


 永遠は少し驚いた表情を見せます。


「え? うん。花凛が欲しそうにしてたから……」


「その時、『なぜ分けてあげようと思ったの?』って考えたことある?」


 永遠は首をかしげます。


「特に……。ただなんとなく」


 お姉ちゃんは微笑みながらノートのページをめくります。


「でも、その『なんとなく』の中には、たくさんの哲学的な要素が含まれているのよ。『分け合うことは良いことなのか』『相手の欲求をどこまで考慮すべきか』『自分の損得よりも相手の喜びを優先することの意味は何か』……こういった問いは、すべて哲学的な問いなの」


 花凛が目を輝かせます。


「へえ! そんな身近なことも哲学になるんだ」


 お姉ちゃんは頷きながら、ノートに書かれた言葉を指さします。


「私が大学一年生の時に書いた言葉よ。『哲学とは、当たり前を疑う勇気である』……今でも、この言葉は私の心に響くわ」


 永遠が真剣な表情で聞きます。


「当たり前を疑う勇気……?」


「そう。例えば、学校で『男子だから』『女子だから』という理由で役割が決められることってない? そういった『当たり前』に対して『なぜ?』と問いかけること。それが哲学的思考の始まりなの」


 永遠は少し考え込みます。この前、学級委員を決める時、「女子のほうが記録係に向いている」と言われたクラスメイトのことを思い出していました。


 お姉ちゃんは、永遠の表情の変化に気づいたようです。


「何か思い当たることがある?」


 永遠はしばらく迷った後、ゆっくりと口を開きました。


「うん……。この前、クラスで学級委員を決める時のこと。女子が記録係をやるのが当たり前みたいな雰囲気があって……。でも、僕は書くのが好きだし、上手いと思うんだ。なのに、なんとなく立候補できなかった」


 花凛が驚いた表情を見せます。


「えっ! そうだったの? 知らなかった……」


 お姉ちゃんは真剣な表情で永遠を見つめます。


「永遠、それはとても大切な気づきよ。『なんとなく』できなかったその理由を、もう少し深く考えてみない?」


 永遠は机に置いた鉛筆を転がしながら、言葉を探します。


「たぶん……みんなが変に思うんじゃないかって。『男子なのに』って」


「そう。その『男子なのに』という言葉の中に、私たちの社会が長い間作り上げてきた『当たり前』が隠れているのよ。アスパシアやヒルデガルトが戦ってきたのも、まさにそういった『当たり前』だったの」


 花凛が真剣な表情で言います。


「私も似たような経験がある。体育委員になりたかったけど、『女子は運動が苦手でしょ』って言われて……」


 お姉ちゃんはノートに新しいページを開きます。


「では、ここで少し演習をしてみましょう。あなたたちの周りにある『当たり前』を書き出してみて。そして、それぞれに『なぜ?』という問いを投げかけてみるの」


 永遠と花凛は、それぞれノートを広げ、考え始めます。雨の音が心地よいリズムを刻む中、部屋には深い思索の空気が流れていました。


しばらくして、永遠が真っ先にペンを置きました。


「できた! 僕が見つけた『当たり前』は三つ。一つ目は『男子は理系に向いている』。二つ目は『男子は感情的になっちゃいけない』。三つ目は『男子は力仕事をするべき』」


 花凛も続けます。


「私も三つ! 『女子は大人しくするべき』『女子は家事が得意なはず』『女子は数学が苦手』……あ、これって全部、性別のことになっちゃった」


 お姉ちゃんは優しく微笑みます。


「それは自然なことよ。私たちは性別による『当たり前』に、毎日のように直面しているもの。でも、ここからが大切なの。それぞれの『当たり前』に、『なぜ?』を投げかけてみましょう」


 お姉ちゃんは立ち上がり、小さなホワイトボードを持ってきました。


「例えば、『男子は理系に向いている』という『当たり前』。これに対して、どんな『なぜ?』が考えられる?」


 永遠が少し考えてから答えます。


「うーん……なぜ性別と得意分野が関係あるんだろう? 生まれた時から決まってるの? それとも育て方?」


「良い質問ね。さらに深く考えてみましょう。もし本当に男子が理系に向いているなら、ヒルデガルトはなぜあんなに自然科学に優れていたのかしら? アン・コンウェイはなぜ物理学を極めることができたのかしら?」


 花凛が目を輝かせます。


「あ! 私たちが学んできた女性哲学者たちって、みんなそういう『当たり前』を覆してきた人たちなんだ!」


「その通りよ。彼女たちは『当たり前』を疑い、それに挑戦し、そして新しい可能性を示してくれた。それが、哲学することの本質なの」


 窓の外では雨が少し弱まり、薄日が差し始めていました。


永遠は、自分のノートに書いた「当たり前」のリストを見つめ直します。そこには、これまで意識したことのなかった自分の中の固定観念が並んでいました。


「でも、お姉ちゃん。こういう『当たり前』に気づいたら、その後どうすればいいの?」


 お姉ちゃんはノートの別のページを開きます。そこには、学生時代のお姉ちゃんが書いたと思われる文字が、所々消しゴムで消された跡を残しながら、びっしりと並んでいました。


「大切なのは三つよ。一つ目は『観察すること』。二つ目は『分析すること』。そして三つ目は『行動すること』」


 花凛が首をかしげます。


「観察って、具体的にはどうするの?」


「例えば、クラスの中で『当たり前』がどのように働いているか、注意深く見てみること。誰がどんな役割を担っているか、誰の意見が重視されているか、誰が発言しにくそうにしているか……」


 永遠が真剣な表情でうなずきます。


「分析は?」


「観察したことの背景を考えることよ。なぜそうなっているのか、誰がその状況から利益を得ているのか、誰が不利益を被っているのか。そして、それを変えるためには何が必要か」


 お姉ちゃんは、窓際に立ち、外の景色を見つめながら続けます。


「そして最後の『行動』。これが一番難しいかもしれない。でも、小さな一歩から始められるわ」


花凛が少し不安そうな表情で尋ねます。


「小さな一歩って、例えばどんなこと?」


 お姉ちゃんは再び二人の前に座り、優しく微笑みます。


「例えば、永遠の場合なら、次に記録係を決める機会があったら、自分から『やってみたい』と声を上げること。花凛なら、体育委員に立候補すること。それが小さな一歩になるわ」


 永遠は少し緊張した表情を見せます。


「でも、やっぱり周りの反応が怖いな……」


「その気持ち、よく分かるわ。私も大学生の時、似たような経験をしたの」


 お姉ちゃんは、また古いノートのページをめくります。


「私が哲学科に進むと決めた時、周りからは『女の子が哲学なんて』って言われたわ。でも、その時に支えになったのが、これまで私たちが学んできた女性哲学者たちの物語だったの」


 お姉ちゃんの目には、懐かしい記憶が浮かんでいるようでした。


「彼女たちはみんな、それぞれの時代の『当たり前』と闘ってきた。その勇気を思い出すと、私も前に進めた。そして、その経験が今、あなたたちと哲学を学ぶきっかけになっているのよ」


 永遠と花凛は、お互いを見つめ合います。二人の目には、新しい決意の光が宿っているようでした。


お姉ちゃんは、ノートの最後のページを開きました。そこには、赤ペンで大きく一つの言葉が書かれています。


「『対話』――これが、私が一番大切だと思う哲学の要素よ」


 永遠が不思議そうな顔をします。


「対話? でも、哲学って一人で深く考えることじゃないの?」


「確かに、一人で考えることも大切。でも、人との対話を通じて、自分では気づかなかった視点に出会えることも多いの。アスパシアが重視したのも、まさにその『対話』の力だったわ」


 花凛が少し照れくさそうに言います。


「私、永遠と話すと、いつも新しい発見があるの。でも、それって哲学的な対話だったんだね」


「そうよ。双子のあなたたちは、お互いを通じて世界を見る練習をしてきたのかもしれないわ」


 お姉ちゃんは、机の上に三つのコップを並べ、ポットからお茶を注ぎます。湯気が立ち上る中、部屋に温かな空気が広がっていきました。


「さあ、これからも一緒に『当たり前』を考えていきましょう。そして、それを変えていく勇気を分かち合っていきましょう」


 永遠と花凛は、熱いお茶を両手で包みながら、うなずきます。窓の外では、雨が上がり、夕暮れの空に虹が架かっていました。

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