第5話 メアリーの矛盾

ポアロとヘイスティングズはジョージの寝室を後にし、館の廊下を静かに進んでいた。床下の古びた板が、二人の足音に応じて微かに軋む。その音が、広く静まり返った館全体に不気味に響き渡っていた。ポアロの目は鋭く細められ、何かを深く考え込んでいる様子だ。先ほどの寝室での発見が、彼の「小さな灰色の脳細胞」を刺激していた。


「ポアロ、この事件はどんどん複雑になっているぞ。」ヘイスティングズはやや落ち着かない様子で言った。「犯人が内部の者だとしたら、一体誰がジョージを襲ったのか。そして肖像画の消失は何を意味しているんだ?」


ポアロはふっと微笑んだ。「その通りです、ヘイスティングズ。ですが、この事件は一見複雑に見えても、解くべき糸口はすでに私の手の中にあります。そして、その糸口を引けば、全てが明らかになるでしょう。」


二人が向かったのは、再び居間だった。そこには、メアリー・ハロルドが窓際の椅子に座っていた。彼女は外の庭をじっと見つめ、その背中は一見無防備なように見えるが、どこか緊張感が漂っていた。彼女はポアロたちの足音に気づき、ゆっくりと振り返った。その美しい顔には、わずかに冷たい表情が浮かんでいたが、目の奥にある複雑な感情を隠し切れていなかった。


「メアリーさん、お時間をいただけますか?」ポアロが静かに問いかけた。


「もちろんですわ、ポアロさん。」メアリーはやや作った微笑みを浮かべながら答えた。「何か進展がありましたか?」


「そうですね、いくつか興味深い発見がありました。例えば、ジョージさんの寝室で見つけた破片です。これは、香水瓶の一部ではないかと考えています。そして、私が感じ取った香りは、非常に個性的でした。確かに、あなたが使っている香水に似ていると思うのですが。」


メアリーの顔に一瞬、動揺の色が走った。彼女はすぐに表情を取り繕い、静かに答えた。「香水ですか? 私がその夜香水を使ったかどうかは、あまり覚えていませんが……」


「覚えていない、ですか?」ポアロは彼女をじっと見つめた。「メアリーさん、その夜、あなたがジョージさんの部屋に入ったことはないのですか?」


彼女はほんのわずかに目を伏せ、答えるのにためらったようだった。「いいえ、私はその夜、自室にいました。ジョージの部屋には一度も入りませんでした。事件が発覚するまで、何も知らなかったのです。」


ポアロはその言葉を聞くと、さらに鋭い眼差しを向けた。「ですが、ジョージさんの部屋で見つけた香水の破片は、あなたがその場にいた可能性を強く示唆しています。そして、あなたは以前も『何も知らなかった』と言っていましたが、その言葉に少し不自然さを感じます。まるで、何かを隠そうとしているかのように。」


「隠している?」メアリーの声はわずかに震え、彼女の目が警戒を見せた。「何を隠す必要があるというのですか、ポアロさん?」


「それは、あなたが最も知っていることです、メアリーさん。」ポアロは声を低くし、彼女にさらに迫った。「私は、あなたが何かを知っているのではないかと思っています。ジョージさんを襲撃した理由、そして肖像画が消えた夜の出来事。そのすべてに、あなたが関わっている可能性があるのです。」


メアリーの顔が強張った。彼女は何かを言い返そうとしたが、言葉を発する前に息をのみ込んだようだった。ポアロはその様子を見逃さず、さらに続けた。「メアリーさん、私はあなたが直接手を下したとは思っていません。ですが、あなたはこの事件の背後にある秘密に近づきすぎたために、何らかの形で巻き込まれたのではないですか? そして、その秘密はおそらく、肖像画にまつわるものです。」


「肖像画……」メアリーは低くつぶやいた。彼女の手は無意識に膝の上で固く握られていた。「ポアロさん、私は……」


その瞬間、メアリーは言葉を飲み込んだかのように、黙り込んだ。彼女の目には、何か言いたいことがあるように見えたが、それを口に出すことができない様子だった。


ポアロはその沈黙をじっと見守り、微笑を浮かべた。「メアリーさん、私はあなたが何かを知っていることを確信しています。そして、その知識は、あなた自身をも危険にさらす可能性があります。ですから、真実を話すことが最も安全な選択だと私は考えます。」


メアリーは数秒間、ポアロを見つめた後、ゆっくりと頷いた。「……分かりました、ポアロさん。おっしゃる通り、私は何かを知っています。でも、それが何を意味するのか、私にもまだはっきりとは分かりません。ジョージは……ジョージは何かに気づいていたのです。そして、それが彼を襲撃する原因になったのかもしれません。」


「何かに気づいていた、と?」ポアロはメアリーの言葉を聞き逃さなかった。


「ええ、ジョージは最近、家族の過去に関するある文書を見つけたのです。それは古い家系図のようなものでしたが、そこには不自然な名前がいくつか記されていました。ジョージはそれが何か重要な手がかりだと思い、調査を始めたのです。しかし、その結果が彼を危険にさらしたのではないかと……」


ポアロは深く頷いた。「家族の過去が、現在の事件に結びついている。そして、その過去の秘密が肖像画の失踪と、ジョージさんの襲撃の背後にある。すべてのピースが少しずつ繋がってきました。」


メアリーの表情は悲痛なものに変わった。「私は……私はただ、ジョージを助けたかった。彼が危険だと感じた時、私は何もできませんでした……」


ポアロは優しい声で言った。「メアリーさん、真実を知ることは時に苦しいことですが、それが唯一の道です。私がこの事件の全貌を明らかにし、あなたとジョージを救うために、最後まで諦めません。」


ポアロは立ち上がり、メアリーに静かに頭を下げた。「では、次の手がかりを追いましょう、ヘイスティングズ。私たちはすでに答えに近づいています。」

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