7 公式戦

 日曜日に練習試合があった翌日の部活は休み。そのため、通常は月曜日に渡される一週間分の練習メニュー表が、火曜日に配布されることになっている。

 練習試合から一日経った火曜日の今日も、アップ後の集合時に、監督からA4用紙が手渡された。

「あ、五十嵐は、こっちな」

 監督が俺にだけ個人的に別の用紙を渡してきた。

「?」

 不思議に思いながらも受け取る。

 書かれていた内容は、一日毎のメニューだった。

「これって……」

 一日毎、ということは、二日に一回分。

 二日に一回しか練習できないじゃないですか、と俺が言う前に、

「二日に一回は休め」

 と、監督が言った。

「一昨日の練習試合の後、他の部員たちから頼まれたんだ。五十嵐が無理せず続けられるメニューを作ってくれって」

「え……」

 練習試合で早退して、迷惑をかけたというのに。

 俺が、自身の限界がくる前に周りに伝えられなかったのが、いけないというのに。

 ──みんなは逆に、俺の体力が底を尽きないような練習をしろって言うのか……?

 そんな優しいことって、あるのか……?

 俺は部員たちを見回す。

 みんな、笑っていた――こんなダメダメな俺のことを、考えてくれていたのか。

 許してくれるのか。

 これからも、ここにいてもいいのか。

「あ、ありがとう……!」

 嬉しさで涙が込み上げてくる。泣くのをギリギリで我慢していたが、全員に頭をわしゃわしゃされて、ホロリと涙が頬を伝っていった。



 梅雨が明けて七月になれば、迫ってくるのは公式戦だ。

 前日の練習前のグラウンドで、スタメンが発表された。

 公式戦用のユニフォームと背番号が配られる。

「背番号五、サード、五十嵐!」

「……え、は、はい!」

 まさか一番最後に入部した自分が呼ばれるとは思っていなくて、声が裏返る。

 ギクシャクとした動きで監督からユニフォームと背番号を受け取った。

 部員は、全員で十人。

 ポジションが被っている場合、スタメンが背番号一桁で、スタメンに選ばれなかったほうが、背番号が二桁になるのがよくあるパターン。


 ――最後の公式戦である三年生の五反田先輩を押しのけて、一年の俺がスタメンで、背番号も一桁だって? 


 せめて、スタメンじゃないか、背番号を二桁にしてほしい。

 ……そうでないと、散々よくしてくれた五反田先輩に合わせる顔がない。

「スターティングメンバーは以上。それじゃあ、練習を始めるぞ!」

「はい!」

 監督は何事もなかったかのように、グラウンドの端に設置されているベンチに戻っていく。次のメニューは監督なしで行える類なので、どうやら座って様子を見るようだ。

 ……じゃなくて!

 俺は監督に直談判しようと、勇み足で向かっていく――


「五十嵐」


 五反田先輩に腕を掴まれて、阻止されてしまった。

 俺は件の先輩の登場に、応援を要請する。

「先輩も一緒に抗議しましょう、こんなのおかしいって」

「違うよ、そんなことしなくていい」

「えっ」

 予想外の回答に驚いてしまう。

 五反田先輩は、真剣な顔つきをしていた。

「なんでですか。嫌ですよ、俺。五反田先輩は、最後の夏なのに」

「……まぁ、いいから見てなって」

 五反田先輩はニヤリと口角を上げた。

 ――何か、考えがあるのか?

「おい! 五反田! 五十嵐! 早くしろ!」

「すみません!」

 監督に怒鳴られて、俺たちは三塁ベースへ走った。



 公式戦当日。

 俺たちの試合は午前十時プレイボール。朝から、球場に近い駅に集合する。

 集合場所である駅の改札を出ると、既に何人か集まっていた。

 七月下旬──もう夏だった。

 日差しが眩しい。蝉が鳴いている。

「おはよう、五十嵐くん。どう? 調子は」

 六雅が俺に気づいて話しかけてきた。

「うん、天気もいいし、よく眠れたから、結構いい」

 俺の返答に、六雅が微笑んで応えてくれる。双子の四季と同じ顔なのに、なんとなく六雅のほうが、微笑みが似合う気がする。

「じゃあ、全部サードゴロにさせるから、よろしくね」

 ピッチャーの一ノ瀬が、六雅の背後からひょっこりと顔を出した。

 一ノ瀬の意地悪な冗談に、俺は苦笑する。

「全部サードはしんどいなぁ」

「ファーストはどんな打球になろうと、仕事あるけどな!」

 三浦が横から入ってくる。朝っぱらから元気なやつだ。

「んじゃ、全部一塁牽制でアウト取ろうぜ」

 四季が俺の肩に肘を置いて、ニヤリと笑う。それに九瀬が同調した。

「牽制で終わったら、外野としては、すごく楽ですけどね」

「まだ打ち上げさせるほうが難易度低いよ〜!」

 困り果てる一ノ瀬に、俺たち一年生の笑い声が駅内に少し反響した。

「こら、駅なんだから、あんまりでかい声出すな」

「あ、すみません」

 二宮先輩に叱られ、俺たちはハッとして口々に謝るが、

「おーい! お前ら早ぇな!」

 俺たちよりも、もっと大きな声が改札からやってきた。

 八坂先輩だ。

 二宮先輩は深いため息をついて、頭を抱える。

「静かにしろ、馬鹿」

「あん!? 第一声が馬鹿とはなんだ!」

 八坂先輩と二宮先輩が言い争う。いつもの光景だ。

「全員揃ったな。バス乗るぞ」

 主将の七井先輩が部員達を見渡してから、先導する。八坂先輩が最後の一人だったのだ。

「五十嵐はこの球場初めてだよね、はぐれないようにね」

 ゾロゾロと歩き出した軟式野球部御一行の最後尾に、五反田先輩がつく。俺は力強く頷いた。

 ――みんなとなら、勝てる気がする。

 俺は自然と、拳を強く握りしめていた。



 夏の初戦が始まった。

 一回の表。

 牽制の話をしていたせいか、妙に相手投手の投球フォームが気になってしまう。

 俺は一塁に出た時、タイミングを見計らって二塁へ走り出す。

 投手が投球した球を捕球したキャッチャーが二塁に投げてくるが──俺のほうが速い。

 二塁への盗塁に、危なげなく成功した。

 元々、足は速いほうだと自負しているが、我ながら、結構綺麗に決まったんじゃないか?

 続く三浦が軸足を若干前に出して、ボールを地面に叩きつける。初対面で俺がしたアドバイスを律儀に守っているらしい。

 スピードの乗ったボールは二遊間を抜けた。

 無死一、三塁。

 そして、次の八坂先輩がセンター前ヒット、俺はホームに戻って来られた。

 あいにく、続く打者は、三者連続アウトを取られてしまったが。

 一点先制で始まった一回表。

 かなり順調だ。

 ――練習試合の時も、こうだったんだよな。

 油断はいけない、と気を引き締める。

 とはいえ、公式戦は一試合だけだ。練習試合のように一日に何試合もこなすわけじゃない。五反田先輩だって、控えにいてくれている。

 今日こそは、もしかしたら、最後までグラウンドに立てるかもしれない。



 三回の表。

 得点一対〇で有利のまま、俺は再びランナーとして一塁ベースを踏んでいた。

「……お前、中学ん時、雑誌に載ってた、五十嵐だろ」

「え……」

 びっくりして振り返る。

 相手校のファーストが、こちらを見ずに話しかけてきた。

「噂で聞いたんだけど、うつ病ってマジ?」

「……っ」

 何も答えないことをイエスと受け取ったのか、ニヤニヤと笑いながら、彼は続けた。

「チームの中でお前が一番上手いけど、一番お荷物なのもお前って、なんか笑えるな」

 お荷物……。

 梅雨の時期に、いじめてきた先輩にも言われた言葉。

 まさか、ここでも言われるなんて。

 ──誰がどう見ても、俺は野球部のお荷物なんだ……。

「リーリーリーリー!」

 一塁ランナーコーチの六雅の声が耳に届く。

 六雅は多分、部で最も迷惑をかけている。

 六雅も、みんなも……本心では、思っているかもしれない。

 ──面倒なやつって。

 急に、怖くなった。

 動くのが──失敗が、怖い。

 みんなにこれ以上迷惑をかけて、これ以上、お荷物と思われるのが──怖い。

 ピッチャーが投球姿勢に入っても、俺は盗塁に走れなかった。



 結局その回は得点までランナーを進めなかった。

「五十嵐くん、相手のファーストと何喋ってたの?」

「あ、いや……別に」

 攻守交代となり、ベンチに戻る時、並走してきた六雅に尋ねられるが、要らぬ心配をかけたくない俺は、つい、どもってしまう。

「何か変なこと言われたでしょ。お荷物とかなんとか」

 ……聞こえてたんじゃないか。

「……なんか、俺の病気、知ってたみたいで。一番お荷物で笑えるって、言われた……」

 観念して白状すると、六雅は表情を歪めた。

「そんなの……っ」


「なんで? 五十嵐がお荷物なわけねーじゃん!」


 六雅が言い切る前に、ベンチから三浦があっけらかんと笑い飛ばした。

 俺と六雅は三浦を見る。頭の後ろで手を組んで、「何を言ってるのか意味がわからない」という風な表情をしていた。

「俺、五十嵐のお陰でエラー減ったし! バッティングも良い感じだし!」

「三浦……」

 九瀬も三浦の隣でうんうん、と首を上下させている。

「そうですよ。僕も送球、速くなりましたもん」

「九瀬……」

 俺のお陰じゃなくて、ちゃんと練習している二人の実力であって……と言おうとしたが、二宮先輩に頭をぽんぽんと叩かれ、口が止まる。

「五十嵐。チームの役に立っているやつを、お荷物とは呼ばない」

 ──チームの役に立っている。

 三浦と九瀬は笑みを浮かべていた。

 俺は、どんなに言葉で「そんなことないよ」と慰められても、すぐ否定してしまう。

 しかし、三浦と九瀬に「助かった」と言われている以上、事実の羅列は言い逃れができない。

「返事は」

「はいっ!」

 促されて、大きく返事をする。二宮先輩は満足そうに笑った。

 ──俺、今日は九回までプレーできるかもしれない。

 そう思った矢先だった。


「五十嵐、交代だ」


 監督が告げたのは。

「え……」

 こんなに調子がいいのに?

 今からって時なのに?

 納得がいかない俺は、食い下がった。

「お、俺まだ元気ですよ! 何か、やらかしましたか!?」

「いいから、交代だ。五反田」

「はい」

 有無を言わさない監督は五反田先輩に顔を向ける。

 呼ばれた五反田先輩は既にアップを済ませていた。

 五反田先輩が、俺の肩に手を乗せる。

「五十嵐さ、体力が底を尽きるまで、頑張ろうとしてない?」

「え……」

 違う、のか……?

「五十嵐がするべき努力は、『頑張らないことを頑張る』努力だよ」

「…………?」

 頑張らないことを、頑張る……?

 ──確かに、九回まで立てるかも、と思ったが……。

 正直、家に帰るまでの体力は考えていなかった。

「まあ、先輩の活躍を見ときな」

 五反田先輩は意味ありげに笑う。

「はい……」

 その背中が、なんだかとても頼もしいものに見えた。



「う、わぁ……」

 思えば、みんなが試合をしているところを、外から見たのは初めてかもしれない。一度早退してから、練習試合には行かなくなったし――

 俺と交代した五反田先輩は、サードゴロをセカンドに送球して、ダブルプレーに貢献していた。

 俺が、練習試合で見せたプレーだ。本当に参考にしてくれたんだ。

 ヒットになりそうな当たりがライトに飛ぶと、九瀬が捕球して素早くファーストに送球。ライトゴロに変えて見せた。

 九瀬が悩んでいた捕球から送球までのフォームが、前よりも良くなっている。

 あっという間に、スリーアウトをもぎ取ってベンチに戻ってくる面々。

 俺は何か良い感じの言葉をかけられないかと口を開くが──金魚みたいにパクパクさせただけで終わった。

「っふ、変な顔」

 一ノ瀬に鼻で笑われてしまった。

 恥ずかしくなって、顔が赤くなる。

「なんか変な気ぃ遣ってんだろ、やめとけ」

 四季に帽子のツバを上から叩かれた。目深になってしまった帽子を被り直そうとすると、また誰かに叩かれ、目深になる。

 顔を上げると、八坂先輩。

「だから、お前一人いなくても楽勝なんだよ。いーから、俺の勇姿をスコアボードに刻んどけ」

「俺の、じゃなくて、俺らの、な」

 水を飲んでいた二宮先輩が訂正する。

「……ま、そういうことだ」

 いつの間にか、後ろに七井先輩が立っていた。

「お前ん中で、色々思うことはあるんだろうけど、今のお前でも野球ができるって、俺らが勝って証明するから」

 大人しく見とけ、と七井先輩が俺の頭をぽんぽんする。

「七井先輩……」

「いけー! 六雅ー!」

 他の部員の声援にハッとする。

 先頭打者の六雅が既にバッターボックスに入っていた。

「声出しは、できるな?」

 ニヤリとする七井先輩。

「はい!」

 俺は大きく返事をした。



 そこからは、快進撃だった。

 サインにめちゃくちゃ首を振る生意気な一年生投手の一ノ瀬にも、根気強く対応するキャッチャーの二宮先輩。生意気すぎやしないか、ちょっとヒヤヒヤした。

 朝、会話した通り、一ノ瀬はフォアボールで出した一塁ランナーを牽制で刺してみせた。牽制球を捕球したファーストの三浦は笑顔でワンナウトと叫ぶ。ライトの九瀬は丁寧に拍手していた。左手にグローブをしているから、綺麗な音は鳴らないが。

 一塁にランナーが出てしまった時、セカンドゴロを四季が捕球して、セカンドカバーに入った六雅にすぐさま放り投げた連携はすごかった。甲子園でも稀に見る好プレー。さすが双子って感じだ。

 体格のいい八坂先輩の力強いバッティングや、安定したバントを決める七井先輩が追加点を決める。

 五反田先輩に至っては、大きなミスがなかった。初心者らしからぬプレーだ。

「……実はな、練習メニューの変更は、五十嵐だけじゃないんだよ」

「え?」

 守りの回。誰もベンチにいない時間に、監督が呟くように、こっそりと教えてくれた。

「八坂が、五十嵐ばっかに頼ってらんねぇって言い出したんだ。五十嵐のいない日は、きつい練習メニューを組んでくれって、部員全員に頼まれた――だから、基礎の基礎を叩き込んだ」

 俺は知ってる。

 基礎練は、つまらないんだ――でも、一番大事な練習だ。

「みんな、お前がすごいのも、頑張ってるのも、知ってるんだよ」

「…………はい」

 そう返事をするのが、やっとだった。

 もっと喋ったら、泣いてしまいそうで。



 ――みんなは、本当に初戦を突破してしまった。

 勝利が確定した瞬間、俺はベンチを出て、グラウンドへ駆け出す。

 俺と交代して、残り六回を守り切ってくれた五反田先輩が、最初に声をかけてくれた。

「僕と五十嵐で、一人前だね!」

 ――そうか。

 病気でも、体力がなくても、『頑張らないように頑張ったら』、試合に勝てるんだ。

 また、大好きだった野球が、楽しめるのか。


 ――みんなと一緒に。


「も〜! すぐ泣くんだから〜! 涙は決勝戦まで取っておいてよね!」

 一ノ瀬にからかわれて、みんなが笑う。

 俺も、大声を出して笑った。

 心の底から笑ったのは、数年ぶりだった。

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天才野球少年は三回裏からベンチウォーマー よこすかなみ @45suka73

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