6 練習試合
梅雨が明けた、晴れた日。
「来週の日曜日、練習試合組めたぞ」
アップ後の集合時、監督に言い渡されたのは、俺にとって死刑宣告のようなものだった。
――練習試合、だって……?
通常、練習試合は一日に二試合行う。しかし、今の俺に、二試合どころか、一試合こなせる体力があるとは到底思えない。
……帰る前に、監督に欠席しますって伝えよう。
監督の話が終わって、次のメニューに移る前の休憩時間になると、
「おい、五十嵐。練習じゃなかなかやるようだが、試合じゃどんなもんか、見せてもらおうじゃねーか」
二年生の八坂先輩が肩を組んできた。
最初は「うつ病なんて気合いで治せ!」と喧嘩腰だったが、一緒に練習を重ねて、どうやら野球の実力は認めてくれたようだ。
「いや、あの、俺は……」
「試合には出られない」なんて、とても言える雰囲気じゃない。
「五十嵐のお披露目会だな」
いつの間にか二宮先輩も隣に来て、うんうんと頷いている。
「俺は中学の頃から、五十嵐はすごいやつだと思っていたから。お前が試合で活躍するところがまた見れるなんて、嬉しいよ」
二宮先輩の過大評価だ。俺はそんなに、たいそうな人間じゃない。
二宮先輩は、視線を俺から八坂先輩に移す。
「五十嵐が一人いれば、後はキャッチャーの俺のリードでなんとかなる。八坂は試合に来なくていいぞ」
「はぁ!? なんだとテメェ! 捕手がどうリードしたところで、打たれる時は打たれんだよ! センターの俺がいなくてどうすんだ!」
二宮先輩の挑発に綺麗に乗る八坂先輩。幼馴染二人が言い争いを始めたので、俺はそっと離れた。
「五十嵐」
俺が離れたタイミングを見計らったのか、五反田先輩が、笑顔で近づいてきた。
「練習試合、楽しみだね。同じポジションとして、参考にさせてもらうよ」
五反田先輩のポジションは、俺と同じサード。通常、同じポジションの人間が二人いる場合、二試合の練習試合を一試合ずつ出場することになる――俺が出られれば、の話だが。
「五反田。五十嵐は、判断力がすごいから、よく見とけよ」
五反田先輩と同じ三年生の七井先輩が、水筒を飲みながら、こちらを見ていた。
「判断力って?」
五反田先輩が聞き返す。
「ボールを捕ってから、どこに投げるかっていう時。迷わず、一番勝利に貢献するところに投げるんだよ、こいつは」
「へ〜!」
初心者の五反田先輩に、分かりやすく説明する七井先輩。
七井先輩は、今も昔も変わらずレフトだ。サードの真後ろにいるから、俺や五反田先輩の守備がよく見えるんだろう。
「よし、そろそろ始めるぞ!」
「あーっす!」
監督の呼びかけに、全員がグローブを構えて、グラウンドに走り出す。俺はみんなの背中を見ながら、心の中で頭を抱えていた。
――期待、されている。
練習試合に、当然行くと思われている。
――裏切るわけには、いかない。
俺はグローブに拳を叩き込んで、気合を入れた。
練習試合当日。
場所はウチの高校のグラウンド。相手校がこちらまで赴いてくれる。移動に余計な体力を使わなくて済むのは、ラッキーだった。
天気もいい。体調も悪いわけじゃない。
睡眠障害が完治したわけではないが、比較的眠れたほうだと思う。アップもいつも通り。
……うん、軟式野球部に入ってから、前より体を動かすようになったし、予想以上に体力がついてきているのかもしれない。
――一試合もプレイできないかも、なんて、ビビりすぎか。
己の成長を甘く見ていた自分に苦笑する。
試合が始まっても、やっぱり順調だった。
四回裏。一死一塁の守り。三遊間のゴロをダイビングキャッチして、二塁に送球。セカンドの四季が捕球し、ベースを踏む。四季からファーストの三浦へボールが渡り、ダブルプレー。
スリーアウトでベンチに戻ると、みんなに頭をわしゃわしゃされた。
「すごいね、あの体勢から二塁に投げるなんて」
控え選手兼記録係として、ベンチに座っている五反田先輩に褒められ、悪い気はしない。
「いけると思ったんで。一塁ランナー、足遅かったし」
「そういうところも、よく見てるんだね」
親しみやすい笑顔を投げられ、俺も釣られて笑い返す。
――今日はなんだか、調子がいい。
このまま九回まで、どころか二試合あってもこなせる勢いだ。五反田先輩がいるから、二試合目は遠慮なく記録係に回らせてもらうけれど。
そう思っていた、五回裏の守り。
守備位置について、腰を落とした瞬間。
体が、急に動かなくなった。
ずん、と重力が五倍になったみたいに、重くなった。
――――え。
なんで、今。
こんな、突然。
体が、だるい。
足が、動かない。
腕も、上がらない。
声、声出せ。
「……っ!」
思うように声も出ない。目が熱くなる。涙で、視界が歪む。泣いてる場合じゃない。泣くな、泣くな。ボールが飛んできたら、どうすんだ。
――頼む、こっちに飛んで来ないでくれ……!
「……?」
キャッチャーマスク越しの二宮先輩と、目が合った気がした。
幸いにも、スリーアウトになるまで、ボールはサード方向に飛んでこなかった。
交代だ。
ベンチに戻らなければ。
腰を落とした体勢からゆっくり力を抜き、普通に立つ。
あとは、右足を前に出して、それから左足を前に出すだけ……。
「五十嵐くん、大丈夫?」
サードから最も近い位置を守るショートの六雅が、隣にいた。
六雅の顔を見ると、人が来てくれたことに安心して──涙がさらに溢れ出た。
「四季!」
六雅が双子の兄を呼ぶ。セカンドの四季は、呼ばれただけで事情を察したのか、すぐに近寄ってきた。双子に両脇から支えられ、よろよろとベンチに戻る。
なんとかベンチに座るが、溢れ出る涙を堪えきれない。
「……っ! うぁ、あぁぁ……っ!」
みんなに注目される中、息を切らしながら泣いた。
「五十嵐の様子がおかしいから、サードに飛ばないように組み立てた」
「あぁ、だからリードが偏ってたんですね」
バッテリーの二宮先輩と一ノ瀬の会話が聞こえる。投手に楽をさせるどころか、二人に気を遣わせてしまった自分が情けない。
「……五十嵐」
監督の声にハッとして顔を上げる。正面に、腕を組んで悩ましげな監督が立っていた。
「もう帰れ。今日は無理だろ」
「…………はい」
──従うしかない。
今の俺には、「まだやれます!」なんて大見栄を張る体力も気力も、残されてはいなかった。
チームメイトの視線を背中に受けながら、荷物がまとめてあるベンチの裏側へ、すごすごと退散する。
「五十嵐、一人で駅まで行けるか?」
「え…………」
二宮先輩に問われるが、答えられない。
……分からないのだ。
途中で転倒でもしたら、起き上がれなくなるかもしれない。
転ばなくても、歩けなくなって、しゃがみ込んでしまうかもしれない。
黙りこくってしまった俺に、二宮先輩は、
「俺、送るよ。相手校に話つけてくる。帰る支度が終わったら、ちょっと待ってろ」
と言って、走り去ってしまった。
――俺のせいで、試合を中断して、対戦校にまで迷惑をかけるのか。
俺がいることで、色んな人を煩わせている。どうして生きているんだろう、俺は。
死にたくなる。
消えたい。
「……着替えないと」
力の入らない手で、練習着をようやく脱ぎ始めた。
体を上手く支えられない俺は、不恰好ながら、コアラのように二宮先輩の左腕に縋り付いて歩いていた。
男同士で引っ付くなんて申し訳なかったが、二宮先輩からの提案だったので、ありがたく杖代わりにさせてもらった。
「ごめんな、プレッシャーかけて」
ぽつりと、二宮先輩が謝罪した。練習試合前に期待の言葉を浴びせた件についてのようだ。
俺はブンブンと首を横に振る。
「先輩は悪くないです。俺が悪いんです、俺が全部……」
「五十嵐……」
そう、誰も悪くない。俺が耐えきれなかったのが悪い。たかが一試合。それも練習試合。
それなのに、こうして、たくさんの人に気を遣わせてしまっている。自分の存在意義が分からなくなる。
「五十嵐いぃ!」
背後から、大声で名前を呼ばれた。
振り返ると、こちらに向かって八坂先輩が走って来ていた。あっという間に。俺たちに追いついて来る。
「お前、無理なら無理って言えよな! 途中で帰られるほうが迷惑なんだっつーの!」
──途中で帰られるほうが迷惑。
そうだ、途中で帰るくらいなら、最初から休めばよかった。勝手に期待されていると思って、無理を承知で来て――結果、試合を中断させている。
「……すみません」
蚊の鳴くような声を絞り出すのが精一杯だった。
涙の膜が目の表面を覆う。
──正論言われたからって、泣くなよ、俺。
「おい八坂。そんな言い方ないだろ。五十嵐だって」
「いいから、お前は、これ持ってろ」
二宮先輩の反論に聞く耳を持たず、八坂先輩は俺のエナメルバッグを奪い取った。それを二宮先輩に押し付ける。
そして、背中を向けてしゃがみ込んだ。
「乗れよ」
「えっ……」
「泣き出して動けなくなるやつが、駅まで歩けるわけねぇだろ」
「早くしろ」と睨まれて、俺はおずおずとその広い背中に体重を預けた。汗で湿っている。
……八坂先輩だって、試合中で疲れているはずなのに。
八坂先輩は、俺の両足を持って立ち上がり、歩き出す。その隣、荷物を持った二宮先輩が歩いた。
「素直じゃないな」
「うっせ」
野球の練習着で目立つだろうに、二人は改札前まで見送ってくれた。
そのお陰で、なんとか家まで帰ることができた。
帰宅しても、両親は仕事でいない。
誰もいない家で、一人、自分の部屋に入る。ベッドに沈み込むと、自分の上に誰か乗っているんじゃないか、と疑いたくなるくらいの倦怠感が襲ってくる。
……みんな、怒ってないかな……。
グラウンドから去る直前のチームメイトの顔が思い出される。
不安そうに見てくる六雅と九瀬。四季から事情を聞く三浦と一ノ瀬。俺の様子を伺いながら、話し合う七井先輩と五反田先輩。駅まで送ってくれた二宮先輩と八坂先輩。
怒っているようには見えなかったけれど、何かしら思うところはあっただろう。
――これ以上、迷惑はかけられない。
『死んだほうがいいよ』
声が、聞こえた気がした──うつ病になってから現れるようになった、もう一人の自分の声だ。
絶対に褒めてはくれない、俺を客観視しては、責め立ててくる存在。
『みんな頑張ってるのに、こんなに迷惑かけてさ。早く死ななきゃ』
ベルトとドアノブを使えば、首を吊れるらしい。
俺は制服のズボンから、ベルトを抜き取った。体を引きずるようにして、ドアのほうへ向かう。
『辛いのはお前だけじゃない。こんなことも頑張れないで、生きてる意味、ある?』
震える手で、ベルトを部屋のドアノブに引っ掛け、結びつける。
『死ねよ』
次から次へと溢れ出る涙も拭えない。
ぐしゃぐしゃの顔のまま、ドアノブから垂れるベルトで作られた輪っかに、頭を通そうとした。
その時――
ヴーッ!
「……っ」
尻ポケットに入れっぱなしだったスマホが揺れた。
ほぼ条件反射で取り出して、画面を見る。
ロック画面に表示されるメッセージ。
「七井先輩……」
『お前のおかげで、練習試合勝ったぞ』
俺が帰ったあと、勝ったんだ……。
良かった……。
でも……。
「……俺のおかげじゃなくて、みんなが頑張ったからですよ……」
返信しようと画面をタップする。
ヴーッ!
連続して、またメッセージを受信した。
今度は五反田先輩だ。
『今日はお疲れ様。五十嵐くんのプレーを参考にしたら、いい動きができたよ。ありがとう』
「ありがとうって……」
……俺は、お礼を言われるような人間じゃない。
五反田先輩からのメッセージは続いた。
『また一緒に野球するの、楽しみにしてるね』
……先輩は、こんな俺でも、一緒に野球するの楽しいのかな。
気を遣わせているだけかもしれない。
あの部の人たちは、みんな優しいから。
死のうとした時とは違う涙が、また溢れてくる。
それからも、続々と部員たちからのメッセージは届いた。
グループチャットのほうではなく、わざわざ、個人で。
『今日はゆっくり休んでね〜』と、一ノ瀬。
『体で止めるって分かったぞ! 次はちゃんと見てくれよ!』と、三浦。
『お疲れ様です。調子が悪い時は、湯船に浸かると気持ちいいですよ』と、九瀬。
『次から少しでもしんどくなったら、遠慮しないで言ってね』と、六雅。
『前も言ったけど、辛い時は辛いって言っていいんだぞ』と、四季。
『休息も大事なトレーニングだから、しっかり休めよ』と、二宮先輩。
『俺らに悪いとか舐めたこと考えんなよ。お前一人いなくても楽勝だわ。だから、また部活来いよ』と、八坂先輩。
俺はドアノブに引っ掛けていたベルトを解いた。
床に放り投げる。ベルトの金具が床にぶつかって、カチャン、と少しだけ乱暴な音がする。
俺はベッドまで歩いて、ボスンと、うつ伏せで沈んだ。
涙が、ベッドカバーに染み込んでいく。
……まだ、ここにいてもいいのかな。
返信しなきゃ、と思っているうちに、泣き疲れたせいか、深い眠りについていた。
悪夢は、見なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます