5 梅雨

 軟式野球部に入部して早三週間。

 みんなとは違い、一、二時間で早退してしまうけれど、野球が好きなお陰か、ほぼ毎日部活に顔を出せていた。

「バックファースト!」

 内野のシートノック──サードの俺に、バットを持った監督がゴロを転がす。俺はそれをさばいて、ファーストに送球した。

 ボールは地面につくことなく、ファーストの三浦のミットに収まる。

 パァン!

 軽快な音が、曇り空に鳴り響いた。



「五十嵐、軟式球でサードからファーストにノーバンで送球できんのすごくね?」

 シートノック後の休憩中、三浦が話しかけてきた。

「俺さ、ショーバン捕るの苦手だから、めっちゃ助かる」

 ショーバンとは、ショートバウンドの略。ボールが地面に落ちた際、めちゃめちゃ小さく弾む現象のことで、捕球が難しい。

 俺は水筒から口を離す。

「ショーバンを完璧に捕ろうとするんじゃなくて、まずは体で止める意識から始めたらいいと思う」

「体で止める……」

「そう。とにかく後ろに逸らさないって気持ちで」

 三浦は俺の助言を体現するように、目の前でしゃがんで見せる。「そうそう」と俺が親指を立てると、ニカッと笑った。相変わらず笑顔が眩しい。

「ぼ、僕も、いいですか?」

 俺と三浦の会話を聞いていたのか、九瀬が挙手をして入ってきた。

「初歩的で恥ずかしいんですけど、フライからの送球が遅くて……」

 九瀬はライトだ。長打を最低限のヒットに抑えるには、捕球から送球への滑らかな動きが要求される。場合によっては、ヒットをライトゴロにする可能性もゼロじゃない。

「じゃあ、利き手を添えて、捕球するようにしてみて」

 九瀬が左手を捕球するグローブのようにして顔の前に掲げ、その横に利き手である右手を添えた。

 俺は近くにあったボール入れからボールを一つ取り出し、軽く投げる。それを左手でキャッチして右手に移してピッチングの構え。左手と右手が至近距離にある分、滑らかな動きになるはずだ。

 それを実感したのか、「なるほど」と九瀬は小さく呟いた。


 ――ぽつり。ぽつぽつ。


 俺の手と九瀬の手に、雫が跳ねた。空から、どんどん雫が降ってくる。

「みんな、一回荷物持って、屋根の下行くぞ!」

 監督と五反田先輩の指示のもと、俺たちは大切なグローブを濡らさないように抱えながら、部室の方向へダッシュした。



 しばらく待ってみたが、雨足は強くなる一方で、とても止みそうになかった。

 監督と五反田先輩が顔を見合わせている。

 しばらくして、今日の部活は中止だ、と伝えられた。そのまま各自着替えて解散。ストレッチだけはちゃんとするように、と。

 俺は部室の隅でふくらはぎの筋肉を伸ばしながら、窓越しに空を見つめる。

 ……雨、か。



 翌日、日本列島は梅雨入りを果たした。

 俺は机に突っ伏して動けない。なんとか倦怠感溢れる体を引きずって登校したはいいものの、授業を受けているとは言い難い状態のまま、昼休みに突入した。

 低気圧で体調が悪くなる人は一定数いるが、うつ病になってから天候や気圧、気温の変化に振り回されるようになった。季節の変わり目なんかは、特に体がだるくなり、動けなくなる。

 ……こんなに弱い体じゃなかったのに。

 そんなことを考えていると、泣きそうになる。

 俺は目尻から溢れた涙をそっと袖に滲ませた。

「五十嵐くん、大丈夫?」

 六雅の声が頭上から降ってきた。六雅とはクラスが違う。わざわざ来たってことは、用があるのか。

 俺は鼻を一度啜ってから、顔を上げる。案の定、心配そうな顔をした六雅が、俺を見下ろしていた。

「あのね、今日は雨だから室内練をやるんだ。五十嵐くん、雨の日の練習初めてだから、集合場所とか色々伝えようと思って来たんだけど……」

 無理そうだね、と目線が言っている。否定できない自分が悔しいし、情けない。

「ごめん……。今日はこのまま帰る」

「分かった、監督には、僕から言っておくね」

 六雅は笑った。俺に気を遣わせまいという笑顔だ。

 ……優しい。

 その優しさが、申し訳ない。

 俺が荷物をまとめ始めると、六雅は近くにいたクラスの男子に「五十嵐くん早退するから、先生に言っておいてもらえる?」と、伝言まで手配したのち、「心配だから」と昇降口まで一緒についてきてくれた。

 何度お礼を言っても足りないくらいだ。頭を下げようとしたら、強めの口調で止められた。



 ──雨、雨、雨。

 あれから雨が降らない日はなく、ずっと室内練を休み続けた。部活を休んでもう一週間になる。できるだけ登校しようと心掛けてはいるものの、学校に来られない日すらあった。

 かろうじて出席した今日も雨だ。移動教室のため、教科書とノートを持ってフラフラ廊下を歩く。

 眠い。だるい。

 俺の周りだけ重力が強くなっているんじゃないか。

 ……みんなは、室内練に来ない俺をどう思ってるんだろう。

 きっと、室内練が嫌だから休んでる、と思われているんだろうな。

 休みたくて休んでるわけじゃないが、そう見えても仕方ない。見た目じゃ辛いかどうかなんて分からないから。いっそ、頭から流血でもしてくれれば、他人の理解も得やすいのに。

 ――まぁ、雨ごときで動けなくなる俺が、一番悪いんだけど。

 自己嫌悪がどんどん胸の中で渦を巻いていく。止められない。

俺、部活に入っている意味あんのかな、そもそも学校に来ている意味――生きてる意味、あんのかな……。

 下を向いて足元だけ見て廊下を進む。正面に立つ誰かの足が見えて、避けようと顔を上げた先に、一ノ瀬と四季が談笑していた。

「あ…………」

 俺は再び俯き、二人の横を素通りした。

 チームメイトだから、挨拶くらいするべきだった。分かってる。でも、今日どころか、一週間以上部活を休んでいる俺が、二人にどんな顔すればいいんだよ。

 ……俺は、なんてダメなやつなんだろう。



 次の日も雨だった。

 俺は昼休みに職員室に赴いて、監督の姿を探す。座席に座って作業しているところに声をかけ、体調不良で部活を休むことを伝えた。監督は「無理するなよ」とだけ言ってくれた。

 ……無理、か。

 どこからが無理で、どこまでが頑張るべき範囲なんだろう。

 うつ病になってから、幾度となく投げかけられるこの慰めに、いつも戸惑ってしまう。

「よう、五十嵐」

 職員室から出たのに、職員室側から声をかけられた。振り返る。


──昔、俺を退部に追い込んだ先輩のうちの二人が、ニヤニヤして立っていた。


 ヒュッと、喉から変な息が出た。

 心臓の鼓動が激しくなり、嫌な汗が背中を流れる。

「聞こえたぜ? お前、雨の日は役に立たないんだってな。折角、俺ら避けて軟式まで行ったのに、ずいぶん立派なお荷物になったもんだな」

「マジ笑える。さっさと野球辞めちまえよ」

 あはは、と二人の先輩は笑い合う。動悸を止めようと、心臓あたりのワイシャツをぎゅうと握りしめる。足が震えて、力がうまく入らない。何も言い返せなければ、立ち去ることもできない。

 何かを言おうものなら、声が掠れているだろう。

 涙が、目尻に溜まった。


「べっつに、雨なら野球できないんだから、よくなーい?」

 

 わざとらしく大きい声が、廊下から飛んできた。

 声のほうに振り返る。一ノ瀬が、頭の後ろで手を組みながら、こちらへ歩いてきていた。

「そもそも室内練好きなやつなんて、いないだろ」

 四季も一緒だ。外部から入学してきた高入の一ノ瀬はともかく、中学もこの学校の野球部だった四季は、相手が先輩だと認識した上でタメ口をきいている。一ノ瀬も四季も、目が笑っていない。

二人が先輩たちを睨みつけると、先輩たちは「……フン」と鼻を鳴らしてどこかへと去って行った。

 入れ替わるように一ノ瀬と四季が寄ってくる。

「大丈夫? あの人たちが中学の時いじめてきたっていう先輩? ブサイクだったね」

 可愛らしい見た目とは正反対の一ノ瀬の言葉に、「顔は関係ないだろ」と思わず笑みが溢れた。徐々に動悸も治まっていく。

「ごめん、ありがとう……、俺、二人のこと避けちゃったのに……」

「避けたって何……、あぁ、昨日廊下ですれ違ったやつか」

 四季が思い出すように目線を上にやる。

 俺がもう一度謝罪の言葉を口にするより、四季が喋り出すほうが早かった。

「いや、避けたっていうか、めちゃくちゃしんどそうだったじゃん。『人と話す余裕ありません』って顔に書いてあったぜ。そんなやつに挨拶されなかったからって、なんとも思わねーよ」

「馬鹿だな」と笑いかけられて、俺は今まで堪えていた涙が溢れ出てしまった。

 袖で拭いても、止まらない。

「もー、泣かないでよー、僕たちがいじめたみたいじゃーん」

 背の低い一ノ瀬が背伸びをして、頭をよしよしと撫でてくる。四季は紺色のハンカチを取り出して、俺の顔面を雑に拭った。

「お前さ、辛いなら辛いって言っていいんだからな」

 優しい。

 二人とも、優しすぎる。

 俺は「ごめん」と繰り返すことしかできない。

「室内練出られなくて悪いと思うなら、野球できる日にプレーで活躍してくれよな」

 四季の言葉に「名案!」と、投手の一ノ瀬が顔を輝かせた。

「そーそー! ピッチャーに楽させてねー」

 ……そうか、雨の日に動けないなら、晴れた日に、野球で貢献すればいいのか。

 ――それで、いいのか。

「ありがとう、一ノ瀬、四季」

 涙でぐしゃぐしゃの顔で笑うと、二人とも笑い返してくれた。

 その日から、雨の日に罪悪感を抱くことはなくなった。

 体がしんどいのは変わらないけれど。

 ――辛い時は休んで、元気な時に、恩返しをしよう。

 もっと頑張ろうと、心に誓う。

 こんな俺でも待っていてくれる、軟式野球部のみんなのために。

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