分析マンデー

獅子一六

分析マンデー

 春になると、いつになく心がのんびりとして穏やかになる日が時々あるが、彼と一緒に1軒のカフェを訪れたのも、ちょうどそんな日であった。

 その月曜日の夕方、待ち合わせ場所の寂れた駅に姿を現した彼は、少しゆるんだパーマに白いセーターを羽織り、赤いマフラーを首に巻きつけていた。もう4月で、気温は、夜、毛布一枚で眠れるほどには暖かかったのだが、彼には、道を行き交う人々が半袖を着だすようになるまでは、マフラーをつけたままにする、という変わった習性が、昔からあったのである。

 私たちはひとしきり近況を話し合ったあと、かつて私たちが高校生だったころ、よく訪れたカフェに足を向けた。

 私たちが初めて出会ったのは、ちょうど7年前のこの季節であった。その日は高校の入学式だったが、式が終わったあとも、私は昇降口の横に立ち、1人でぼんやりとしていた。両親は共に仕事で忙しく、来ていなかったし、入学者の中に同じ中学校出身の知り合いはいなかったのである。

 そんなわけで1人でいた私に、声をかけてくれたのが彼であった。

 気の毒に思ったのか、初対面の私を自分の脇に立たせ、彼の両親はにこやかにそれを撮影した。長すぎるスラックスの裾を折り返し、だぶだぶのブレザーを羽織った彼は、そのときもやはり赤いマフラーをつけていた。そのときからずっと、私たちは高校の3年間を、共に泣き、共に笑って過ごしたのである。

 しばらくして分かったことなのだが、彼には、赤いマフラーの他にも、一風変わった習性がたくさんあった。たとえば、映画を観るのは絶対に午前中と決めていたし、小説は1日4000字までしか読まない(これは、彼自身が小説を書くときに、1日に書けるのが最大4000字だからだそうだ)。そして、大のコーヒー好きなのだ。彼と仲が良かったおかげで、私の高校生活の半分は、カフェをめぐることに費やされた。

 そんなわけで、駅から歩いて数分のところにあるカフェは、彼と私が高校生のときに盛んに訪れたカフェだった。

 私たちは一番奥のテーブルに席をとり、彼はウェイターによく分からない名前のコーヒーを注文した。若い男のウェイターが愛想よく私の方を見たので、「彼と同じものを」と短く言った。当初は戸惑っていた私も、3年間を過ごすうちに、こう言うのが一番ストレートだと学んだのだ。それに彼が選ぶコーヒーは、いつも美味しかった。

「それでね、この前、とても興味深いことがあったんだ」

 コーヒーを3回ほど重ねて注文し、ウェイターの髪型についての議論を長々と戦わせたあと、彼が言った。彼は、ウェイターがつけているヘアワックスに含まれる物質が、環境にどのような影響を与えるかということについて熱弁をふるい終わったところだった。対する私は3杯目のコーヒーを口に含みながら、聞いていることを示す相槌を打った。

「ほら、君がぼくのアパートに泊まりに来た日があったろう?」

 彼はウェイターが残していった布おしぼり・・・・・を、細長い指でもてあそびながら続けた。彼がかなり熱心な環境保護論者で、このカフェを気に入っている理由の1つは「環境にやさしい」ものを使っているからだということを、私はふと思い出した。

「その1週間くらい前のことだったかな。真夜中に、ぼくは目を覚ました。素晴らしいアイデアを思いついたんだよ」––彼は美大生だった––「知ってるだろうけど、ぼくは常々、環境汚染の深刻さをうったえる作品を作りたいと考えてる。だから、いつもは極力、環境負荷が低い素材を使うんだけど、今回は逆の発想をして、あえて環境負荷が高い素材を使った。うん、人生で最高の出来だったね、あれは。

 それから、できたそれをシンクの横の窓枠のところに置いておいたんだ。そりゃ、そんなところに置くべきじゃないってことは分かってるさ。でも、机の上だとどうにも心地悪くてね。一番しっくりきたのがそこだったんだ、分かるだろ?」

「ああ、分かるとも」

「それで、ちょうど君が泊まりに来た日の翌日だったと思うんだけど、ふと窓枠を見たら、消えてるんだ」

「何が?」

「作品だよ。前の日の朝までは確実にあったのに。しかも、部屋の鍵はどこも空いてなかった。つまり、密室だったのさ」

 彼は瞳を輝かせて身を乗り出した。彼がミステリーをこよなく愛していることは、昔からよく知っていたが、これは少し妄想がすぎやしないだろうかと思った。「でも、家の中の他の場所に、無意識に移動させてたとかじゃないのかい?」私はウェイターのベストの端から垂れている糸切れを目で捕まえながら聞いた。

「それは絶対にないよ」

 答えはすぐに返ってきた。

「絶対にない。知ってるだろ、ぼくのアパートは一部屋しかないんだ。いいかい君、これはれっきとした密室消失事件なんだよ」

 私は彼に視線を戻した。真剣で熱っぽいその表情を見て、私は乗ってやることにした。確かに、彼のアパートはとても狭く、私は彼のベッドの下に身体を押しこんで寝たのだ。

「じゃあ、こういうのはどうだい。朝起きて、君は窓を開けた。そのとき、作品が……それっぽくAとでもしとこうか、Aが巻き込まれて窓の外に落ちた。そのあと窓枠を見た君は、Aが消えたと錯覚した」

「いや、ぼくは窓を開けてないよ。それに、Aは、落ちたんじゃなく盗まれたんだ」

「盗まれた!何のために」

 彼は、まるで私が「太陽はどこから昇るの?」と聞いたかのような顔をした。

「ぼくの芸術作品が素晴らしかったからだよ。価値があったからさ」

 私は一瞬黙った。彼の作品を何点か、見たことがあったが、確かに素晴らしくはあるものの、盗んででも手に入れたいほどの品物ではないような気がしたのだ。

「じゃあ、盗んだと言うならどうやって」

「うむ、そうだね」

 彼は小説の探偵がよくやるように、もったいぶって顎に手を当てた。

「まず、君が家に泊まりに来た帰り、ぼくは君を駅まで送って行ったね。そのとき、駅で、犯人はぼくのポケットから家の鍵を盗んだ。そしてそのままぼくの家に行き、Aを盗んだ。それから駅へ引き返してきて……」

「君のポケットに鍵を戻した。でも、よく考えてみろよ。君のアパートから最寄り駅までは、歩いて往復30分。それに対して、君が駅にいた時間はせいぜい15分程度だぜ」

「走るか、自転車か、もしくは車を使えば……」

「それでも、君が何分、駅にいるのか分からないのに、そんな賭けみたいな犯行をするかなあ?僕だったら、もっと確実な方法にするけどな」

「それはそうだね。それに、Aを持ったままうろつくというのも危険だし」

「そういえば、その作品ってどんな感じなんだい?」

 彼は携帯電話を取り出し、写真を見せた。確かに、今までの彼の作品とは一線を画したものではあったが、盗みたいほどかと言われると、やはりそうでもないような気がした。

「ふうん。僕はやっぱり、盗まれたんじゃなくて、どこかに落っこちたか何かだと思うけどな」

「いや、盗まれたんだ」

「なんでそんなに断言するんだい?」

「そっちの方が面白いからさ」

 私は呆れて彼を見た。赤いマフラーがだいぶ色あせてはいても、彼のこういうところは全く変わっていなかった。

「じゃあ、どうやって盗んだんだい?」

「それを今考えてるんじゃないか」

 彼が手を挙げてウェイターを呼んだ。私は3杯目のコーヒーを飲み終えたところだった。砂糖を入れすぎていたので、口の中がひどく甘かった。

「じゃあ、こういうのはどうだい?」

 今度は私が、足を組んで目を閉じた。

「犯人は、僕が君の家に泊まりに行った日より前に君が外出したとき、君から家の鍵を盗み、合鍵をつくっておいた。そして、君が僕を送って外出したタイミングで合鍵を使って侵入し、Aを盗んだ」

「確かに、それは辻褄が合う」

 社員の意見を慎重に検討する社長のように、彼はうなずいた。

「では問題は、誰が犯人かだな」

「犯人は、君の作品を見たことがあって、なおかつそれに魅力を感じる人だね。つまり、君のキッチンの窓が面する通りを通る人で、なおかつ芸術作品を見る目がある人ってことだ」

「そういえば……」

 30分後には、同じアパートに住む美術教師の山田さんが、彼が大学に通学する行きの道でポケットから家の鍵を盗んで、大学にいるうちに合鍵をつくる手続きをし、帰り道でポケットに返し、彼が僕を送って外出したときに彼の部屋に侵入してAを盗んだという推理が出来上がっていた。彼は、その推理を真実と信じて疑わず、犯人に仕立て上げられた山田さんを「真の芸術作品を見極める目がある」と称賛しさえした。

 やがて、私が6杯目のコーヒーを飲み終わるころ、ウェイターが閉店を告げにやってきた。時計を見ると7時をまわっていた。私たちは急いで立ち上がり、代金を支払った。彼が現金を忘れたというので、私が代わりに払った(ちなみに、彼は13杯ものコーヒーを飲んでいた)。

 カフェを出て早足に歩き、駅に着くころには、町はすでに暗闇に沈んでしまっていた。彼が改札をくぐるとすぐ、くたびれた声のアナウンスと共に、くすんだ色の電車がホームに滑り込んできた。私は彼と握手をし、彼は赤いマフラーをしっかりと巻き直して電車に乗った。

 再びアナウンスが響き、二両編成の電車がゆっくりとホームを出て行くのを、私はぼんやりと見つめていた。

 帰り道、1人で歩きながら、考えた。

 もし事実を知ったら、彼はどんな顔をするだろう。

 彼の家に泊まった日の夕方、彼のために入れたコーヒーをひっくり返してしまい、咄嗟に窓枠に乗っていたそれ・・でテーブルを拭いたのだという事実を。

 彼の「作品」は、「環境負荷が高い素材」、すなわちトイレットペーパーで作られていたのだ。

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