Hatching of Dreamers

絢茄

第1話

 「……ごめん、もう一回言ってもらっていい……?」


 体育館は広いから、聞き間違えたんだ、きっと。ほら、さっきまで音響もいじってたし。だってそうじゃなきゃ弦川くんが、よりにもよって私に、ネタ台本なんて頼むわけない。


「書けなくなったんだ、ネタ。それはもう、とんとね。だから増谷さん、コント書いてよ」


 弦川くんはごく自然なことのように、まっすぐ私と目を合わせてもう一度言った。照明も焚いていないステージの上はかなり暗いのに、その目のハイライトは消えていない。


「……むり。無理無理、できないよ弦川くん。私、ただの演劇部員だし、それも裏方……私じゃ力不足だよ」


 あんまり眼差しが曲がらないものだから、ついつい彼の目にあった視線は彼の胸にいって、彼の手にいって、とうとうつま先まで下がってしまった。


「君ならできるさ。じゃあはいこれ、僕のネタ帳。参考にして。来月末に使う五分尺のコントが欲しいんだ。何個でもいいよ」


 弦川くんは口早にそう言って、古びたB5版のノートを残して颯爽と体育館を出ていった。途端に、野球部のランニングの掛け声がよく聞こえるようになる。


「どうして私なのぉ……?」


 体育館の入口と、手元のノートを交互に見やる。ステージの上で呟いた文句は、当然弦川くんには届かなかった。




 弦川くんは、天才だ。静かな自室で机の上のボロのノートを見つめながら、申し訳ないけれど他の何百人の生徒、何千人の彼のファンと同じことを思う。このネタ帳にだって、きっと想像もつかないくらいの価値がある。

 高校生の漫才の大会に、異例の1年生で優勝。アマチュア芸人の大会はほとんどタイトルを総なめし、テレビで全国放送されるピン芸の大会にも、プロアマ入り乱れる中で準々決勝まで進出。もはや界隈で彼の名前を知らない人はいないらしい。何社もの芸能事務所から、スカウトを持ちかけられているという噂だ。


 それなのに、今その才能の化身のネタ帳は私の手元にある。数時間前の出来事なのに、弦川くんと話していた時間は妄想だったみたいだ。ああ、どうしてこんなもの、受け取ってしまったんだろう。ぐるぐるぐるぐる、後悔とか不安とか、畏怖とか焦りとかが脳内を闊歩し始める。

 弦川くんは、私ならできると言った。確かに私は、演劇部では脚本を担当している。いるけれど、コントなんて書いたこともない。短い喜劇を書けばいい? そんな簡単な話じゃなくて、もっと劇的に面白くないとダメ?


「……わからないよ……」


 明日提出の数学の課題も、英語の授業のスピーチ原稿も、何も手につかない。やっぱり駄目なんだ、私じゃ。

 明日、このノートを返しに行こう。ちゃんと頭を下げて、「やっぱり無理です。ごめんなさい」ってはっきり断ろう。頼まれたばかりだけど、弦川くんもきっと分かってくれるはず。

 机の照明を消して、布団に潜り込んだ。「そういうところだよ」って、言われなくてもわかってるよ。


 弦川くんは、全国各地でライブ出演の仕事があるらしい。学校で見る日のほうが少ないよ、というクラスメイトの言葉通り、毎日、朝にも昼休みにも、帰る前にだって彼のクラスを訪ねたけれど、一度だって彼の席に人が座っていることは無かった。

 そうこうしているうちに、もう一週間が経ってしまう。弦川くんの連絡先は当然知らないし、彼は学校に来ない。ライブまでのタイムリミットは少しずつ、着実に削られていく。断りたいのとは裏腹に、彼のライブが失敗してしまうかもと思うと吐き気がした。なんで依頼するくせに連絡手段はよこさないのよ、ばか。


 それでもノートを持ち歩き続けた、ある日の昼休みだった。


「やっと見つけた……!」


 通算15回目のクラス訪問の末、ついにあの艶のある黒髪を発見した。もう私が弦川くんを追いかけていることは彼のクラスメイトにも周知の事実で、1組の教室に入った時点でざわめきが起こる。がんばれーとか、よかったねとか。

 きっちりワイシャツを着たその肩を叩けば、弦川くんは嫌味なくらい落ち着いて振り向いた。


「ああ増谷さん、久しぶり。どうしたの?……もしかして、もうネタ書けたの!?」


 弦川くんのツリ目がきらきら輝く。

 途端に形勢逆転。罪悪感から俯きながら、彼の胸に何も書き足されていないノートを押し付けた。


「……やっぱり、私には無理。わからないよ、面白いネタの書き方なんて。…………他の人に、頼んでほしい」


 どうしても声は小さくなってしまったけれど、それでも最後まで聞こえるように言ったはずだった。なのに、弦川くんは一向にノートを受け取ってくれない。


「……やりたく、ないの」


「え……?」


 思ってもみなかった反応に思わず顔を上げると、弦川くんは変わらずまっすぐに私を見ていた。やりたいか、やりたくないかなんて、そんなの。そんなの……。


「僕は、君ならできるって、言ったよね。お世辞でもおだてでもない、本心だよ。だから、できるかできないかなんて関係ない。君が本当に“やりたく”ないんなら、もう一度このノート、返しに来て」


 気づけば私は、自分のクラスに帰ってきていた。左手にはまだ、弦川くんのネタ帳がある。なんだか頭にモヤがかかったような気がするまま、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。

 お昼ご飯の後の政経。クラスの3分の1はどう見てももう黒板のほうを見ていない。ノートは取り出したけど板書を写す気にはなれなくて、さっきから端のほうに落書きばかりしている。……やりたいか、やりたくないかなんて、そんなの本当は答えが決まってるって分かってた。それでも、それを口に出す勇気も、もちろん行動に移す覚悟も、私は持ってなんかいない。3個前の席の人が当てられて答えていたけど、自分のため息で何も聞こえなかった。


 ばかみたいだって、いつからか思うようになって、忘れたふりをしていた、私の夢。本当は、ほんとうは……芸人に、なりたかった。人を笑顔にさせてみたかった。私の演技で、言葉で、人を笑わせたかった。演劇部に入ったのも、半分くらいはそれが理由。でも、1年生の最初の公演、私はステージに出られなかった。

 お客さんの目線が、ステージの明るさが広さが怖い。声帯がギュって締まって、空気が漏れる掠れた音しか口から出てこない。間違えたらどうしよう。セリフを飛ばしたら、声が出なかったらどうしよう。そもそも演技が変で、笑われたら。公演を台無しにしたら。熱いのか冷たいのか分からない汗が次から次へと流れてきて、指先ばかり酷く冷たい。立っている感覚が無い。せっかく覚えたセリフなのに、あれ、どれからしゃべり始めるんだっけ。


 気が付いたら、公演はエンディングに入っていた。……私は舞台袖から出られないまま。先輩も同級生も、いつか慣れるよとか、私も実は怖かったとか慰めてくれたけれど、その次の週には、顧問に裏方に回らせてもらえるよう自分からお願いした。先生は引き止めなかった。情けなくて、悔しくて涙が出てきた。それでも、もう一度あの舞台袖に立つことのほうが、ずっとずっと怖かった。それがもっと苦しかった。


「……ちゃん。みーちゃん。ねえ、光! 次、地学室に移動でしょ? なにボーッとしてんの」


「……え、あ……」


 いつの間にか授業が終わっていたらしい。白紙のままのノートは手汗で湿っている。


「大丈夫? 顔色悪いけど……」


 ただの思い出に怯えるなんて、どんだけ弱いんだろ。「大丈夫だよ」って微笑むような、そんな演技は今でもできるのに。


 結局なんだか手放せずに、地学室までネタ帳を持ってきてしまった。授業が始まるまでのあと数分がなんとなく手持ち無沙汰で、とりあえず表紙を開く。今まで一度も、まともにその中身を見たことはなかった。書けないなんてことは分かっていたけど、弦川くんの才能を目の当たりにして、その現実を事実にしたくなかったのだ。

 でもすぐに、そんな考え方は間違いだったと気づいた。


「なに、これ……」


 ノートいっぱいに書かれた、ト書きと軽快な掛け合い。でもそれは、私が思っていたほど劇的でも天才的でもない。何度も何度も書き直して消えなくなった鉛筆の跡、棒線で乱暴にかき消されたセリフ。端のほうに書かれた、「これじゃない」「面白くない」っていう、おそらく弦川くんの心の声。赤ペンで大きくバツ印をつけられて「ボツ」と書き殴られたページも、捲っていく中で何度も出てくる。何が、天才だ。努力してないわけないじゃないか。弦川くんだって、簡単にポンポン生み出してるなんて、そんなことあるわけないじゃないか。


「……書かないと、私……!」


 居ても立っても居られなくて、すぐさま荷物をまとめて立ち上がった。生徒の視線が集まる。


「体調不良で早退したって言っておいて!」


 明らかな嘘に気圧された、「分かった」というクラスメイトの返事もろくに聞かずに、地学室を飛び出した。

 幸い教室はどの授業でも使われていなかった。ひったくるように自分のリュックを掴んで、左右に先生がいないことを確認して廊下を駆ける。もうちょっと痩せておけばよかったかも。そのまま昇降口の前に差し掛かったとき、ちょうど帰ろうとしている弦川くんの背中が見えた。


「弦川くん!」


 小さく叫ぶと、弦川くんは昼休みのときとは違って、ビク、と肩を震わせた。


「増谷さん。……そうか、残念だな。ノート返しに来たんだね」


「ううん、むしろその逆。弦川くん、私、頑張ってみる」


 彼がぱっと顔を上げた。柔らかな黒髪が、傾いてきた日の光に透ける。


「“やりたい”の、本当は」


 やっぱり少し、声が震えた。でもそれが言葉になった瞬間、昇降口を吹き抜ける風を急に心地よく思えた。

 弦川くんがあのネタ帳を渡してきたのも、どこまでが計算か分からない。でも、何まで見抜かれているか知れないけれど、あれは確かに彼からのエールなんだ。


「よかった。……頑張って」


弦川くんはすごく綺麗に微笑んだ。それはもう、ファンの子が見たら泣いちゃうくらいに。


 それから、3日くらいだろうか。一週間かもしれないし、1日だったのかもしれない。とにかくYoutubeでコントを見漁って、弦川くんのネタ帳を読み込んで、自分の今までの脚本ももう一度見返して、そうして必死でペンを走らせた。見ているものがなんで面白いのかはわかるのに、どうすれば面白いものが書けるのかは一向に分からなくて何度も泣いた。給食費泥棒とか好きな子の体育着やリコーダーとか、「あいつアメリカ行っちまうんだぞ!」とか、どこかで見たようなありきたりな設定しか浮かばなくて寝られなかった。演劇の癖か、書いているうちにネタ中に登場人物が増えていってしまうし、そもそもこれは面白いんだろうかとか、面白いって何だろうとかいうところまで思考が進んでしまって、それなのに、それでも、ペンは止めたくなかった。

 弦川くんはずっとこれをやっているんだ。やってきたんだ、一人で。お世辞にも綺麗とは言えない、ネタ帳の中の彼の字は、何度も私にペンを握り直させてくれた。


 そんな生活の何度目かの夜、ついに台本は形になった。コンビ用の5分尺が2つ、3分のピンネタが1つ。多分弦川くんには到底及ばないけれど、なかなか気に入っている。次の日が平日なことだけ確認して、何日経っているのかは数えないようにしてベッドに潜った。思えば、学校をズル休みしたのはこれが初めてだった。


 今回は運良く見つかった弦川くんの、目の前でボロのノートを捲る。私が書いたページに近づくごとに心臓は大きく跳ねていったけれど、それは期待かもしれなかった。とうとう、見慣れた筆跡が現れる。


「これ……」


 ノートを弦川くんの手に渡すその瞬間に、走って逃げてしまいたかった。彼の表情からは、なんの感情も読み取れない。


「これ、コンビのネタ?」


「えっ、あれ、違った……? 弦川くん、最近大学生の人とユニット組んでるから」


 言ってすぐ、他の言い訳をすればよかったと思った。これじゃ弦川くんの活動を監視してるみたいじゃないか。


「あはは、知ってくれてるんだ。まあ今回の相方はその人じゃないつもりなんだけどさ、でも、うん、2人でいいよ」


 楽しそうに目を細めながら、弦川くんはノートにサラリと目を通して、閉じてから少し何かを考えていた。表情は曇っていないから、たぶん壊滅的につまらないわけじゃなかった、はず。もしかしたら演出に演劇のクセが出ていて、実現が難しいのかもしれない。いやもしかしたら逆に、あまりに壊滅的だったから何を言おうか迷っているのかもしれない。彼との間に降りた沈黙は、どんどん私のネガティブを加速させていく。


「あの、弦川くん……どう、だった? 私のネタ。あの、弦川くんからしたら、つまらないかもしれないけど、でも」


「増谷さんは、僕にダメダメなネタを見せるつもりで来たの?」


「え……」


 弦川くんの眼差しは酷いくらいまっすぐだった。怒っているのかもしれない、けど、彼には分かってほしい。


「いや、私なりに、自信はあるの。何が正解か分からないし、たぶん正解なんてないんだろうけど、及第点なら出せたと思うの」


 こんな風に言い返したことはなかった。でも弦川くんの眼差しは、裏腹に和らぐ。


「じゃあ上出来。結末はまだ分からないけど、現時点では僕は君に失望してないよ。むしろその逆」


 そうか。いくら弦川くんでも、実際にやってみなければ面白いかなんて本当は分からない。分からないから、あんなに努力しているんだ。経験の差が明らかになって、カッと耳が熱くなった。


「ライブまでまだ余裕があるね。ふふ、まさか学校サボってまでコント書いてくれるなんてな。じゃあ何か質問があるかもしれないから、僕のLINE追加しておいて」


 当たり前みたいに自然に、スマホに新しい文字列が追加される。手元のそれはほんの少し、あたたかくなった気がした。



 SNSを探っても、弦川くんの出るライブは多すぎてどれのことを言っているのか分からない。よく一緒に出演していると思っていたユニット相手も、特定の相方な訳ではないようだった。見に来てほしくはないかもしれないと思って、「あのネタどのライブでやるの?」と打ち込んだLINEは送れなかった。「来月末」はじりじりと迫ってくる。ネタを書く前と何も変わらない(先生にはたくさん心配されたけれど)毎日を過ごしていくうちに、なんだか全部作り話だったんじゃないかと思えてきた。

 芸人になりたかったことを思い出させてくれた、恩人のような人だ、弦川くんは。ネタを書く経験も積めて、奇跡みたいに与えてくれた。たぶん「その相方、私じゃダメかな」って言えてない時点で、私はきっと今後何者にもなれないんだ。


「……構成作家とか、も、いいかもしれない。どうせ、舞台には立てないんだし……」


 泣いてなんかなかった。雨漏りで枕が濡れただけ。弦川くんにネタ帳を渡してからも、自分のノートにコント台本は連なっていった。何のためになるかなんて、考えずにただ書きたかった。それでも、私は強くなれない。部屋で1人で演じてみることはできても、舞台の広さを、お客さんの顔を想像すると途端に頭が真っ白になった。

 悔しかった、もちろん。でもここまで来るとしょうがないんじゃないかって、誰かが言ってくれる気がしたんだ。


 

 そんなある日、めったに通知音の鳴らないスマホがうるさく震えた。弦川くんからの着信だった。


「新宿ポラーホール。午後6時。来て」


「えっ、どういうこと、弦川くん」


 聞き返すより早く、スマホは無慈悲に通話終了を告げた。弦川くん、電話向いてないと思う。

 おそらく告げられた内容は、あのネタをやるライブの概要なのだろう。弦川くんがついに、私のネタをやってくれるんだ。それを見せてくれるんだ。学校帰りに電車に乗ったけれど、昼休みくらいから足元はどこかふわふわしたままだった。

 今まで何度かお笑いライブに来たことはあったけれど、今回の会場は初めて聞くところだった。夏も過ぎ去って日が落ちるのが早くなった新宿は、少しだけこわい。6時の10分前くらいに会場付近につくと、またもスマホが震えた。


「裏口に来て。スタッフさんには話通してある」


 今度は何も聞かなかったら、やっぱりすぐに電話は切れた。少し悪いことをしている気分で裏口に回ると、そこには弦川くんの姿があった。


「よかった、来てくれて。どうぞ入って」


「どうしたの? 何か台本に不備でも……」


 弦川くんは何も言わず、薄暗がりの中をずんずん進んでいく。ただその後ろをついていくと、急に目の前に光が差した。舞台袖だった。


「増谷さん、あの台本は頭に入ってる?」


「え、うん、もちろん」


 弦川くんがゆっくりと振り返る。ステージの照明に照らされた彼は、学校で見るよりずっと綺麗だった。だからだろうか。なんだか、なんだか、こわい。


「誰の為のものだと思う、あれ」


 微笑みながら、言う。弦川くんでしょ、とは、言えなかった。でもそれ以外の答えも、口にするにはあまりに恐ろしかった。


「あのコントはね、増谷さん。君が演じるために書いてもらったんだ」


 ネタは今でも書けるよ、僕。弦川くんは簡単に言う。ステージからの逆光で、彼の表情は掴めない。その言葉が嬉しいのか恐ろしいのか、私には分からなかった。でも1つだけ、確かに言わなきゃならないことがある。


「……弦川くん、私、舞台には立てないの」


 今だって、この分厚いカーテンから出なければならないと考えるだけで、足が震えそう。あの頃のことを思い出さないように必死なんだ。だから、ごめんね。どうしようもないから、できるだけ口角を上げて言った。芸人なんて、とてもなれそうにないじゃんか。


「増谷さん、僕が言ったこと忘れたの。できるかできないかなんて関係ない」


 右手を引かれる。一歩、舞台に近づく。


「僕は、君ならできると思ったから声を掛けたんだ。……もう一度聞くよ。“やりたく”、ないの」


 ダメだよ、そんな聞き方したら。だって、それは呪文だから。弦川くんだけが使える、無敵の魔法なんだから。


「……“やりたい”よ、弦川くん。私、コントやりたい……っ!」


 あっという間に滲んだ視界に、照明が乱反射する。弦川くんに引かれて、舞台上に一歩ずつ進んでいった。


「…………明るい」


 決して多くない客席には、点々とスタッフさんらしき人が座っている。ここで、これから、ネタをするんだ。お客さんの前で。他のアマチュア芸人の人に交じって。

 たぶん震えていて、弦川くんがそっとつないでいた手を離した。


「増谷さん、こっち向いて」


 伸ばされた手は眼鏡に触れて、不意に世界は色だけになる。その中でも、弦川くんが微笑んだのははっきり分かった。


「怖いなら、お客さんなんて気にしなくていい。僕だけ見ていて」


 よく分からない感情が込み上げてきて、大して見えないのに目を逸らした。ホールの入り口を開けたスタッフさんが、そろそろ開場ですと叫ぶ。大丈夫だよ、と言う代わりに一度微笑んで、弦川くんと舞台袖に帰った。


 開場と同時に、ホール内に音楽が響き始める。聞いたことがない曲だったけれど、弦川くんはここはいつもこの曲だよと言った。

 ネタ順が迫ってきて、登場する予定の上手側に移動する。弦川くんは下手側で、私のセリフからネタが始まることになっていた。頭の中でもう一度、半月以上前に書いた台本を反芻する。実物にはさっきも目を通したけれど、やっぱり落ち着かない。他の人のネタも、一つも集中して見ていられなかった。

 それでもとうとう、前の出番を終えたコンビが横を通り過ぎて行った。舞台は暗転、残された大道具が回収される。代わりに私たちが使う簡素な机と椅子が搬入されて、それが済んだら出囃子が一際大きく流れ出した。ステージ上が明るさを取り戻す。

 さっきまであんなに舞台が怖かったのに、なぜだか今は飛び出してみたくてたまらない。下手側の弦川くんを見遣ると、曖昧な視界の中、大丈夫と言ってくれている気がした。一度大きく頷いて、舞台袖から一歩ずつ歩き出す。もう手も足も震えていなかった。



 弦川くんとあの台本を演じながら、1つだけ強く思った。弦川くんは天才だ。発声も演技も、演劇部じゃないのがすごく惜しい。お客さんがみんな、彼が次に何を言うか期待しているのが伝わってくる。

 それに、ネタ中の弦川くんはすごく、すごく綺麗だった。コロコロ変わる豊かな表情、照明を浴びて輝く黒髪、しなやかに大胆に動かされる手足。思った通りに笑いを起こす姿も、生き生きとしたその振る舞いも、そのすべてがこれは彼の天職なのだと思わせた。

 そんな彼に比べれば、いや比べるまでもなく、私はまだまだ駆け出しのヒヨっ子。いや、まだ殻も割れていないかもしれない。それでもいい。これからずっと頑張って、良いネタをたくさん書けたら、そのときは言うんだ。弦川くんに、私の相方になってください、って。

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Hatching of Dreamers 絢茄 @fumi_0830

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