Junction2.0 2024 地下水路
おじいちゃんの一周忌、沖縄へ帰った。
沖縄の町は懐かしい香りがした。
もうおじいちゃんは、そこにはいないけれど。
叔母たちに頼まれ、一つ山を越えた先の商店街へ行った。
買い物を済ませると日はすでに傾き始めていて、僕はちょっと足取りを速めた。従妹も家で待っているのだ、急がないといけない。
高い松の木々が天蓋(てんがい)のように空を覆っていて、林の中は薄暗く、静かだった。さくさくと、自分の足が葉を踏んでいる音だけが聞こえる。そういえば小さいころ、おじいちゃんと一緒によくこんな場所で遊んだっけ。
「おじいちゃん。」
懐から懐中時計を取り出すと、それは木漏れ日を淡く反射し、光った。
気が付くと、僕は思わず立ち止まって、時計の奥を覗き込んでいた。
金の針に、外国語の文字盤。おじいちゃんの宝物。
その刹那。
かちり
とうに止まったはずの時計の秒針が小さく動いたのだ。
僕は思わず時計を、手から離してしまう。
からんと音を立てて、懐中時計が地面を跳ねる。
小さく跳ねたそれが、狙いすましたように古びたコンクリートの竪穴のなかに落ちた。
「あ。」
竪穴は古いマンホールの跡のようだった。
あわてて竪穴のそばへ駆け寄ったけれど、もう遅かった。穴の中を覗き込んでも底が見えない。どこまでもどこまでも、真っ暗な闇。
おじいちゃんの懐中時計…。
「おじいちゃん、体調大丈夫?」
「大丈夫だ、心配するな。」
そう言いながら、おじいちゃんは大きく咳をした。背中をさすると、心臓の音が近い。昔はあんなに頼もしかった彼の背中には、もう骨と皮しか残っていないように思われた。彼が突然の病にかかってから、もう1年たつ頃だった。
「ねえおじいちゃん、あの写真、おじいちゃんなの?」聞くとおじいちゃんは小さく頷いた。
「ああ、そうだ。私がずっと小さいころの写真だよ。」
写真の中のおじいちゃんはまだ赤ん坊で、花柄のおくるみに包まれて、笑っている。そして彼の首には懐中時計が一つ、掛けられていた。
「ああそうだ、お前に渡したいものがあったんだった。」
おじいちゃんは思い出したようにつぶやくと、懐から何かを取り出してみせた。
「時計…。あの写真の?」
「ああ、ずっと昔から大切にしてきたものだ。私の宝物だよ。」
彼は僕の手のひらに、その懐中時計を静かに乗せた。
「これをお前に託す。…もしお前が誰かを助けることがあったら、この時計を助けた相手に渡してくれ。」
「助けた相手に?」聞き間違えかと思って聞き返すと、おじいちゃんは大きく頷いた。
「ああ、そうだ。助けた相手に渡すんだ。」
おじいちゃんの目はずっと遠くを見ていた。ずっとずっと、僕にはわからない遠くを見ていた。
「ありがとうおじいちゃん。…大切にするね。」
そう言うと、おじいちゃんはふっと顔をほころばせた。
「よかった。」
力強さはもうなかったけれど。小さいころ、僕とよくかくれんぼをして遊んだ時と同じ、底なしに輝くような笑顔だった。
僕が部屋から去ろうとするとき、おじいちゃんがつぶやいた一言が、なぜだろう、今も忘れられない。
「これで、私はもう一度、お前に会える。」
竪穴を覗き込み、闇の向こうへ手を伸ばすが、私の手は空を切るばかりだった。
ちくしょう。
懐中時計は僕のそばに残されたたった一つのおじいちゃんの断片だった。
幼いころ、病弱だった僕のことをいつも気遣ってくれたのはおじいちゃんだった。いつも楽しそうに僕と遊んでくれて…僕はそんなおじいちゃんのことが大好きだった。
その時だった。突然体が宙に浮き、空がさかさまになった。
―しまった、手を滑らせた―
そのころにはもう、僕はマンホールの竪穴の中を真っ逆さまに落ちていた。懐中時計を探そうとする余り、身を乗り出し過ぎていたのだ。
ばん、という音を最後に、しばし、僕は何も分からなくなった。
目を覚ますとあたりは真っ暗で、なにも見えない。
耳の奥がきいんと鳴る。
身体が痛い。
「下水…道?」
目が慣れてくると少しはものが見えるようになった。
立ち上がると、ぴちゃん、ぴちゃんと水音が聞こえる。少し歩いてみると足元が濡れた。
そうだ、懐中時計はどこにあるのだろう。
そこまで遠くに落ちているとは考えづらかったから、手を地面にさらし、懐中時計を探す。
地面を流れる水が冷たい。早く懐中時計を見つけて地上に戻ろう。
しばらく歩いた頃だった。
足元に何かが触れて、僕は思わずつんのめった。
なんだ?
足先に触れたそれは、明らかに岩などではなかった。もっと柔らかくて、暖かい。
僕は思わず振り返って、「それ」を眺めた。泥にまみれ「それ」は花柄の布に包まれていた。
抱え上げると、僕の腕に温みが伝わってくる。布を捲ると、黒い眼がこちらを見つめていた。
―赤ちゃんだ―
「どうして…」
どうしてこんなところに赤ちゃんがいるのだろう。
赤ちゃんを抱え上げながら周囲を見回す。早く地上に戻らなくては。
そもそもここはどこなのか、下水道、なのだろうか?僕はどこから落ちてきたのだろう。
ふと気が付いた、ここは下水道にしては明るい。真っ暗というわけではないのだ。
遠くに光が見える。ランプのような、淡い光だった。
僕は急に不安になって、はじめに落ちてきたところまで戻ろうとした。
―…ない―
地上へつながっているはずのマンホールの竪穴がないのだ。
どこを見渡してもあるのは真っ暗な天井ばかり、手を伸ばすと指先が固いものに触れる。下水道の壁のコンクリートではなく。それは湿った岩だった。
ここは下水道ではない。その直感は確信に変わっていた。
頭が痛くなる。あの懐中時計の秒針がかちん、と動く音が聞こえたような気がした。
暫く逡巡(しゅんじゅん)してから、結局遠くに見える光の方へ歩いてゆくことに決めた。
赤ちゃんを置いてゆこうか迷ったけれど、その子があまりに熱心にこちらを眺めるものだから、僕は彼を連れて行こうと決めた。こんなところに赤ちゃんがいるのはおかしいと心の中では分かっていたけれど、なぜだろう、不思議と怖くはなかった。
僕はその赤ちゃんのことを知っているような気がしたのだ。どうしても置いていこうとは思えなかった。
灯りの下に人影が見えて、僕は安心する。沖縄の地下にはいたるところにガマと呼ばれる洞窟があり、今も訪れる人は数多いと聞く。よかった、助かった。
しかし、近づくにつれて、安堵は恐怖に転じた。岩壁に吊り下げられたランプの下にうずくまっているように見えたその人影が、じつはうずくまっているのではないのだと気が付いたからだ。
うずくまっているのではない。
首から上がないのである。
カーキ色の服を着たそれには頭部がなかった。僕はしばらくしてようやく、彼の来ている服が軍服であることに気が付いた。
それは長身の銃を右手で抱えていたが、その様子はまるで何かにひどくおびえているかのようであった。
そして彼の左手は、人差し指を突き出し、何かを指さすような形で横たえられている。
近づいて、軍服に縫われた名前を見ると「長坂誠司」とあった。
明らかに自然死ではない。彼は“なにか”に殺されたのだ。
彼の程近くには、いまだ新しい木板があって、そこには「第23地下壕」の文字がある。
地下壕…?
僕は無性に恐ろしくなって、走り出したい気分になった。でもどこへ?
頭部のない亡骸(なきがら)の前で、細い坑道は曲がって、二手に分かれていた。
意を決して左の道を選ぶ。
何としてでもここを脱出し、生きて帰らなければならない。
坑道のあちこちには薄い光を放つランタンが吊り下げられ、そして人のいた痕跡があった。しかし、つい今さっき、という風でもない。誰かが慌ててここから出て行って数週間放置されているような、そんな感じ。
飲みかけのまま残された瓶、脱ぎ捨てられた衣服、そして銃…。いずれも見たことが無いような古いものばかりだ。
幾重もの角を曲がり、細く湿った坑道の中を歩いてゆくにつれて、鼻を突くような香りが次第に強くなっていった。
何かが腐ったような、嗅いだことのない香りだった。自分がその香りのする方へ近づいているような気がして何度も足を止めそうになる。
抱いている赤ちゃんのぬくもりだけが肌に触れている。冷汗が止まらなくておもわず僕はその子を強く抱きしめた。
坑道の結節点までやってきた時だった。
腕の中の赤ちゃんが突然声を上げ、泣き始めた。静かな壕内に鳴き声が反響し、木霊する。
その声がなにかを引き寄せてしまうように僕には思われた。よしよし、と必死にあやすが、しかし赤ちゃんは泣き止まない。
つんさぐような泣き声の中に、僕は別の物音を聞いた。
暗がりの向こうからずるりずるりと何かを引きずる音が聞こえる。
あたりの腐臭はますます強くなった。
暗がりの奥から、初めは影が、次には顔を覆う髪が現れる。四つ足でつくばいながら、「それ」はゆっくりとこちらに近づいて来ていた。
―女性だ。―
長い髪は濡れた地面に触れてぐっしょりと湿り、右手に何かを持っている。
暗闇の中からそれの引きずっているものがランプの灯りの下にさらされた。
薄ら光の下に在る千切れた四肢、それが無造作に投げだされていた。
彼女がそれに口をつけ…食べているのだと気が付く。
女が顔を上げて。
灰色の瞳がこちらを見る。
途端…僕は走り出していた。
背後に音が聞こえる。濡れた地面を踏みしめる音。
後ろを振り返ると女は四つ足のまま僕を追いかけて来ていた。彼女の背骨は信じられぬほどにねじ曲がり、姿は到底人間とは思えない。
僕は必死に走った。
一体あれは何なのだ。
とっさに曲がり角をいくつも曲がり、身を隠しながら、思う。
向こうではそれのたてる衣擦れの音がしていた。彼女は赤ちゃんと僕を探している。探し出し、ああして食べようとしているのだ。
あの長坂という男もきっとあの化け物に殺されたに違いない。
赤ちゃんがもう声を出せないように、その口を必死に抑えた。
暗闇の中で、水が天井から滴る音だけが木霊する。ぴちゃん、ぴちゃん。
いや、それだけではない。
うっすらと、這いずってくるような音が聞こえる。“あれ”がゆっくりとこちらへ近づいて来ているのだ。
冷汗が噴き出し、足が震えた。あれが来る、あれが来るあれが来るあれが来る…。
足音が僕の程近くまでやってきた時だった。
突然地が揺れた。衝撃と共に鈍いドン、という音が連続して響く。爆発音だ、と気が付いた。
と、一つ壁を隔てた先で人のものではない絶叫が響いた。
“あれ”が叫んでいるのだ。その声は恐怖に駆られ、おびえているように聞こえた。
爆発の音に続いて甲高いサイレンが地上で鳴る。
“それ”は何かに苦しむように叫び続けていた。
―爆撃…空襲警報…―
僕はもう一度足に力を込めて、走り始めた。
ここは彼方昔の地下壕なのだ。
とようやく理解した。僕がいるここは、僕の知っている「現代」などではない。
何かの拍子に僕は過去の断片に滑り込んでしまったのだ。
坑道を進むにつれて、アリの巣のように複雑に入り組んでいた壕の道々は減ってゆき、やがて一本の長い道となった。赤ちゃんを固く抱き、足早に闇の中をさまよううちにあることに気が付いた。
坑道の中に吊り下げられたランプの下に、数字が書かれている。
「3…」
暫く行くと5…と続いてゆく。
その文字は何か非常に差し迫った用途のために掘られたものらしく、僕のすすむ壕のそこかしこにあった。“あれ”に見つからないか恐れおののきながらも、不思議とその数字は僕を引きつけた。
この道の先に脱出の糸口がある。それは一つの直感であった。
足元に何かが当たる。
かがみこむとそれは、ぼんやりと闇の中に光って見えた。
目を凝らすと、既に白骨化した誰かの骸が足元にあった。
奇怪なことに、それの右の腕の骨はあらぬ方向に捻じ曲がっていた。骨折、というようなものではない。関節ではない場所が何度も何度も人為的な刺激を加えられた結果、骨そのものが変形してしまったような…。
長坂の亡骸とは違って、それはもっと昔からそこに存在していたようだった。おそらく、この人を殺したのは“あれ”ではない。もっと前、ここに駐留していた、おそらくは兵士たち。
ここの前の住人達は一体何者だったのだろう…。この深い地下で一体何をしていたのか。光さえ届かない闇の中で、一体何を。
しかし僕の思考は途中で寸断された。
赤ちゃんが突然泣き始めたのだ。
そして僕はもう、その意味を理解していた。
長い廊下の向こうからゆっくりと“あれ”が姿を現す。ランタンの影がその異常な肢体を写していた。
一本道には逃げ場がない。どこまでもどこまでも道が続いてゆくばかり。
僕は身をひるがえして一目散に走った。
坑道の先に扉が見える。
背後の足音はどんどん近づきつつあった。
―まずい。―
僕は鉄扉まで走ると、取っ手を掴み、全力で押し開けた。
扉に錠がかかっていなかったのは不幸中の幸いであった。
僕は急いで扉を閉め、内側から錠を掛けた。次の瞬間には、僕と“あれ”は分厚い鉄の扉で隔てられていた。
安堵のあまりひざの力が抜けて、座り込んでしまう。
これで安心だ。いくら“あれ”が人間ばなれした何かであろうと鉄扉を越えることはできない。
目が慣れてくると、僕の入った部屋の様子が明らかになった。
仄暗い、さして広くもない部屋の中に簡易なベッドがいくつも置かれている。壁面をくりぬいて作られた棚には一面に薬瓶や標本が整列していた。名前もわからない機械の残骸が地面に打ち捨てられている。
問題はそこにあったものたちであった。部屋中のベッドはいずれも血にまみれていて、棚に並んだ標本はいずれも何かの臓器か何かばかりなのだ。ここは異常な研究室だった。
立ち上がって足についた泥を払うと、僕は研究室の片隅にあった、木製の小さなデスクの上に数字が書かれているのを見つけた。
―これ、さっき他の場所でも見たものだ。―
デスクの上にはモールス信号機が置かれていた。いや、それだけではない。
机の上の物、近くにあるもの、どれも無秩序に配置されているようでいてそうではない。容易に誰かに理解されぬよう隠してはあるものの、それらはまとまった意味を持っている。
…そうか。
僕は理解した。これは暗号なのだ。昔、ここから逃げ出そうとした人物が残した、脱出のための手引きなのだ。
その時、背後ですさまじい音が響いた。振り返ると分厚い鉄扉が大きくゆがんでいる。
続けて鈍い音が何度も繰り返された。“あれ”だ。あれが外から扉を破ろうとしているのだ。扉は叩かれるたびに大きく振動し、ゆがんだ。抱えた赤ちゃんがまた、大きく泣き始めた。
まずい。これではもって数分だ。
急いで暗号を解き、何としてでもここを脱出せねばならない。
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