第8話 蓮獄家のバレンタインデー そのよん
全速力で下校ルートを駆け抜けた僕は、自身でも驚くべき速さで蓮獄家の前に到着した。
足の全体に乳酸が溜まり、とてつもない疲労感がどっと押し寄せてくる。
蓮獄家の家先で膝に手をついて息を切らしていると、庭から蓮獄家の愛犬であるオルが不思議そうな顔つきで遠巻きにこちらを見つめていた。
整った黒い毛並が印象的な、確かグレイハウンドとかいう大型犬種だったはず。
人懐っこく理知的で飼い主に忠実な性格なオルは、急にやってきて家前で深く息切れしている僕という不審者を警戒しているのかもしれない。
何度も一緒に遊んだことがあるので、蓮獄家を訪ねる時に吠えたことはこれまでほぼないけれど、今日の僕の形相では同一人物と認識されないかもしれない。
「よぉ……オル、元気してるか?」
気さくな僕の挨拶に「明らかに元気ないのはお前の方だろう」──とオルが答えるかのように低くこもった声色でワンと啼いた。
それを入場許可ということにして、僕は玄関口のカメラ付きインターホンを鳴らした。
十数秒待っていると、インターホン越しに「お、理玖じゃーん。どしたの? てか学校は?」と声が返ってきた。応対しているのはどうやらさゆ姉のようだ。
「いきなりごめん。ちょっと確認したいことがあって」
「? 何をー? まぁ、とりあえず這入ってきてー」
ブツッ、という受話器を切る音。ドアノブに手をかけると鍵はかかっておらず、ドアを開き、「お邪魔します」と少し大きめの声量で挨拶しておく。
平日の昼間なのでもしかしたら蓮獄家にはまも姉しか居ないではと思っていたけれど、さゆ姉がいたのは嬉しい誤算だ。まも姉の仕事を邪魔するのは忍びないし。
僕は靴を脱いで来客用スリッパを履くと、手慣れた足取りで廊下の奥のリビングへ向かう。
リビングの扉を開くと、丸形のクッションに腰掛けたさゆ姉とるりあさんが机に向かい合って座っていた。
二人は四角い机に複数のカードのようなものを不規則な形で広げている。
「どもー理玖。急に来たからびっくりしたよー」
と、扉に背を向け座っていたさゆ姉は、こちらに振り向いて笑いかけた。
「こんにちは理玖」とるりあさんも手元に握っているカードから顔をあげ、こちらに目線を移す。
「どうも。お邪魔します」
まさかるりあさんまでご在宅とは。仕事は休みなのだろうか。
「まぁまぁとりあえずこっち座って!」とさゆ姉がクッションを指し示す。
僕はお言葉に甘えて、さゆ姉の左隣でるりあさんの右隣になる位置に置かれたクッションに腰掛ける。
「今お茶淹れてくるね」とさゆ姉は立ち上がり、キッチンの方へ。
「理玖。学生の本分を投げ出して我が家に顔を出すなんて、貴方にしては随分珍しいわね」
「ちょっと深い事情があってね。迅速に確認したいことが……」
「いいのよそんなに焦らなくても。もしあすはだけでは物足りないと言うのなら、日替わりで貴方のクラスに上の方の姉妹みんなで通ってあげるから」
「いや、そんな退廃的なおねだりをしに来たわけじゃないですが」
「勿論、全員ちゃんと制服は着用させるわ」
「そこを懸念しているわけではない!」
「なかなかいいものよ。二十代の制服姿を眺めながら授業を受ける青春も」
るりあさんが真顔でそんな冗談を繰り出していると、湯呑みとたっぷりお茶の入ったピッチャーを持ったさゆ姉が戻ってきた。
「粗茶ですがどうぞ」
「ありがとうさゆ姉」
慣れ親しんだ蓮獄家お手製茶を、差し出されて早々一気に飲み干す。
そんな僕を見て「お、いい飲みっぷりじゃん。もっと飲みな」と空いた湯呑みにお茶を注いでくれるさゆ姉。
渇いた喉を潤して一息ついたところで、僕は机の上のカード群に目をやる。
そのカードには断片的に区切られた様々な形の水道管がそれぞれ描かれており、絵柄が繋がり合い交錯するように並べられている。
「これって……?」
「あぁこれ? これは『水道管ゲーム』だよ」
さゆ姉がそのまんまの名称を教えてくれた。
「相手より先に自分のバルブから水道管を繋げていって、蛇口まで開通させれば勝ち」
「……それって面白いの?」
「実際やってみると、このゲームの奥深さに気がつくんだなぁ」
「ちなみに私が三連勝中よ」
るりあさんが薄く笑みを浮かべながら、そう自慢してきた。
単純そうなルールだが、付属されていた説明書を読んでみると、『水漏れカード』なるものを相手の水道管に繋げて相手の進行を妨害できるらしい。
意外と駆け引きと閃きの要素が含まれていて、確かにプレイヤースキルによって優劣は生じそうだし、特にるりあさんはこういう類いのゲームには強そうだ。
しかし成人済みの姉妹が平日の昼間に自宅で遊ぶのに適したものであるだろうか。
まぁそれだけ仲が良いということだろう。
「一緒に遊ぶ?」というさゆ姉の提案をやんわり断ると「じゃあまたの機会に」とカードをテキパキと回収しこれまた水道管が描かれた青い箱に仕舞う。
この二人とテーブルゲームに洒落込むというのもまた乙なものだけれど、今日はそれどころではないのだ。
「それで、一体理玖の確認したいことってなんなのかしら」
片づけが終わったところで、るりあさんはそう本題を切り出してくれたのだけれど、
「あ! そうだ!」と何かを思いついたような声を上げると、さゆ姉は「まもちゃーん! まもちゃんまもちゃーん! 理玖が来たよー!」と叫びながら廊下に飛び出る。足音からしてどうやら階段を駆け上がっていったようだ。
僕はるりあさんと二人、リビングにとり残される。
「あの娘も騒がしくて困ったものね。今朝のれいあもだけれど、幾つになっても子供っぽいのは変わらないわね」
「まぁあの二人は感情豊かだからね」
「あら? あぁいう娘たちの方が理玖の好みなのかしら?」
「いや、別にそういうわけじゃないけれど……」
「照れなくていいのよ。私も多情多感な人は好き──自分にはないものを持っている人というのは魅力的に感じるわ──憧れという方が近いかしら」
「憧れか……。でも僕からすれば、るりあ姉様もかなり魅力的な人に映るけどなぁ」
それこそ僕は、蓮獄るりあという人に憧れを抱いているとも言える。
幼き頃から、尊敬と同時に憧憬の的でもあった。
「嬉しいことを言ってくれるじゃない。ちなみに私のどういうところが魅力的なのかしら」
「優しいところ。大人っぽいところ。綺麗なところ。実はちょっと天然なところ」
「澱みなくそう言い切ってくれる貴方のそういうところが素敵よ理玖」
そんな善い子には、ご褒美をあげないとね──そう言うと、るりあさんは立ち上り、奥の戸棚からある物を取り出した。
それは見慣れたデザインの包装の小箱だった。
「これって……」
「今までは皆からということだったけれど、今年は私から」
それは僕が食べ慣れた、毎年蓮獄家から贈られていた馴染みのチョコレートだった。
「わぁ……嬉しいよ! ありがとう!」
「もし理玖が今年もそのチョコを待ち望んでいたら、期待を裏切ってしまうかと思ってね」
「あはは……気を遣わせたみたいだね。でも正直このチョコレートも大好きだから、その心遣いはありがたいよ」
「ならよかったわ」
やはりるりあさんは用意周到というか、こちらを容易く見透かしている。
その思慮深さが、大人の余裕を感じさせる。
「まもちゃん呼んできたよー!」
階段を駆け降りてリビングへやってきたさゆ姉が、元気良くそう報告をする。
どうやら二階の自室にまもさんを呼びに行っていたらしい。
「さぁ。まもが揃ったら、そろそろ理玖の用件を訊くとしましょうか」
そうだ。なんだかんだ未だそのことについて話ができていない。
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