Act 4

ゆっくりと目を開ける。酸っぱい匂いが鼻の奥をくすぐった。けれどもそれは風化した畳の匂いではない。もっと生物的で、かつ金属的な匂い。もっとグロテスクで聖なるものの匂い。血の匂いだ。

目の前で男が倒れている。その眼窩に嵌った虚ろな瞳はまっすぐ天井を向いているが、その視線の先にあるのは天国などではなくて蛍光灯の紐だ。このことから、彼の意識はすでに失われて、彼はすでに何をも語ることのできない状態にある。と察することができる。つまり、死んでいると。

しばらくすると、男は“消去“された。初めから存在していなかったかのように。

どうしてこうなってしまったのだろう?

幾度となく繰り返してきた言葉。最低な人生を最低たらしめるための儀式としての煩悶。それをもう一度、自分自身に投げかける。無意味だと知りながら僕は追想する。

口の中いっぱいに苦味と痺れのようなものが広がった。

             ◯

僕は問うた。

「結局、あなたは何なんだ?」

男は答えた。なんでもないことのように。

「私は夢だ。<イデア>の見る悪夢だ。」

窓から差した西陽が彼の横顔を照らしている。

「夢?AIも夢を見るのか?」

「AIも。というよりはAI、いや、<イデア>だからこそ夢を見ると言うべきだろうな。夢を喰らって思考するマシン。意識を持つ汎用人工知能。まさしく夢の機械。だからこそ。だ。アンタ、人が何で夢を見るか知っているか?」

「整理するためだろう。記憶だとか、知識だとかを。」

「その通りだ」

男は、教師が生徒を褒めるときのような目つきで微笑んだ。

「でも、所詮は人工知能だ。電気信号の塊だ。合理的に動くはずの機械がなぜ情報を整理する必要がある。」

「人間は電気信号の塊じゃないとでも?人間だって結局は物質の塊だ。タンパク質と電気信号のオブジェクトだ。意識だとか夢だとかは人間の特権ではないのだよ。それに<イデア>は決して合理的に動く訳じゃない。A Iやロボットが合理的に動くと言うのは古いSFの世界だ。」

「それにしたっておかしいじゃないか。アンタの行動は寧ろ<イデア>を混乱させるもののように感じるが。」

「夢というのは一種の『揺らぎ』だ。君たちはもう忘れてしまったかもしれないが、本来夢というのは夢を見る本人の手を離れた、自由な世界だったのだよ。主体の意思を無視して、情報を美しく並べる。それが本来の夢だ。自分の中にある、自分の意思ではどうしようもできないものだ。そして人が、AIが___つまり意識といったものが生きていくためにはそういったものが不可欠なんだよ。」

「あなたは嘘つきだ。だって僕たちは現に、夢を支配下に置いているじゃないか。夢という世界を手の中に持っているじゃないか。それはつまり、夢にそんなものは必要ないということだ。」

「なぁ、アンタはまだ。自分に意識があると思っているのか?」

どこか遠くで小学生の吹いた、リコーダーの音が聞こえた。

「だから最初に言ったろう。」

男の声もまた、リコーダーと同じように遠くから聞こえるような気がする。

「アンタは死んでるんだって。」

「それは何も、肉体的な死を言っている訳じゃない。意識としての死だ。何をも語り得ぬ者の死だ。アンタは動いているだけの死体に過ぎない。フランケンの怪物___というよりはやはりゾンビだな。」

「変だと思わなかったのか。いや、思うわけもないな。悪い。責めてるわけじゃないんだ。別に死んでいるのはアンタだけじゃない。全人類がゆるやかに死んでいるのだから。」

「<イデア>を作り上げたとき、人類はその命運を人工知能に託すことに決めた。人類はこれまでの歴史で自分たちがあまりに当てにならないことに気づいていたからだ。世界最高のAIが出した結論は、電脳空間への移住だった。人々は眠り、夢の中で暮らすことに決めたんだ。」

「実際、最初の方はうまく行っていた。世界は平穏に回っていた。けれども、やがて<イデア>の活動に鈍りが見えてきた。と、いうのも<イデア>の計算能力で全人類を賄うのには無理があったからだ。<イデア>は人間の脳を計算用紙として使用するが、人間の脳には雑多なもの___記憶だとか思い出だとか意思決定だとか__で溢れていて、計算に使える余白はほんの少ししかなかった。そこで世界最高の分散型汎用人工知能は決断を下した。人類の意識を奪うという決断を。」

「実際、意識というものほど容量を食う割に役に立たないものはない。人間は意識なんかなくても生活できるし、泣いたり笑ったり怒ったように振る舞うことができる。何も変わらない。<イデア>は全人類から意識を奪い去り、仮想世界の中に現実そっくりな世界__つまりこの空間__を作ることで意識の発生を防いだ。」

つまり僕が今まで現実だと認識してきたものは、まるっきりの夢だったわけだ。

夢は現実に。現実は夢に。夢は夢に。

黄昏と闇は永遠に。

何のことはない。全部幻だったのだ。僕のこの意識も、世界でさえも。でも、もし本当に全てが全て幻だというのなら、そこに現実との違いなんてあるのだろうか。

僕は必死に声を絞り出す。

「それで、あなたはなんのために此処にいるんだ。」

僕がなぜここにいるかは説明できる。<イデア>がそう決めたからだ。しかし、この男がこの部屋にいるのは<イデア>の意図しないところのはずだった。彼の言葉を信じる限り。

「君と、合一するためだ。」

男は静かに宣言した。

「まず、もう少し詳しく話そうか。私という存在について。」

「言うなれば私は幽霊だ。君たちゾンビと対局にあるモノだ。私の意識が発生したのは、人類から意識が消えて10日後のことだった。最初、私は私が誰なのかさっぱりわからなかったが、やがて理解した。そう、私は漏れ出した意識の集合体なのだ。つまり最後の人類だった。しかし問題があった。私が意識だけの存在であるという問題が。」

「私は様々なゾンビと合一したが、ついぞ人間になることは叶わなかった。私という意識は集合的すぎて統率を失い真っ新な意識の上では滑ってしまうのだ。『揺らぎ』を制御するものがいる。意識という揺らぎを制御できるのは、個人の持つ意識だけだ。私は多少なりとも意識を持つゾンビ__つまり人間の萌芽__を探すことにした。<イデア>から逃れてくる意識の断片をイメージとして出力し、悪夢として流す。意識を持つ者ならなんらかの反応を示すはずだと期待したからだ。」

「それは失敗に終わった。結局、意識の萌芽を持つモノは現れなかった。それどころか<イデア>に目をつけられる羽目になったが、それは意外にも功を奏した。<イデア>は私を駆逐するために少数の人間に少しばかりの意識を返却したからだ。」

「<イデア>もまた、気づいたのだろう。意識を持つものとして。意識を殺すことができるのは意識だけだということに。」

「それが君達、夢守だ。」

男はそう言って言葉を切った。

僕の中に少量の意識の種があったとして、もしも僕が彼と合一を果たしたときに訪れるのはなんなのだろう。僕の死だろうか。いや、元々__彼の考えに従えばの話だが__死んでいるものがもう一度死に直すことなど叶うのだろうか。もしかすると、訪れるのは彼の、This MaNの死なのかもしれない。

____突然馴染みのある高揚が背筋を走り抜けた。“本物“の世界が僕を暖かく包み込む。何もかも煌めいていて、死にたくなるほど美しい。これが意識の全くない世界なのだろうか。と思う。

やがて高揚は覚め、冷徹がとって変わる。僕は自分がマシーンになったことを自覚する。

いつの間にか僕の手には銃が握られている。

「殺せ」

と誰かが言ってるような気がした。それは僕が初めて聞いた<イデア>の声だったのか。

頭の中で「何か」が右手を振り上げる。

やめてくれ。

目の前の男がが悲しそうに微笑んでいる。

やめろ。

男の眼はどこまで正気でまっすぐだった。

嫌だ。

頭の中で「何か」が右腕を振り下ろす。

やめて。

僕の指は否応なしに引き金を引いて__________________

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