きっかけ7 私たちの物語
★
「零ちゃん、ナイスアシスト!」
その柔らかい笑顔に、ふっと力が抜けて膝から崩れ落ちそうになる。けれど、ぐっと堪えた。
「きゅ、急に歌ってすみませんでした……」
「いやいや!あの後の修正もうまくいったし、最初からそういう筋書きだったっけ、って思ったくらい自然だった。すごいよ、とっさに合わせられるなんて」
そうか、うまくいってたのか。
歌う怖さとか、そういうのは全て捨て去って、手を伸ばすのに必死で気づかなかった。
先輩を救いたい。
思い上がりかもしれない。けれど、私はこの大きなステージの上で一人になる怖さを知っている。
怖さを知っている私だから、できることがあるんじゃないかって。
「本当は私、あんまり歌うの好きじゃないんです。だけど、今だけは、合唱、やっててよかったって思った」
こういう報われ方もある。
そう気づけた私はきっと、幸せだ。
★
ホリゾントは、宵の藍色に染まる。
バス停を模したベンチの上で、アイを壊してしまったフラトは、背中を丸めて座っていた。
『僕はきっと、音楽家に向いてないんだろうな』
『……本当に、そうかな?』
その姿を捉えた時、心臓が止まるかと思った。
その佇まい。少年らしさが抜けない挙動と、おっとりとした話口調。
普段の胡散臭い笑みからは考えられないほど、自然な笑顔。
『ただ、君は忘れてるだけだよ。音楽は、もっと自由だってことを』
本物のエンジだ。
思わず息を呑む。台本を読んだ時、頭の中で思い描いていたエンジが、今目の前にいた。
ああずっと、このスポットライトの下で輝くシイラ先輩がみたかった。
『もっと楽しみなよ。君は僕と違って上手なんだから、もっと"楽しめる“はずだろ』
『うるさい。チャラチャラチャラチャラ、色んな楽団を行ったり来たり、気まぐれかつ不真面目に音楽やってるお前に諭されたくなんてないね』
『……ふまじめ、か。なら、君にとって真面目って、顰めっ面で弾いたり怒鳴って無理やり仲間を従わせることかい』
フラトは俯いて、地面を睨む。
『今更だっ………』
『そうかな?君はまだ「楽しめる」と思うけど。少なくとも、僕が聞いた君のヴァイオリンの音は、そう言ってたよ』
そう言って、ばっと町の音楽ホールのフライヤーを広げる。
『一ヶ月後、このコンサートホールで音楽会が開かれる。君はそこに、僕たちと一緒に出るんだ。
これが最後のチャンスだ、フラト。
アイを取り戻すための、最後のチャンス。
そして君が君として再生するための、最後だ!』
最後のきっかけを示す音楽が背景で鳴り始めた。それを合図に、
『アイ!』
ステージの中央、アイとフラトはすれ違う。去り行く背中を、フラトの声が追いかけた。
『ひどいことを言って、ごめん。僕、思い出したんだ。音楽を楽しむ気持ち……まだ、お前は知らないだろう。知らないから、聞いてほしい。
俺の音を、俺たちの音を、聞いてほしい』
★
切り替え6。
【appassionato】
リエフが四人の顔を見渡す。軽く頷くと、ハンドベルを頭上に高々と掲げた。
静寂を打ち砕く、鐘の音が鳴り響く。
教会の鐘のような音色……もう一度、今度は二つのベルで同時に宙を打った。
銀色の残像が、空に半円を描く。
フラトのヴァイオリンが唄う。よりそうように
ピアノが旋律を奏でる。
その音に背中を押され、アイは一歩、前に出た。
今も、ステージはずっと怖い。
観客席にいる全員が私を見ている気がして仕方ない。
息を吐き出すたびに足が震える。口を開けば歌詞が飛びそうで、それでも勝手に口は動きだす。
大丈夫、大丈夫。
心の内で、言い聞かせて。
ヴァイオリン、ピアノ、ハンドベル。そこに、少し調子っぱずれなタンバリンが合いの手を入れるようにリズムを刻むと、とたんに音楽が軽やかに膨らんだ。
——「演劇」は、基本的に偽物の世界だ。
けれど、この【アパッショナート!】はあまりに私たちに似すぎていた。
登場人物のキャラクターも。抱く感情はどれも「本物」で、台詞はどれも「本音」だった。
ただ一つ、違ったところがあるとするなら、この物語の結末は「ハッピーエンド」だということだろうか。
アイはフラトたちが奏でる音楽によって復活し、フラトは自身が失っていた「楽しい」という気持ちに気づく。
そして旅で出会った3人と『オストリープ』という楽団を結成したところで、この物語は終わる。
私たちは「演じる」ことで、この偽物のハッピーエンドを掴みに行く。
現実では決して掴めなかったそれは、確約されたものとして、ステージ上に確かに存在していて。
…ふふ、と思わず笑みをこぼす。
本当に、不思議な物語。
アドリブだらけ、筋書きも崩壊しているような。台詞もくさいし、展開も無理やりで。
それなのに、どうしてこんなに愛おしいのだろう。
歌い終えた
『やっぱり私、歌うのが大好きだ!』
ああ、それはきっと「本物」だから。
本物の「私」が、このステージに生きていたからなんだ。
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