きっかけ6 とっておきのアドリブ
顔を上げる。二年ぶりに浴びるステージのライトは記憶よりも眩しくて、暑かった。
椅子を引いて、ピアノの前に座る。
【affettuoso】
この曲を聴くと、いつも思い出す光景がある。
暗闇にひかるブルーライトと、ひとりぼっちの音楽室だ。
★
合唱部の炎上事件以来、寝る前にSNSをチェックをするのが私の日課になってしまった。
顧問にはできるだけ見るな、と言われたけど。
高校名で検索して、隅から隅まで目を通す。
スライドして、スライドして、
そして、とある書き込みに手が止まった。
“そもそもリスクを冒してまでやることか?合唱なんて、いつでもできるだろ“
……ああ、何もわかっちゃいない。
だって「いつでも」じゃなかったじゃん。
海の向こうの国からやってきた感染症は、私たちが本来送るはずだった青い春を丸ごとどこかへ追いやってしまった。
マスクをつけたままじゃ、まともに歌うこともできない。
三密、という言葉は合唱そのものを指しているのも同然で。
“去年は録音審査だったんだよ。今年はみんなでステージに立てるだけ、幸せかな“
先輩はいつもそうやって笑っていたけど、でも、その笑顔の分だけ涙を呑み込んでいたこと、私は知っていた。
そんな辛い時期を耐え抜いた先輩たちへ、最後の鼻向けとして用意したのが定期演奏会だったのに。
「最後くらい」、その考え自体がダメだったのかな。
『セリフのところはマウスカバーをしますから。歌う時だけは、外せませんか?』
やっぱり自分勝手、と怒られてしまうだろうか。
——
“ごめんね、私、もうここにはいられない“
止まらない誹謗中傷に疲弊した部員達は、一人、また一人と部活を去っていった。
何度、その台詞を聞いただろう。
コンクールや演奏会にむけて、いつも直前に知らされる延期や中止の情報に怯えながら、それでも共に練習に励む中培った絆は。
こんなにも脆いのだと、こんなとこで知りたくなかった。
“いのりだって、部活辞めていいんだよ。部長だから意地でも残らなきゃ、なんてことないんだからね“
仲間の一人が言う。退部届をグランドピアノの上において、立ち尽くす私に背を向ける。
なんで、合唱を悪者みたいに言う。
それじゃあ、私たちが間違ってたって認めてるのも同然じゃない。
なんで出ていっちゃうの。なんで、なんで、
——裏切るの!!
思わず飛び出しそうになった言葉を、両手で喉の奥に押し込める。
違う、こんな感情は間違ってる。誰も悪くない、誰も恨んではいけない。そう、頭ではわかってるのに。
嫌いだった。こんな風に、仲間さえも嫌いになってしまう自分が、一番大嫌いだった。
——
“自己中ってか、やめてほしいよな“
生徒会の男子にそう言われた時、自分の中の何かが決壊したのがわかった。
大好きな合唱をしようとすれば疎まれる。
だから、
それさえも否定されてしまったら、私は、一体どこで息をしたらいい?
鍵盤を力任せに叩く。
胸に溢れる激情に任せて、音楽を壊していく。
大嫌い、こんな世界。
大嫌い、こんな自分。
次の和音を弾くため、思い切り手を広げる。
けれど……
その時、まるで何かに阻まれたかのように、私の手が動かなくなった。
★
音が消える。あんなに音に満ちてうるさかったステージが、しん、と静まり返ったのがわかった。
……なんで?
震えた息に、涙がひとつ、鍵盤の上に落ちる。
楽譜があるのに、続きはどこから弾けばいいのかわからない。いや、落ち着け。演奏ができないなら、そのパートを飛ばして次の台詞を言えばいい。って思ったけど、私の次の台詞って……
次の台詞、なんだっけ?
頭が真っ白になる。練習でも、今まで一度だって台詞を飛ばしたことなんて無かった。それがなんで、よりによって、いま。
どうしよう、どうしよう……!
まずは考えて、何かしらの方法でこの場を繋がないと。でも、どうやって?
心臓がばくばくと音を立てる。
冷静に考えようとすればするほど、さらさらと音を立てて何かが抜け落ちていく気がした。
なにやってるんだ。
せっかく、掴んだステージなのに。
結局、最後までこんななのか。
耐えきれず目元を拭った、その時だった。
「——♪」
突如、ひとつ歌声がステージに響いた。
幻聴かと思って目を開ける。
いや、聞こえた。確かに、聞こえた。
真っ直ぐなソプラノ。何度耳にしたかわからない、ワンフレーズ。
わからないわけがない。
とっても歌が上手な子だった。
でも、だから気になってた。練習中に逃げ出したこともあった貴女が、歌うのを怖がっていたこと。
知ってる。この声、この声は……
彼女の顎から汗が滴り落ちる。
視線の先には、眩いステージの光に照らされて歌う、零ちゃんの姿があった。
なんで。今は、アイが歌うシーンじゃない。
なんで?アドリブなんて、そんな突飛なことを、あなたが。
けれどそんな不安も、彼女の声が吹き飛ばしてくれた。
先輩、大丈夫です、と。
左手を鍵盤に乗せる。その歌声に引っ張られるように、自然と手が動き出した。急に走り出した右手は絡まって転びかけ、また慌てて仕切り直そうとして今度は左手が絡まって一瞬不協和音を奏でる。
でも、もう迷わない。さっきまでの焦りが嘘のように、脳内には鮮やかに五線譜が走り始めた。
どこまでも伸びるその声に、つられて。
今はもういない仲間と何度も歌った、懐かしい歌詞が、私の手を引っ張ってくれる。
“先輩も歌うんですよね?“
元合唱部の零ちゃんは気づいていたのだ。
【Affettuoso】はピアノの曲じゃない。
「合唱曲の伴奏」だという事に。
エチュードではあるけれど、発生練習がわりの曲としてかなりメジャーで、おそらく合唱部員なら一度は耳にしたことがある曲だろう。
ロスが抱く「嫌い」という感情……そのテーマを聞いたとき、真っ先に思い浮かんだ曲だった。
私が、私を嫌いになった日に弾いていた曲だったから。
息を吸う。零ちゃんのソプラノに、薄くアルトを重ねる。
少しずつ、少しずつ。二つの旋律は歩み寄り,絡み合ってステージに響く。
ソプラノパートとの掛け合い。エチュードらしく、さまざまな歌の技巧が凝らされたこの曲を伴奏で弾こうだなんて、私はなんて勿体無いことをしようとしていたんだろう。
ああ、やっぱり好きだなあ。
誰かと音を重なること。対話するように、じゃれあって遊ぶみたいに、音楽を歌うこと。
私、合唱が大好きだ。
とっくに捨てた想いだと思っていた。
“リスクを冒してまでやることか?“
誰かのものかもわからないその声に、口を塞がれたあの日から。
アドリブで物語が繋がっていく。
思い返せばこの一ヶ月、そんなことばかりだった。
“旧校舎の階段下?“
“ああ。今日の放課後、来て欲しい。話がある“
2年前に演劇部を追われたはずの男子が、突如私のクラスに現れたあの日から。
出会うはずのなかった仲間と、何度も何度もあの階段で練習を重ねて、重ねて、そして辿り着いたステージは。
ちょっと幸せで、ちょっと哀しい、なんだか面白い場所だった。
そうだ。あの日から、私の物語の結末は変わっていたんだ。
予定調和のバッドエンドを壊して、その先にあるはずのハッピーエンドを目指して、走り始めていたんだね。
ついに最後の小節まで弾き切った。結局続きの台詞は出てこなかったけれど、次にステージに響いたのは私ではなく、
『素晴らしい音色だな』
ごく、自然に。それはフラトの台詞というより、ふとこぼれ落ちた「小此木の本音」のように思えた。
顰めっ面も今は鳴りを潜めて、その瞳は穏やかに揺れる。
『さすが、ピアニストのロスだ』
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