きっかけ3 「怒り」と「怖がり」

先輩の瞳の中で、不安げな顔をした自分が揺れていた。

こういう時、すぐに感情が表に出るのは私の良くないところだ。


「ちがう?」


「あ、いえ。確かに中学の時、合唱部でした……」


「やっぱり!いや、発声の仕方が思いっきり経験者のそれだからさ」


よし!と如月先輩は嬉しそうに拳を握る。

私は無意識のうちに話題をそらしていた。


「せ、先輩も、歌うんですよね」


如月先輩の役、ロスが劇中演奏する曲【Affettuoso】。

私もよく知っていて、馴染みのある曲だったから。


けれど、先輩は「いや?」と首を傾げた。


「私は歌わないよ。ピアニストの役だし」

「え?でも、合唱部なのに……?」


私の言葉に、先輩は少しだけ寂しそうに笑った。


「私、一人で歌うの苦手なんだよね。ほら、腐っても合唱部員だからさ」



この劇で、私が演じる「アイ」が歌うのは、全部で二回ある。

一回目は、きっかけ1、フラトとアイの出会いのシーン。二回目は、きっかけ5、5人全員でこの劇のテーマ「appassionato」を演奏するシーンだ。


「きっかけ」とは、演劇用語で、行動をおおこすポイントのことをさす。


きっかけ1。

街の工場に見立てられた踊り場の真ん中で、ヴァイオリンを抱えた小此木先輩フラトアイは向かい合った。


『おまえのうたをきかせてほしい』


フラトがぎこちなく台詞を言い、ヴァイオリンを構える。途端、顰めっ面からすっと引き締まった表情に変わったのがわかった。


先輩のヴァイオリンは、綺麗だ。


長い弓が、先輩の動きに合わせて優雅に宙を揺らぐ。左手は指板を自由自在に飛び回り、ときおり軽やかにトリルを奏でる。

その姿はまるで一つの、芸術作品のようで。


そして、綺麗だからこそ、なおさら私は歌うのを躊躇してしまうわけで。


たっぷり息を吸ったはずなのに、漏れ出た声は細くて頼りない。苦しい、そう思いながら、絞り出すように声を出す。


ああ、全然だめ。

情けない声。歌詞を歌ってはいるけれど、どこか上滑りしていく。


ずぶずぶと、記憶の渦に沈んでいく。

思い出したくない、けれど忘れられない、あの声が響く。


“なんか零ってさ、声、変じゃない?“


中学校で、合唱部だった頃の私。

あの子達の、押し殺すような笑い声。


オレンジ色のステージでは、みんなと同じ方向を向いていて、その「みんな」はもれなく仲間だと思っていた。

でも、きっとそれは私の都合のいい「想像」にすぎなかったんだよね。


“実は零って幽霊ユーレイのレイ、なんじゃん?“


あの日、気づいてしまった。 

最悪の日に、最悪のタイミングで

ここは私の居場所じゃないんだ、って。



踊り場床の木目が波のように歪んで見えた。あれ、なんで私、歌ってるのに下向いてるの。

慌てて前を向く。けれど緑色の壁も、白く光る窓も、どこかぼやけて映る。


ちゃんと歌わなきゃ。

ちゃんと、ちゃんと……


額から溢れた汗が、つーっと頬にそって流れて、地面を濡らす。だめだよ、そんなんじゃ……あの子達の声に、自分の声が重なる。

頭の中がぐるぐるして、気持ち悪くなってくる。

ぎゅっと目を瞑った、その時だった。


「……おそね、大曽根!」


突如呼ばれた自分の名前に、瞼が弾かれたように開いた。

口をつぐんでいたことに気づき、慌てて顔を上げる。


「っ、あ、……す、みません」


音楽は止んでいた。震える声でどうにか謝ると、ヴァイオリンを構えたままの、小此木先輩と目が合った。

一重の鋭い瞳が、ぎろりと私を睨む。

途端、すっと背中が冷えるのがわかった。


……ああ。

私はこの顔を、よく知っている。


“おい、大曽根“


中学校の時の、合唱部の顧問の先生がよく私に向けてこんな顔をしていたっけ。

あの日も、あのステージの上でも。

前で指揮を振っていた先生は絶対、私の異変に気づいていたはずなのだ。


「ちょっと零ちゃん、大丈夫?顔色悪いけど……」


如月先輩が小走りで階段を駆け上がってきた。けれど、私は固まったまま動けなかった。


小此木先輩が口を開く。

重なる。その顔と、声。

あの日のステージの後。客席に戻ったあと俯いたまま泣くのを堪えていたときに、先生は私を見下ろして言ったのだ。

銀色に光るメガネの奥の、目を細めて。


お前には失望した、と言わんばかりに……


「“お前今の、どういうつもりだ“」


「……っ、!!」


手から台本が滑り落ちる。咄嗟に二、三歩後ろに下がって、身を翻した。「こら小此木!あんたねぇ、」如月先輩の声がする。「零、待て!」階段を駆け下りた時、背後でシイラ先輩がそう叫ぶのが聞こえた。


……先輩、劇を止めちゃって、ごめんなさい。


地面が揺れる。はぁはぁという自分の洗い息だけが、爆音で世界に響いていた。


私、歌うのが怖いの。


中学生の時から、ずっと。


だからあの日、中学最後のコンクールの日。大きなステージの上で声を出すのが怖くて、声が変だって笑われるのが怖くて、歌わなかった。


まるで幽霊のように、ただ黙って木目の床を眺めていたんだ。


旧校舎を飛び出す。むさ苦しい真夏の熱気に身を溶かすように、私は渡り廊下を走って行った。



旧校舎の裏、講堂の入り口。石畳の階段に腰掛ける。

涙はすっかり渇いて、その跡を優しく撫でるように時折り生温い風が吹いた。


……もう二度と、歌で人に迷惑をかけないと誓ったのに。


再び鼻の奥がつん、と熱くなる。あれだけ泣いても、目の淵には涙の泉があるらしく、少しでも刺激されればすぐにぽろぽろと涙が溢れる。

そもそも、今の私に歌う権利なんてない。


“零は歌役だ。なに、そんな不安そうな顔をするな。俺なんか楽器も歌もできないからタンバリンだぞ“


そう言っておどけたシイラ先輩につられて、もしかしたら出来るんじゃないかと思い上がってしまった。

でも、やっぱり無理だった。

小此木先輩の顔を思い出して、胸がずっしりと重くなる。相当ひどい歌だったんだろう。

そもそも歌ってて苦しかったし、音程や技術的なことを考えている余裕もなかったんだから。


息を整えるために、ふーっと息を吐く。ふと、今なら歌えるかと思い立ち,メロディを口ずさんでみる。


声を出す感覚は、さっきとはまるで違った。体が軽くて、吸った息を漏れなく音に乗せられる。

そよぐ風が心地いい。どこまでも、飛んでいける気がする。

ああ、ステージでもこう歌えたらな……


どれくらい経った後だろうか。私はふと、口を継ぐんだ。


背後に誰かいることに、気づいたから。


でも、心霊的な怖さは感じなかった。

なんとなく、誰かはわかったのだ。


「ちゃんと歌えんじゃん、お前」


そっと振り返る。案の定、もはや見慣れたツンツン頭が仁王立ちしていた。目が合うと、きまづそうに目を逸らされた。


「さっきのは、お前を責めて言ったわけじゃなくて、……ただ、お前楽譜も見ずに下ばっか向いてて何してんだって言いたくて」


私はなんと言えばいいかわからず、泳ぎまくっている先輩の目元を凝視した。


「……あーもう!ちげぇよ、俺が悪いの!」

「いや、私何も言ってないです」

「でも泣いてんじゃん」


言われて気づく。涙の痕、見られた!慌ててそっぽを向いたわたしの隣に、先輩はどっかりと腰を下ろした。


「……あんな言い方しかできなくてわりぃ」


首にかけたタオルで、わしゃわしゃと髪の毛を拭く。沈黙が気まずくなったのか、「俺のいた弦楽部さ、」と話始めた。


「去年から顧問が変わって、名指揮者って呼ばれてた奴からすげー放任主義みたいなのになっちまって。皆それで一気にやる気無くして、練習しなくなった。

でも、部長だった俺はそれが許せなくて、部員を怒ってばっかだったんだよ。練習しろド下手くそアホカスってな」


「い、言い過ぎでは……」


「ホントだよな。

でも、当時の俺はそれでも必死で、わかんなかった。

どうしたらアイツらがやる気出すのか。

部長ってどうやるのか。

顧問だけのせいにしたくなかった。俺らだけでもちゃんとやれるって、信じたくて必死だった。

でも、だめだったな。気づいたら、ひとりでさ」


一瞬、先輩の瞳が揺れた気がした。気のせいかも、しれないけど。

そんな顔、小此木先輩らしくない。


「ま、俺のことはどうでもいいんだけど、」


先輩は気持ちを切り替えるように立ち上がると、ぐいっと伸びをした。


「上手いとか下手とか気にする必要はない。

それよりもこの劇は「感情」がずっと重要だ。

嫌だ、怖いって思いながら歌ってたら、お前が言うより先に音がそれを語っちまうぞ」


風が吹く。私の前髪と、先輩の脳天で明後日の方向を向くアホ毛と、先輩が左手に握る台本をぶわりとさらっていった。


角が丸くなって、捲れ上がった台本。鮮やかな赤やピンク色のマーカーが走る、台本。


「なんだその顔」


先輩に睨まれて、私はいつのまにか自分の頬が緩んでいたことに気づいた。


「いや……ありがとうございます。私、もうちょっと頑張ります」


「なんで、なんだよ。死ぬ気でやれ」


先輩の背中に、まだらな木漏れ日が影を落とす。

まだ、歌うのは怖いけど。

でも、先輩のフラトに見合うアイになりたい、と思った。

先輩はフラトそのものだ。ちょっと乱暴で不器用だけど、でも誰よりも一生懸命だった。



【アパッショナート!】は、フラトとアイの出会いから始まる。

完璧主義のフラトと、欠陥ロボットのアイ。

凸凹な二人が繰り広げるコミカルなやり取りが、物語の要所要所で笑いを誘うのだ。


この物語の完成度は決して高くない。台本上の矛盾も多いし、設定も細かく見ていくと歪みがある。けれど、一度物語が始まると、その違和感はどこかに飛んでいってしまう。


台本の上にはない「何か」。それを吹き込むのは、この物語に命を宿すものは、一体なんだろう。

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