ニンゲン
村のリレー大会の直前のことです。
魚獲り当番とワカメ当番のひとが仕事を終え次第リレー大会を始めよう、ということになっていました。
もうすぐ始まるんだ、という村のみんなのあの緊張感を伴う期待を思い出すと今でも胸が痛くなります。
その時ワカメ当番だったわたしが、全てを台無しにしてしまったからです。
正直わたしにとってはリレー大会なんてどうでもよくて、そんなことよりまたラデンに会えることの方がずっと重要でした。
それに、ラデンや人魚に関する様々な
何か手がかりになるかもしれないと思い、洞窟に隠していた例のナイフを足にしっかり握り、わたしはあの巨大ワカメを目指して泳いでいきました。
今から思えば、あの時巨大ワカメは少し変でした。
いつもと違いおいしそうな香りはしませんでした。
海流も怒ったみたいにごうごう激しく、暖かかったはずの海水は全身を刺すように冷たかったのです。
けれどラデンのことで頭がいっぱいだったわたしに、そんなことを気にしている余裕はありませんでした。
何か得体の知れないものに取り憑かれたような心地で、海の上へ上へと泳いでいきました。
早く、早く会いたい、そうはやる気持ちに抵抗する
そうしていつもラデンと話しているあのすべすべした岩にたどり着きました。
ここは海底ではなく、海の上の方の浅瀬。これもいつかラデンに教わったことです。
ここもやはりどこか変で、海の外に近いはずなのに、いつもの明るい光は見当たりませんでした。海流はそこでも相変わらず激しく冷たくて、いつも漂っているあの甘い香りもしていませんでした。
何よりラデンがいないのです。
わたしが来る時はいつも、あの岩にふわりと座って待ってくれていたラデンが。
にっこり美しい笑みを咲かせてわたしを迎えてくれたラデンが。
わたしはラデンを探すことにしました。
とにかく近くを歩いてみます。
ナイフをしっかり足に握り、冷たい海流の中を一歩ずつ進んでいきます。
どれくらい歩いたでしょう。浅瀬はさらに浅くなり、余計に海の外へ近づいているのがわかりました。歩けば歩くほど海は浅くなっていきます。呼吸もだんだん苦しくなったけれど、歩みを止めようとは思いませんでした。
頭上の海が薄くなるにつれ、海の外に本当に違う世界が広がっているんだという実感が湧いてきました。
ラデンに会いたくて、海の外を見てみたくて、わたしはずんずん歩いていきました。
かなり浅いところまで来ました。
足を突き上げれば今にも海の外へ出られそうです。
わたしが覚悟を決めたその時、海の外の方から生き物の声が聞こえてきました。
食用でない生き物のようです。もしかして、ニンゲンでしょうか。
わたしは聞こえてくるものに耳を傾けました。
低い声が海水に反響し、わたしの聴覚に振動を伝えます。
「……いつまで黙ってるつもりなんだよ! いつもいつも好き勝手どっか行きやがって!」
ものすごい剣幕で怒っているようです。
「やっぱお前……人魚なんだろ。なぁそうなんだろ!? なんとか言ったらどうなんだよ! 口をきくつもりがないんなら、お前も捕まえて街の博物館にあるあのホルマリン漬けの半魚人みたいにしてやる……!」
人魚? 半魚人?
わたしはいてもたってもいられなくなって、頭を海の上に出してしまいました。
海の外には水がありませんでした。
景色は海の中とは違うふうに見えます。
音は海の中とは違うふうに聞こえます。
地面には浅瀬にあるものと同じ、サラサラした砂が一面に広がっていました。
向こう側に見たことのない生き物がふたり、向かい合って立っていました。
なぜだかすぐに、それがニンゲンだと悟りました。
それにしても、信じがたいほど奇妙な生き物でした。
ニンゲンの中心部は謎の素材でできていて、そこから上には人魚によく似た顔やウデが、下からは半魚人によく似た足が生えていたのです。
怒鳴り散らしている方のニンゲンは顔を真っ赤にしてワナワナとカタを震わせています。
もう片方のニンゲンは、長く流れる黒いカミに透き通るような白い肌──そこでわたしはハッとしました。ニンゲンの見た目をしていますが、それは確かにラデンだったのです。
ニンゲンの方は怒り狂い、
ラデンを助けなければ。
わたしの方は、頭だけを海から出している状態でした。
水がないせいか、だんだん呼吸が苦しくなってきました。
目の前で起きていることが、やけにスローモーションに見えます。
脳みそがそのまま干からびてしまいそうで、わたしは冷静な判断力を失っていたと思います。
そしてわたしは多分、うまく体勢を変えて足を海から突き出し、握っていたナイフをニンゲンめがけて思い切り投げ飛ばしたのです。
そのあと視界がぼやけ、わたしは意識を失いました。
気づいたときには海に戻っていました。
わたしは浅瀬のあのすべすべした岩にいて、隣にはラデンが座っていました。
海流は元通りあたたかく緩やかで、あたりにはいつもの優しい匂いが漂っていました。差し込む光もいつも通り幻想的でした。
どうやらラデンがここまで連れてきてくれたようです。ラデンは殴られずに済んだようで、わたしはどっと安心しました。
ですがラデンは両テで目をこすっていました。
「ラデン……?」
わたしに気づいたラデンはゆっくりとこちらを向きました。その顔はなんとも言えない表情をしていました。
どうしてか気まずくて視線を落とすと、ラデンとわたしのちょうど真ん中あたりにあのナイフが置かれていることに気づきました。
鋭く尖っている方の面には少量の赤黒い血が付着していて、それが海流にふよふよと溶けていきます。
「ナイフはあの人に当たったわ。深い傷にはならなかったけれど」
ラデンが口を開きました。
わたしがあのニンゲンを傷つけたことがラデンにとって嬉しいのか悲しいのか、あるいはその両方なのか、わたしにはわかりませんでした。
ラデンは難しい顔で話し始めます。
「アナタ、私がうらやましいっていつも言っていたわね。全然、そんなことないのよ。私たち人魚はね、人間にならなければいけないのよ」
まっすぐ前を向いたまま話すラデンは、必死に何かを抑えているように見えました。
それからラデンが話したのは、聴覚を疑うような内容でした。
人魚たちは、『人魚の母』に支配されている。
『人魚の母』の目的は人間との融合。
海の外へ出るときは人間の体になれる。
人魚はそれぞれ誰か一人の人間に愛されて結婚しなければならない。
失敗したら海の泡となって消える。
そんなような話だったと思います。
当時のわたしにはユウゴウなどの意味はわかりませんでしたが、とにかくラデンが恐ろしく厳しい世界におかれていたことを初めて知ったのです。
想像もしていなかった事実に、わたしは何と言っていいのかわかりませんでした。
ラデンはこらえきれなくなったようで、両テを顔に押しつけて泣き始めてしまいました。
真っ白な顔が徐々に赤みを帯びていきます。
長く繊細なマツゲの下からこぼれる水滴は美しくきらめいていて、あたたかな海水に混じり先ほどのニンゲンの血液に溶けていきました。
どうしていいかわからなくてなったわたしは慌てていたと思います。
泣かないで。ラデンのきれいな顔が台無しだよ。
そう言い終わる前に、「やめてよ!」と怒られてしまいました。
「アナタにはわからないのよ。私、アナタがずっとうらやましかった。家族や友達といつも楽しそうで……。私の周りの人魚たちはみんなピリピリしてて、いつもお互いを
ラデンは一気にそう叫ぶと、激しくどわっと泣き出してしまいました。
そんなラデンを見ていて、わたしはわからなくなりました。
こんなに醜いわたしのことがうらやましいなんて、やっぱり理解できないと思ったのです。
人魚の寂しさや、泡にされてしまうという恐怖が当時のわたしには実感できなかったのです。
哀れなラデンを見ていて、ふいにまたあの不気味な感情がわたしを襲いました。
流れる涙、泣き腫らした顔、苦しみにまみれた嗚咽、その心の痛みが、とても神聖で可憐に見えてしまったのです。普段の完璧なほほ笑みよりもずっと、魅力的だと思ってしまったのです。
かわいそうだと同情するよりも強く、永遠にこのまま苦しんでいてほしいという気持ちの悪い欲望がわたしを蝕みました。
美しいものが無様に落ちぶれた姿をいつまでも見ていたい、わたしだけのものにしてしまいたい、食べてしまいたい。そうすればこの美貌を手にしてしまえる、そんな妄信がこびりついてしまいました。
本能に従おうとしたその瞬間、ラデンの太ももの大きなアザが目に飛び込んできました。
先ほどのニンゲンのせいでできた傷でしょうか。
傷つけられたラデンの心を思うととてつもなく悲しくなって、わたしの不気味な感情は海水に流されてどこかへ消えていきました。
白く華奢な肌、銀色に輝くウロコ、青くて赤いアザ。
わたしは黙ってそれらを見つめていました。
しばらくして、ラデンは落ち着いたようで泣き止みました。
目に残った涙を右テと左テで交互にぬぐい取り、その細い体をわたしの方へ向けました。
「さっきは怒鳴ったりしてごめんなさいね」
そう言ってラデンは優しく笑いました。
「ううん。わたしこそごめんなさい。今までずっと、ラデンの気持ち考えてなかった」
ラデンにとって、美しいとか醜いとかそんなことよりももっと大切なものに気づかなかったことに対して、わたしは心底申し訳なく思ったのです。
「いいのよ。……ねぇ聞いて。私失敗したから、きっともうすぐ泡になって消えてしまうの。だからアナタに会えるのはこれで最後になると思う」
「そんな……」
わたしの悲観を遮るようにラデンは続けます。
「でも、いいの。私、アナタに出会えて本当によかった。他のひとと話す楽しさとか、優しさとか、初めて知ったわ。今までありがとう」
押し潰されそうな絶望を浮かべたわたしに、ラデンは柔らかな笑みを向けました。
白くてどこか冷たそうだと思っていたその顔が、そんな温かい表情も映し出せることを、そのとき初めて知りました。
自分への嫌悪、人魚への憧れ、別れ、そんなものは全部、涙と血と一緒に混じって海水へ溶けていくようでした。
「そうだ、これ。もらってもいいかしら? もしかしたら、今の人魚の世界を変えられるかもしれないの」
ラデンはあのナイフを手にしていました。
「いいけど……?」
わたしはその意味がわからず目をパチパチさせました。
「ありがとう」
そのあともう一度、ラデンはお別れの言葉をくれました。
それを最後に、ラデンに会うことはもうありませんでした。
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