ニンギョ

 またわたしがワカメ当番になったある時のことです。

 わたしは他の当番ふたりと一緒に「いってきます」と口をそろえて村の外れに向かいました。


「あーあ、また当番か。面倒だな〜」

「隙あり! 必殺タックルだっ!」

「やったな!? 今から鬼ごっこで白黒つけようぜ」

「望むところだ!」


 他の当番の子たちは遊んでしまってどうしようもありません。

 わたしはひとり真面目にワカメを探しに行きました。



 その時わたしはどうしてか、いきのいいワカメを採れる場所を新しく開拓してみたくなったのです。

 いつもワカメを採っている場所を通り過ぎ、海の奥をずんずん進んでいきました。





 いつの間にか、海流が緩やかな明るい場所に出ました。来たことのない場所です。村の外でしょうか。

 思えばあの場所は、わたしの日常と非日常を繋ぐ境目だったのかもしれません。


 ふいに嗅覚が磯の芳香をとらえました。

 その匂いに呼ばれたかのような心地がして、わたしはふらふらと漂っていきました。



 たどり着いた先には、明るい水の中でゆらゆら揺れる巨大なワカメが生えていました。

 そのワカメは頂点が見えませんでした。普通のワカメとは違い、ずっと上の方まで伸びているらしいのです。


 緑色が光に透かされて、とてもきれいに見えました。

 そして、美味しいワカメの条件であるいい匂いがします。

 あの磯の香りはやはり、このワカメから出ていたのです。


 ワカメはてっぺんの柔らかいところが一番おいしいのです。

 わたしはその巨大ワカメの頂点目指して、どんどん上へと泳いでいきました。



 ──海の上の方に行ってはいけないと言われたことも忘れて。




 頭を上にし、両足をバタバタさせてずんずん登っていきます。

 足を動かすたびに生まれる泡を蹴り上げるようにして、どんどん登っていきます。

 明るい光が徐々に視界を占めていきます。




 かなり上まで来たところで、わたしは海の終わりを悟りました。

 頭の上でちゃぷちゃぷ揺れている水はもうだいぶ薄くなっていたのです。

 このまま行けば、海を突き抜けてしまいそうです。


 海の外はどうなっているのでしょうか。水はないのでしょうか。食用の魚やワカメはあるのでしょうか。海の外にはどんな世界が広がっているのでしょうか。


 好奇心が先走り、わたしは巨大ワカメのことなんてすっかり忘れてしまいました。




 ふと、両足が地面についていることに気づきました。海底からは相当離れたところまで来たはずなのに、不思議です。

 海の上の方にも、海底は存在するようです。

 わたしは上へと泳ぐのをやめ、地面を横へと歩いていきました。


 足元にはサラサラした砂が広がっていて、踏みしめるたびに両の足の裏が海に溶け込むような心地よさがあります。

 海流は穏やかで、冷たい村と違いとてもあたたかです。ほんのり甘い匂いもしてきます。

 わたしの村がある海底はどこも暗いのですが、その場所は上の方から明るい光が通り込んでいました。

 包み込むようなまばゆい光に照らされて、あたりは青く幻想的に透き通って見えました。



 夢の中にいるようでした。

 その時だけは、自分の体の醜さも忘れ、わたしがわたしという形を失ったかのような不思議な心地がしたのです。




 近くに大きめの岩を見つけました。

 村にあるものとは違い、表面がすべすべしています。

 たくさん泳いで疲れていたので、わたしはそこに座って一休みすることにしました。



 岩の上でひとり、わたしは両足をバタバタさせます。

 改めて見るとなんて醜い足なのでしょう。

 太くて、重くて、表面はツルツル。何よりそれが魚の体からにょっきり生えているのがとにかく吐き気を催すほど気持ち悪いのです。


 あたたかく優しい海流の中で、わたしは悲しくなりました。

 人魚みたいに、きれいになれたらいいのに。

 なれないのなら、この泡になって消えてしまいたい。

 足を動かすたびにぶくぶく湧き出る泡を蹴り飛ばしながら、そんなことを思いました。





 ちょうどその時、近くから話し声が聞こえてきました。

 食用じゃない魚でしょうか。好奇心に惹かれるままに顔を傾けます。



 人魚でした。

 今まで実際に見たことはなかったけれど、それが人魚の群れだということはすぐにわかりました。



 わたしが座っているのと同じような岩に、何匹かで集まって話しているようです。

 思わず前のめりになって眺めました。



 体の上半分は、わたしたちの足と同じような素材でできています。


 ツルツルの肌──体の芯から左右に、わたしたちの足に似たものが一本ずつ生えています。芯の上部にある頭からは、美しく長いワカメのようなものが流れています。


 対して体の下半分は、よく見る魚の尾の部分とよく似ています。が、一般的な魚よりも長くうねりがあり、キラキラ光沢があります。



 人魚のひとりが何か言い、他の人魚がくすくす笑います。足のようなものを顔のようなものに当て、緩やかにウェーブのかかったワカメがゆらゆら揺れます。



 信じられない光景でした。

 こんな素敵な生き物が、本当にわたしの住んでいる海にいただなんて。

 わたしは何もかも忘れて魅入りました。




 どれくらいそうしていたでしょう。

 人魚たちは話し終わったようで、それぞれ散ってしまいました。


 少し残念な気分になりました。

 あの光景を永遠に見ていられたらいいのに。


 そう思っていたら、人魚のうちのひとりがずんずん、わたしの方へ近づいてくるではありませんか。

 ついにその人魚は、わたしの正面まで来て泳ぎ歩き止まりました。

 視界がぐらぐらして、海の流れていく音がぐわんぐわん不安定に聞こえます。意識が飛んで、壊れてしまいそうです。 




「お隣いい?」

人魚はそう聞いてきました。ウロコのこすれるような高くて繊細なその声が、こだまするみたいにわたしの聴覚を往復します。


 わたしがうんと返事をする前に、人魚は同じ岩にすとんと座りました。同時に、爽やかで優しい匂いがふわりと広がります。わたしは人魚の動きをぐにゃりと目でたどりました。


「あなた、半魚人よね。初めて見たわ。さっきからずっと私たちの方を見ていたけれど、どうかしたの?」


 事態を飲み込めないわたしは何も言えませんでした。

 ずっと憧れてきた人魚が、本物の人魚が、目の前にいるのです。しかも、わたしに話しかけているのです。

 間近で見たそれは想像していたよりもずっと素晴らしく、声も海より遠く透き通っていました。

 憧れと緊張に挟まれて、おかしくなってしまいそうでした。


「えっとあなた……大丈夫?」

美しい顔がじっとりとわたしを覗き込みます。わたしは勇気を振り絞って声を震わせました。

「あ、ええっと……。わたし、人魚、見たの初めてで、その、あんまりきれいだったから、つい……」

口ごもるわたしを前に、その人魚はなあんだ、と笑いました。体を揺らしてくすくす笑うその姿に目を奪われてしまいます。


 間近で見る人魚の上半身の肌はきれいに輝いています。透き通る白さは無機質に見え、それがひんやり冷たいのだろうと思わせました。

 頭からは真っ黒なワカメのようなものが繊細にゆらゆらと流れています。よく見ると至極細い線が数えきれないほどたくさん集まってできていました。

 顔は不思議な作りをしていました。絵本で見たものと同じ構造ですが、こうして見るとなんとも奇妙なものでした。


 そして上半身にはところどころ、赤色や青色のアザが浮いていました。


 体の途中から下は魚の見た目をしていました。ウロコは銀色にキラキラ輝いていますが、少し向きを変えて見ると青色にも緑色にも紫色にも見えます。その人魚の感情に反応するかのように、先端の形の整った尾ビレがゆうらり動きました。



「わたし、ずっと人魚にあこがれてて……」

そこまで言ってはっとしました。


 自分の体を見つめます。

 どうしてこれほどまでに醜いのか。憎くて憎くてたまりません。


「どうして?」

人魚はにっこり笑ったままたずねます。わたしのけがらわしい聴覚を浄化してしまえそうなほど美しいその声に酔いそうになりながら、わたしは言葉をねじ込みました。


「だって、人魚はすごくきれいだから。わたしの見た目がこんなに気持ち悪いのは、半魚人だからなの。わたし、きれいになりたくて、人魚になれたならなって、ずっとずっとそう思ってて……」


 意外なことに、その人魚は少し怒ったような顔を浮かべました。

「そう? そんなにいいもんじゃないわよ、人魚って」



 わたしが理解できないという顔をしていたのでしょう、人魚は話題を変えました。

「自己紹介がまだだったわね。私の名前はラデン。あなたは?」

「ナマエ……?」

聞いたことのない単語にわたしは呆然としてしまいました。すると今度は、人魚はとても悲しそうな顔をしました。


「えっとね。人魚の中でも、それぞれの個体を見分ける必要があるの。だから人魚にはひとりひとり違う呼び方があるのよ。で、私はラデンと呼ばれているってわけ」

「ラデン……」

「そうよ」

初めて聞く概念に、わたしは興味を覚えました。そんなこと、大人たちは今まで誰も教えてくれませんでしたから。


 緩やかな海流が包み込むようにわたしの全身を撫ぜていきます。


「じゃあ、わたしの名前はアナタ。ラデン、さっきからわたしのことをアナタって呼ぶから」

わたしがそう言うとラデンは少し驚いた顔をしてから、そうね、そうよ、と笑いました。ラデンが笑っているところを見ると嬉しくて、いつの間にかわたしも笑っていました。


「そろそろ行かなくちゃ。私たち人魚はね、危険だから半魚人には絶対に会っちゃいけないって言われてたのよ。でも全然そんなことなかった。アナタと話せてよかったわ」

ラデンは器用に片方の目をぱちっと閉じて見せました。そしてまたこの岩で会いましょうねと言って、きれいな軌道を描きながら泳いでいってしまいました。



 夢が弾けてしまったようでした。


 その時わたしは急に、村で言われたことを思い出しました。

 決して人魚に関わってはいけない。村に二度と帰れなくなる。

 人魚のその美しさに惑わされて……。

 全身のウロコが逆立つような恐怖が駆け巡りました。


 でも、ラデンには何もされませんでした。

 そういえば、大人たちは危ない危ないという割には、具体的に人魚に何をされてしまうのか教えてくれたためしがありませんでした。



 村の大人たちよりも会ったばかりの人魚を信用するだなんて、やはりあの時のわたしはどうかしていたのだと思います。

 少なくとも、万が一人魚に会ったことが村のひとにばれてしまえばただでは済まされないでしょう。

 わたしは泳いで泳いで、なんとかあの巨大なワカメを見つけ出しました。大急ぎでてっぺんの部分を噛みちぎります。

 そしてそれをくわえたまま、わたしは巨大ワカメをつたうようにして下へ下へと泳いでいきました。

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