人魚になりたかった半魚人の話

結城 絵奈

ウワサ

 人魚のウワサを知っていますか。

 この海の上の方に住んでいて、見た者を惑わす美しい容姿をしているという、例の生き物です。

 実際に見たことはありませんでしたが、当時のわたしはその人魚というものに強い憧れを抱いていました。


 それがまさかあんなことになるなんて。

 果たしてわたしのしたことは間違いだったのかどうか、今となってはもう分かりません。

 夢は夢のままに終わる方がよかったのかもしれません。

 それでもわたしはこの岩に、こうやって本当に起こったことを描き記しているのです。





 𓆟





 わたしたち半魚人は、深い海の底にある村でかたまって暮らしています。

 村に住む半魚人はみんな顔見知りで仲が良く、どのひととも交流がありました。

 そんなわけで、わたしたちはいつも家族や友達、仲間たちと一緒に生活していました。


 村はとてもいいところです。

 泳ぐと冷たい海水が体を撫ぜ、とても気持ちがいいのです。

 おいしい食料も豊富で安定しています。

 近くには大きな洞窟があり、眠りたいときや休みたいときはいつでも利用できます。

 そして何より、村のひとたちは皆フレンドリーで優しいのです。



 わたしたちは普段、ワカメや食用の魚を取って食べて暮らしています。

 食用と食用じゃない魚の見分け方は簡単です。しゃべらない魚はみんな食用なのです。

 魚をるのは大人の仕事で、ワカメをるのはわたしたち子どもの仕事でした。



「見てみてー! おいしそうなワカメが採れたよー!」

あるとき、ワカメ当番だったわたしは採れたワカメを自慢げにぶにぶにしながら、お母さんに見せました。


「おいしそうねえ。ありがとう」

お母さんが嬉しそうに目を細めると、わたしも嬉しくなりました。


「おお、ワカメ採りの腕が上がったねぇ」

ウロコが大きい友達のお父さんもやってきて、そう言ってくれました。


「すごいね! そういえば、あたしのお姉ちゃんもワカメを採るのが上手なんだよってママが言ってた!」

寄り目気味の友達もそう言いました。


「そうなんだ! わたし、早くそのお姉さんに会ってみたいな」

寄り目気味の友達のお姉さんは、とても優秀なので遠く離れた場所で何かの訓練をしているそうです。

「あたしも早く会いたいっ!」


 周りにいたみんなはなぜか凍りついたような表情をしました。


「もうみんな集まったのかい。いい魚も獲れたし、もうご飯にしようか」

村長さんがやってきてそう言いました。




 この村では、村のひと全員で一緒に食事をします。

 大きな岩のテーブルに獲れた魚を並べ、みんなで捌いて少しずつ取り分けて食べます。

 食事前、わたしはよく、みんなで食べる魚のみずみずしい食感を想像してずるりとヨダレを垂らしたものです。


 もちろん、ワカメを食べるのも楽しみでした。

 弾力のあるワカメをコリコリ噛みながら、わたしはみんなの会話に耳を傾けます。


「お宅の奥さん、最近はどうよ」

わたしのお父さんが、寄り目気味の友達のお父さんに話しかけています。

「相変わらずかな。洞窟から出てくる元気もないようで」

「それはお気の毒に……」

「まあ、でもそれより、娘に色々と吹き込んでいるみたいで。正直そっちの方が困るんだよなぁ」


 寄り目気味の友達のお母さんの話でしょうか。

 寄り目気味の友達のお母さんは心の病気らしく、休憩所である洞窟から一歩も出てきません。

 よく寄り目気味の友達やそのお父さんがお見舞いに行っているところを見かけます。


 当時のわたしは不思議そうな顔をして、ただワカメをごっくんと飲み込んでいました。





 村の大人たちはとても優しいのですが、彼らには少し変なところがありました。

 人魚、という言葉に過剰に反応するのです。

 なんでもその美しさの虜になると、騙されてとんでもない目に遭うのだとか。とにかく小さな頃から、人魚は危険だと繰り返し繰り返し言われてきました。


 その割に大人たちは人魚にかなり執念を持っているように見えました。

 わたしのお母さんもよく、人魚の美しさをうっとりとして語っていました。

 わたしはずっと前からこの矛盾に疑問を持っていました。


 そしてわたしも、その人魚とやらに大変な興味を持っていたのです。




 村に住む子どもは必ず、ある絵本を読むことになっています。

 わたしたちの暮らす海底の一番端に、絵の彫られたごつい岩がいくつも並んでいるところがあり、それを絵本と呼ぶのです。


 岩に描かれている絵は、大昔に半魚人の先祖が描いたものだそうです。

 その絵は順番に読んでいくと一連のお話になっています。


 ストーリーはまとめるとこんな話です。

 半魚人の子どもがいて、ある時ワカメを採りに出かけた。海流の勢いに流され、海の上の方に来てしまった。そこでとてもきれいな人魚に出会った。半魚人の子は人魚の美しさに惑わされ、人魚に誘われるがまま着いていってしまった。その後、半魚人の子が村に戻ることはなかった。

 要するに、人魚と関わってはいけないという教訓なのです。


「その半魚人の子は、どうなったのー?」

絵本を見たあと、ウロコが大きい友達が目の濁ったおじさんにそう尋ねていました。


 おじさんは濁った目をぎょろりと動かして答えました。

「さあ、それはあんまり恐ろしいから、おじさんの口からは言えないな。とにかく、人魚とは決して関わってはいけないよ。特に、人魚がいる海の上の方には絶対に行っちゃいけないよ。いいね?」


 それを聞いたみんなはゴクリと息を呑みました。





 絵本を見たあと、わたしは人魚のことが気になって気になって仕方がありませんでした。

 それは寄り目気味の友達も同じだったようで、わたしたちはよく人魚について話し合いました。


「ねえ。絵本の人魚の話だけど」

「うん。気になるよね。人魚に会ったら、一体どうなっちゃうんだろう?」

「教えてくれないの、怪しいよね」

「だよね。それにしても人魚って、どれくらいきれいなんだろうなあ」

寄り目気味の友達は夢見るようにそう言って、うっとりと両目を閉じました。

わたしも同じようにやってみます。


 目の前を真っ白な泡がぶくぶくと覆います。

 その泡が徐々に海に溶け、現れたのは目を見張るほど美しい生き物です。

 体の上半分はツルツルした肌で、頭からはにょろにょろとワカメのようなものが生えています。

 体の下半分はわたしたちが普段見る魚とあまり変わりませんが、ウロコはキラキラ輝いています。

 あまりの美しさに、言葉を失います。


 あの岩に描かれていた人魚の絵が動いているところを想像するのはなんて楽しいのでしょう。


「いいなあ。人魚みたいに、きれいになりたいなあ……」

寄り目気味の友達が少し寂しそうにつぶやきました。

ほんとだね、とわたしもため息をつきました。




 わたしたち半魚人はみにくい種族です。

 全く違う性質の上半身と下半身が合体したような体をしています。


 上半身は普段見かける魚と似たような見た目をしています。海底で暮らすのに適した顔はお世辞にもきれいとは言えません。あのおじさんほどではないにしろ、みんな目が濁っています。ぬめぬめした体からはゴリゴリしたウロコが生えていて、それが鈍い色を放っています。エラがうにょうにょ海水を吸い込む姿もなんとも気持ちが悪いのです。そして、わたしたちが泡を吐くたびに、あたりには質の悪いワカメのような異臭がするのです。


 一方下半身にウロコはなく、代わりにつるつるした足があります。太くて重いそれが魚体から生えている姿は醜くてなりません。二本の足を使ってパタパタ泳ぐのですが、これがまた泳ぎづらくてなりません。



 村長さんや大人たちはいつでも、半魚人は素晴らしい種族だ、誇りを持ちなさいと言いました。

 それでもわたしたちはちゃあんと知っていました。

 わたしたち半魚人が他の種族からどんな目で見られているかということを。



 食用じゃない魚は、時々わたしたちの村へ交易をしに来ます。

 例えば河童なんかはよく見かけます。

 彼らの顔にはわたしたちを見下しているのがありありと出ているのです。

 いつも片方の水かきで嗅覚器官を抑えているのも、わたしたちの悪臭が嫌だからに決まっています。

 本当はこんな気持ちの悪い種族と関わりたくはないけれど、取り引きのため仕方なく来ているのだ、と顔に書いてあるのです。




 きれいになれたらどれほどいいだろう、と何度願ったか知れません。

 食用の魚でさえわたしたちよりずっときれいなのです。

 それが、人魚は他の生き物全てを凌駕りょうがするほどの美しさを持っているというではありませんか。うらやましくてうらやましくてたまりませんでした。


 人魚のような美しい容姿が手に入れられたなら。

 わたしはいつでも、そう願っていました。


 わたしたちが他の種族に嫌われているのも、寄り目気味の友達のお母さんが病気なのも、きっと全部全部この醜い容姿のせいなのです。


 悔しくて地面をジタバタ蹴り飛ばしたこともあります。

 自分の上半身と下半身の境目に小石を投げつけたこともあります。

 だらしなく垂れている自分の胸ビレを噛みちぎろうとしたこともあります。

 片方の足でもう片方の足をボコボコに殴りつけたこともあります。


 けれど、いくら悔しがったって泣いたって、人魚のような美しい見た目を手に入れることは叶いませんでした。

 だってわたしは半魚人に生まれる運命だったのですから。

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